激動の一年が終わったかと思いきや……
大名や旗本から届け出のあった拝借金の申請認可で天明五年があっという間に過ぎ去ろうとしていた。
一番大変だったのは会計基準の明確化だな。どこの家も、いつ何にいくら使ったかの記録くらいは取っていたようだが、未来の会計というものを会社員として多少なりとも経験していた俺にとっては足りないものだらけだ。
目指したのは複式簿記による記帳。例えば土地や家屋を買ったとして、支出だけ記録していくと、単純に有り金が減っただけのように見えるが、実際には買ったものが新たな財産として残る。
その価値は購入時点では購入額とイコールなので、保有資産の総額は変わらないのだから、出ていった額と手に入った額の両面を数字に残し、双方の額が一致するように記録しないと、一つの組織としての財務状況は正確に把握できない。
とは言っても、前世で俺は経理部門で働いたこともなければ、簿記の資格を持っていたわけでもない。あくまで一社会人としての一般的な知識の範囲内で簿記や経理を理解しているだけなので、詳しく教えるのは難しいなと思っていたのだが、意外なところにヒントはあった。それはオランダ商館だ。
彼らも商売をしているわけだから、経理関係は絶対に欠かせない。そこでどうやって売り上げなどを管理しているかと問えば、それは所謂複式簿記のシステムを活用していた。カピタンが言うには、この記帳法はルネサンスの頃、ヴェニスの商人たちが始めたものだという。余談だがヴェニスは英語読みで、イタリア語だとヴェネツィア。オランダ語ではフェネーツィアと発音する。
そして商館で簿記に関する書籍を所有しているとのことだったので、早速写本を行い、日本語訳を始めたというわけだ。それを手掛けたのは三旗堂で学ぶ、かつての弟子たち。おかげで思ったよりも早く複式簿記による財務管理がすすみそうだ。外注万歳。
その間俺は何をしていたのかって? 届け出の審査もそうだし、大名家に新しい作物や農法の指南をしたりと色々やっていたし、中之条の様子を見に行くこともあったからな。
俺は勘定所参与という役に就いているから、その間参勤交代の必要は無いのだが、羊の生育や羊毛織物の生産、そして平賀源内さん考案の北国仕様の家屋建築などの状況を確かめたかったのだ。
後々蝦夷地開拓を本格化する際に必要なことだとして、江戸から比較的近く、かつ冷涼で冬になると雪も多い吾妻郡を実験地としていたので、幕府の御用として領国へ赴く形にした。参勤交代ではないので、必要最低限の随行員と旅支度だけで向かったので、大名とはいえ身軽なものだ。もっとも、参勤交代であったとしても、幕府が過度な行列は控えるようにとお達しを出しているので、無駄な金を使う気は無いですがね。
「権中納言任官、真におめでとうございます」
この人生になって初めてと言える激務の一年が終わろうとしていた年の瀬。中之条から戻ってきた俺は、こちらからの報告と、先ごろ権中納言に叙された治察様へのお祝いを申し上げるため、種を連れて田安屋敷を訪れていた。
「苦しゅうない。余が中納言になったところで、治部が我が義弟であることに変わりはない。あまり肩ひじ張らずにこれまでと同じように頼む」
今までは兄のような感じで治察様と呼んでいたが、亡き宗武公と同じ官位になったから、これからは治察公とお呼びしたほうがいいかもな。なんて思っていたら、治察様に先を越された。無論外では公呼びせねばならんが、内々ならばその気遣いは無用ということだろう。
「思えば色々なものが大きく変わった一年であるな」
「御意にございます」
この年、一番大きく変わったことといえば、年始の挨拶であったとおり、夏に将軍家治公が隠居し、徳川宗家の家督を家基様が継いだことだ。その後数か月遅れで、家基様は朝廷から正二位内大臣兼右近衛大将に叙され、併せて征夷大将軍・源氏長者宣下を受け、名実ともに武士の頂点に立つこととなった。ちなみに治察様が権中納言に叙されたのも同じタイミングである。
「将軍家も代替わりし、新たな時代が始まる気がするの」
「御意。此度の拝借金拠出にて、多くの大名家に新しき政策を行き渡らせ、なおかつ帳簿の記載方も改めました。これより後は各藩の会計もより詳らかに、より明瞭に見えることとなるはずです」
「そのために公儀も随分と金を使うこととなったな」
