大奥ってめんどくさい
「伊奈が大奥にそのようなことを申したか」
大崎殿から話を聞かされた俺は、取り急ぎ今後の方針を確認する意味も含めて事の次第を報告すると、皆一同にやはりかという顔をしていた。
「勘定所の重責にある者がそれでは話にならんな」
特にこれに憤慨したのは田沼公。伊奈殿は浅間山噴火の折、大したことはないだろうと勝手に判断して報告を遅らせたという大失態を犯しており、あの時点で本当は処罰されるはずだったのだからな。
急を要する事態であるからそれは後回しにという俺の進言もあって、そのときは一時的に不問としていただけの話。にもかかわらず、それを忘れてしまったかのように、上様や家基様の方針に反するような動きをしているわけだから、それは怒るのも無理はない。
「やはりあのとき責を問うべきであったな」
「それはそれにございます。実際に各地の村へ触れを回すにも代官たちに動いてもらう以上、伊奈殿に動いてもらわねばなりませんでしたゆえ」
「しかし、それがあってからのこれだぞ」
「此度の真意も定かではございませぬ。もしその考えに見るべきものがあれば、取り入れるはやぶさかではないと思いますが」
「大奥に口添えをさせた時点で理由など聞くまでもあるまい」
まだ断定するには早いと思い、伊奈殿の口からその真意を問うまではと言ってみたものの、田沼公の言うことには全面的に肯定せざるを得ない。
「本来ならば大奥は政に口を挟む権限など無いのだ。思い違いも甚だしい」
「主殿、それをお主が言うか?」
家基様の冷静なツッコミに思わず吹き出しそうになった。というのも、つい最近まで大奥の力を政治に利用していたのが、何を隠そう田沼公だからだ。
そもそもで言えば、大奥の役目とは将軍の世継ぎを産み、それを育て、将軍家のプライベートを守ること。未来だったら女性蔑視とか言われそうだが、この時代ではそれが最大の存在意義なのである。
将軍家の儀礼面を司る役目もあるとはいえ、政治へ介入する権限は無いはずだが、将軍も人間であるから、普段世話になっている人間の声には耳を傾けざるを得ないし、それが数千人規模で揃っているとなると、そう簡単に無視は出来ないだろう。
なんでそんなに多くの人間が働いているのかといえば、跡継ぎは多ければ多いほど良いとされる時代にあって、御台所のほかに側室も多く抱える必要があり、それに伴い彼女たちの世話をする人間の数も揃えないといけないからだ。
……個人的には三代様が若い頃は女性に興味を示さなかったとか、五代様に男子がなかなか生まれなかったからとかで、側室の数がどんどん増えていったのが原因ではなかろうかと思っている。
そんな大奥に改革のメスが入ったのは八代吉宗公のとき。将軍就任にあたり支出削減のため、大奥の女中を大量に解雇してスリム化したのだ。
そこで次の仕事先もすぐに見つかるだろうからという理由で、美しい娘から優先的に解雇したという話は有名な話だ。逆に言うと、そのとき解雇されなかった人って、直接ではないにせよ「お前は美人じゃない」と言われているようなものだから、心中や如何にといったところだが、それはさておき、その際も大奥上層部の経費に手を付けることはなかったらしい。
と言うのも、吉宗公の将軍就任に際し大きな影響力を及ぼしたのは、六代家宣公の御台所天英院様や七代家継公の生母月光院様を筆頭とする大奥の意向が強くあったためであると推測される。さすがの吉宗公もそこには配慮せざるを得なかったといったところか。
そんなわけで以前より規模は縮小されたとはいえ、大奥とは隠然たる力を持った勢力であることに変わりはない。将軍でさえそれなのだから、家臣である幕閣が何らかの忖度をせざるを得ないのは致し方ないところかもしれない。だからというわけでもないが、田沼公は政策をスムーズに実行するため、これまで大奥に色々と配慮を重ねてきたからな。
「あのときはそうせざるを得なかった故にございます。敵は少ないほうがよろしゅうございますからな」
「状況によりけりか」
「御意にございます」
そもそもが軽輩の出で、家治公の信任のみを拠り所とする権力基盤であるから、当時はその出世を快く思わない他の幕臣や大名、そして今は亡き一橋などをはじめとする一門勢などと抗するには、大奥の協力が不可欠だったのは間違い無い。田沼公もそれはよく分かってはいたが、今の口ぶりを聞く限り、不本意でもあったのだろう。
「まあ話を聞く限り、我らに口出しする気は無いようであるな」
「高岳殿も状況は良く理解しておるのでございましょう」
例えばだが、将軍に後継の資格を有する子が複数存在するとなると、それぞれの子には傅役の武士が配される。彼らが自身の仕える若君の栄達を望むのは自然な話だが、それは行きすぎると多かれ少なかれ後継争いという話につながり、そしてそれは男たちだけの話に留まらず、大奥にも影響は及ぶ。
傅役と同様に、それぞれの若君に仕える女中たち、そしてその生母たる側室に仕える女中たちも、主の、ひいては自身の栄達のために権力争いに身を投じることとなり、各々が手を組み複雑な構図が出来上がる。
そういう状況であれば、味方の利になるようにと大奥が横やりを入れてくる可能性は十分にあるが、現実には家治公の次は家基様しかいない。この先仕える主が確定しており、その人物が将軍になるに際して最初の大仕事と定めたことに対し、初手から口出しすれば心証が悪くなることは明白であり、天秤にかけるまでもないという判断のようだ。
「なにやら面白くありませんな」
「治部は不満か」
「御政道に異を唱えるつもりが無いならば、伊奈殿に対しきっぱりとお断りになればよいだけ。それをわざわざ伝えてくるあたりは意地が悪い」
そう言いつつも、自分でその理由はなんとなく把握はしている。おそらくだが、責任は大奥ではなく、申し出を拒否した藤枝治部にありますよと伊奈に示すため。一方で俺に対しては、こんな申し出がありましたけど私たちは受けませんからねと恩を着せるため。そんなところだろうが、なんとも言えない婉曲的なやり口だな。
「それが大奥よ」
「そのようですな」
「治部は大奥が嫌いか」
「好きではございませぬな」
「大納言様、それはそうでしょう。己の妻が命を落としかけた場ですからな。それを申すならば兄の私も同じですが」
かつて種が毒を盛られ、生死の境を彷徨ったというのに、大奥の責任は全くと言っていいほど問われなかった。当然そこには高岳殿の名も含まれる。
さらに言えば、俺がどういう人間なのか分からないはずがない。それを承知した上で、素知らぬ顔で話を持ちかけてきたのだから、面の皮が厚いというかなんと言うか。
「案ずるな。此度の仕置に関しては我らも承知の上で決めたことよ。大奥に口は出させん」
「されば、伊奈については」
「それは治部に任せる。奉行と共に勘定所の協議においてその真意を質すべし」
「御意」
「もっとも、大奥に良い顔をされなかった時点で気付いておるやもしれぬが」
少しはまともな理由があって口添えを頼んだのであればいいなあ。いや、十中八九無いのは分かっているけど……