「そこについては否定いたしません」
人間なんてものは誰しも金は欲しい。それはより良い暮らしを送りたいがため、贅沢をしたいため。そのために働くわけだ。その活力が経済の活性化につながる。
とは言うものの、この伸長を野放しにしていると、どこかで悪さをする者が現れる。法の抜け穴を見つけては、黒に近いグレーな手段で金を稼ぐことになるので、為政者が為すべきことは、ここに一定の歯止めとなるものを設けつつ、真っ当に働く者に正当な益を享受させることだ。それでこそ公正な税の徴収となる。
しかし、これまでの政策は基本的に口を出して上から押さえつけるだけ。もしくは運上金・冥加金欲しさに承認に利権を与えるのみなので、時代が経つにつれ庶民も知恵が回るようになってきたから、これだけで言うことを聞かせるのは難しくなってきた。
だからこそ幕府が自ら資金を出し、経済をコントロールする主体となって動くのだ。口を出しまくる代わりに金もちゃんと出すということ。これであれば文句は出るかもしれないが、決定的な反発を受けることは少ないかと思う。
「もともと百の収入であったものが百二十となれば、五割の年貢率ならば収入は十増えますし、庶民も収入が十増えまする。その金を使わせ、さらに発展させるのが、富国の第一歩にござる」
「金はいくらあっても足りることはないからのう」
「ええ。来年のことを考えると、まだまだ金が足りませぬ」
来年に何があるかと言うと、まずは将軍家基公就任の祝いだ。どうして今年のうちにやらなかったかというと理由は二つあって、一つは飢饉からの復興に全力を注ぐという意思表示のため。そしてもう一つは来年に都から王女様が輿入れされるためだ。
そのお相手は閑院宮典仁親王の第二王女孝宮様という、今上帝の異母姉にあたる方。婚姻の約束自体は五年以上前に整っていたものの、その後先帝の崩御に伴い弟宮が天皇に即位するなど、朝廷側がバタバタしていたかと思えば、それがひと段落したら今度は浅間山の噴火や大飢饉の発生でそれどころではなくなったという事情があったのだが、宮様は明和六(1769)年生まれの来年で十八歳。この時代の感覚で言うと、年齢的にこれ以上先延ばしにするのは難しく、いよいよ来年の春に江戸へ下向される手はずとなった。
というわけで、こちらも婚礼の儀式やら何やらで確実に金が必要なので、だったら将軍就任と婚礼をまとめて一度に行って、これ以上ない祝いとすべきではないかという話になったのだ。
……それを提言したのは何を隠そう俺なんだが。
「武士が金儲けに走るなどもってのほかと蔑視する者もおりましょうが、金がなくては権威も体面も保てませぬ。朝廷や公家たちを見れば明らかでしょう」
「であるな」
「オランダ交易などでも新たな産物を考えておりますれば」
「それは治部のことゆえ案じてはおらぬが、その輿入れでひとつ気になることがあってな」
「何でございましょう」
「宮様付きの者の中に、冷泉家の姫がおるそうだ」
冷泉家……まさか……
「それは……」
「お主を東の瀬と詠った女子じゃ」
このとき、俺は横にいる種の顔を見なかった。いや、見なかったのではなく見ることが出来なかった。
だって、見なくても横にいて黒いオーラがひしひしと感じられるんですもの。
「お兄様、それを私が同席の場で仰られるとは、面白がっているようにしか思えませぬが」
「他意は無い。宮様付きということは、おそらくは上臈御年寄となるべく下向したものであろうから、心配は無用であろう」
上臈御年寄をはじめとする、大奥でも位の高い女性たちは、生涯未婚で主に仕える。だから綾子殿も婚姻はせず、孝宮様に終生お仕えするわけだから、「この泥棒猫が!」みたいな展開にはならないはずだが、種は納得していないみたいだね。
「思惑はどうであれ、殿を追いかけてきたのは事実。江戸まで来られたそのお覚悟は尊敬に値しますが、藤枝治部の妻の座は譲りませぬよ」
「種、別に私を追いかけてきたわけではないと思うが」
「そうだぞ種。それにお主、藤枝治部の妻と申すならば、早う子を生さぬか」
「中納言様、それは……」
「分かっておる。今までは言わずにおったが、祝言を挙げて早四年。種も二十歳じゃ。子は授かりものと言うが、治部も二万九千石の大名となったのだから、早う子を生さねば周りの者が気にすることも事実ぞ」
実は、今年に入って俺の周囲にご懐妊の話題が多くあった。
まずは治察様。御簾中の因子様が三十路を迎えたのを機に側室をお迎えになり、この方がご懐妊したかと思えば、それから程なく因子様も三番目の御子をご懐妊された。三十過ぎたらお褥御免はどこへ行ったのかって? 田安家は体幹トレーニングとバランスの取れた食事で皆健康体なので、三十過ぎても若々しいのだとだけ言っておこう。どこが若いのかは想像に任せる。
次に俺の弟子の大槻茂質さん。仙台藩医・工藤平助殿の長女綾子殿と夫婦になったかと思ったら、それから一月も経たずにご懐妊だ。色々と早えな。
そして松平定信様。白河藩に婿入りして十年、元から体が弱く、病気がちであった正室峰子様との間に子を生せずにいたが、俺監修、藤枝家の侍女・綾の指導による健康法のおかげで体調もすこぶる良くなり、ついに今年、夫妻念願の懐妊と相成ったのである。
最後は長谷川平蔵殿……なんだけど、こちらはちょいと訳ありで、お相手はアイヌの娘さん。あれだ、現地妻ってやつよ。やることやってれば、そりゃあ子供も生まれますわって話なんだけど、相手が相手なので江戸に連れてくるわけにもいかないから、平蔵さんは毎年いくらかの生活費を相手に渡すってことで子供の面倒を母親とアイヌの村の人たちにお願いするということになったようだ。この時代にあっては子供が生まれようが、そんなものは知らんと無視を決め込む男も多いのだが、それから見れば平蔵さんは一応の責任は取ったと言えるだろう。
「余も越中も、お主が提唱した健康法やらのおかげでありがたくも子を生せたが、肝心のお主たちの間に子がおらんではな」
治察様は因子様が子を生せず悩んでいたとき、俺がストレスの話をして、周囲の善意からくる呼びかけも受け取り方によっては重圧となることを学んでいたので、これまでは何も言うことは無かったが、種が俺の正室であることを強調してきたこともあり、思わず口に出てしまったようだ。
「ふふ、ふふふふ……」
「種、何がおかしい」
「お兄様の心配はごもっともでございますが、本日私もこちらへ同道して参ったのは何故だとお思いですか。中之条の話をご説明するならば殿だけで十分。お兄様の中納言叙任を私がお祝いするならば、年始のお伺いでも十分でございましょう」
「つまり、それは……もしや?」
「はい。このお腹の中に殿の稚児がおりまする」
はい。自分の口で言うのも面映ゆいが、種が妊娠しました。無論その種は俺のものだ。
その報告は先日江戸に戻ってきて最初に聞かされた。俺が中之条へ向かったときは特段異変は無かったが、日を追うにつれ体が怠くなったり吐き気をもよおすことが増え、月のものも来なかったことで、もしやと医師に診せたら、見事ご懐妊だったというわけだ。
「そうか。そうかそうか。治部も忙しい中、やるべきことはやっておったのだな」
「中納言様、言い方がよろしゅうありませんぞ」
「何をどう言い換えようがそういうことであろうが。いや、実にめでたい。我が子と越中の子、そして治部の子が同じ年に生まれるとは、きっと来年はもっと良い年になろうぞ」
まあ子供が生まれるってのは慶事に違いないが、来年がもっと良い年になるかは何とも言えないな。
飢饉は一旦落ち着いたが、いつまた発生するかも分からないし、復興途上でそれが発生すれば今以上に経済は落ち込むし治安も悪くなる。
今年は個人的に大忙しの一年であったが、来年も変わらなさそうな気がする……
<第七章 治部、激務に放り込まれる・完>
いつもお読みいただきありがとうございます。これにて第七章本編は完結で、次回、蝦夷地開拓の現地責任者として奮闘する長谷川平蔵視点の話といつものごとく人物紹介で章終わりとさせていただきます。
また書籍版も好評発売中ですので、もしよろしければお買い求めいただけると幸いです。
そして大事なお知らせです。
本作はカクヨム様にて先行で投稿を始め、なろう版は後追いの形を取っておりましたが、あちらは現在週1ペース(色々調べものが多いのでそれ以上のペースではムリっす)なもので、そろそろ話数が追いついてまいりました。
おそらくこのペースだと第八章のうちに追いつくかと思われます。
追いつくまでは週3(月・木・土)で掲載を続けますが、以降は週1の掲載となりますのでご了承ください。
またそのときが来ましたら改めてお知らせしますので、よろしくお願いします。