認識を改める一大転機
「さて、既にこれだけの数の願いが届いておるわけだが」
奉行たちが車座になる中央には、各地から届け出された拝借金の願いの山。その数はおよそで百を超える。
受け入れを伝えられたのが正月。そしてそれにあたり必要な記載事項がお触れとして出たのが先月のこと。この僅かな間でこれだから、どこも資金繰りには苦労していることが分かる。
「しかし、残念ながらこれまで届けられた願い出の中には、これといったものはごさらぬ」
「桑原殿はそうお感じになられたか」
「取るに足らぬと言わざるを得ませんな」
拝借金は基本的に無利子。被害を受けた藩は復興資金を要するが、普通に商家から借りては利子が付くから、これを元手にすれば利子分だけでも負担が軽くなる。だからこそ願いが殺到しているわけだ。
しかし、今回はこれまでのような既存のインフラ等の復旧のみならず、あらたな資金源となる産業の育成なども含めての利用計画が求められる。そして、現状それを成すにはこれだけ資金が足りませんという証明、後に言う貸借対照表とか損益計算書みたいなものを求めている。
財務や経理が未来のようにシステマチックではないので、全く同じようなものは出せないし、出されても俺も簿記の資格は持ってないので細かいところまではよく分からんから、あくまでこの時代基準で厳格な数値をという話だが、それを差し引いても今のところ提出されたものは、お粗末な仕上がりとしか言えない。
「たとえばだが、この藩などは肝心なことにはほとんど触れておらぬ」
「左様ですな。のっけから当家は三河以来徳川家に忠誠を尽くし云々と」
「書の大半が家の歴史ですな」
「要は由緒正しき譜代である我らを将軍家はお見捨てになられませんよなと」
「ほぼ強請り集りですな」
五人の奉行が口々に酷評するその藩の願いに書かれた財務諸表的な記述は、石高から収入はおよそこれくらいという、所謂どんぶり勘定のものでしかなかった。
「石高だけで割り出すだけなら勘定方が計算すればよいだけじゃ」
「ですな。必要なのは現時点でどれほど年貢による収入が落ちているかと、運上・冥加による収入や家臣への俸禄や藩政に必要な資金が如何ほどかを聞いておるのに」
「借金のほうは事細かに書いてますな」
「とはいえ、だからこれだけ金を貸してくれと言われてものう」
その上で、この願いには借りた金をどう活かすかは書かれていない。となると、借りた金は借金返済に充てます! としか受け取れないよな。
「ほとんどの願いが似たようなものじゃ。この藩が特別おかしなわけではないというのが、頭の痛いところだな」
「それでもいくつかは見るべきところのある願い出もあります」
「某はこれが良く書けておると存じます」
そう言って久世殿が取り出したのは、出羽米沢藩の願い出。鷹山公のところだな。
他にも財務状況などを事細かに記し、何に資金が必要なのか明確に示している藩もいくつかある。この短期間でお触れに沿った内容を改めて調べ上げてまとめるのは、時間的に不可能に近い。となると、それより前から領内の状況をよく調べ上げて把握していたという証だろう。
特に上杉家は内情をよく知らぬ庶民にまで貧乏だと知れ渡っているから、銭の一枚から勘定はキッチリしているのだろう。
それを指南したのが俺なのは内緒だ……
「しかし……しっかり書けておる願い出のほとんどが外様か」
「譜代とこうも差が出るとはのう」
「慢心……でござろう」
譜代と外様の違い。簡単に分けると徳川に臣従したのが関ヶ原の合戦より前か後かというだけだ。そしてそれが未だに暗黙の了解として、立場の違いを明確にしている。
幕閣の重責を担うのは譜代の者のみ。外様は四位にある大藩の主であっても、幕政に関与することはない。それが故に、何かあったときは外様より譜代が優遇されるし、逆に面倒な手伝普請などは外様に押し付けられがちだったりする。
だからこそ、今回の拝借金でもなんだかんだと条件を付けられつつも、譜代を優先してくれるという希望的観測があったのだろう。そうでなければ願い出の冒頭から自家の歴史をつらつらと書き記したりはしまい。
「譜代と外様に明確な線引きは必要かもしれませぬが、そこだけに拘るというのは此度の趣旨を理解しておらぬと言わざるを得ませぬ」
関が原が1600年のこと。そして今は1780年代だ。外様だって徳川に臣従して既に百八十年もの時が経っている。譜代の中には徳川が三河から遠江、駿河と版図を拡大する最中に臣下となった家も多く、彼らと外様の臣下歴で言えば、約二百年のうち僅か数十年の差しかないのだから、それだけをもって優劣を論じるのは無理があると思う。
「中々に暴論ですな」
「無論区別を取り払えとは申しませぬ。そんなことをすれば私の命が危ういですからな。されど公儀の命に従い、このように考えてみましたと述べておる藩もあるわけで、外様でも徳川に忠実な者は遇するべきかと」
「それはつまり、裏を返すとこれらの譜代は」
「これまで公儀が出してきた触れの意味も解しておらぬと見えますゆえ、果たして忠義の臣と呼べるか怪しい」
奉行たちは苦笑しているが、彼らも幕閣の中枢にあって、指示を聞かぬ地方勢力というのがどれほど面倒な存在かと分かっているはず。だからこそ今回の一件でその認識を改めてもらわねばならないのだ。
「となると、これらは全て却下ですかな」
「けんもほろろにでは彼らの面子も立ちませぬゆえ、そこは我ら勘定方との折衝ですな」
申請の採択なんてのは、ダメなものをバッサリ切り捨てるのが一番早いけれど、それだと特に譜代たちが黙ってはいないだろうから、手間はかかるけど一件一件を精査し、都度ダメ出ししていくしかないな。
簡単に言えば、ここの記述では申請が通らないから、こうやって直してくださいを繰り返す。当然だがこうやって直しての中身は、幕府が進めようとしている新たな政策を履行してもらうということだ。
「骨の折れる仕事でございますな」
「故に奉行を一人増やしもうしたし、勘定方も増員に進めておりまする」
「某は生贄でございましたか」
「なんの。柘植殿の実力を買われてのことにござる」
なんとなく予感はしていたけど、改めて明言されたことで、柘植殿が激務に放り込まれたという顔をした。
それを言うなら俺も同類ですぜ。
「当然ながら、我らの助言を容れて中身を直してからの願い出は、最初からその仕上がりで出してきた藩より序列は後ろになりますし、拠出する額も手直しの度合いに応じて減じます」
「それでも、これまでは門前払いであったものが幾ばくかでも受けられる可能性があるとなれば」
「諸侯も少しは本腰を入れますかな」
「大事なのは本人たちに考えさせることです。その中からこれと思う案が出てくれば、公儀としてそれを新たに取り入れるという良い循環が生まれます」
新たなことを始めれば一律に成果が出るわけもなく、土地によっては不具合も出てくるだろうし、一方で大半では失敗したものの、ある特定の条件下であれば上手くいくなんて事例もあるだろう。
幕府としては各藩や天領での政策の進み具合を注視し、悪いやり方は早急に改め、良き案をどんどんと取り入れていく。それはつまり、未来で言うところのトライアンドエラーとか、PDCAサイクルと呼ばれるそれになるが、幕閣の人間だけでそれを考えていくには限界があるので、実際に担う者たちの声を吸い上げることが大事になるはずだ。
「願い出に対する勘定方の基本的な姿勢は以上にござるが、もう一つ大事なことをお話せねばなりません」
「何でござろう」
「おそらくだが、あの手この手で我らに接触を図ろうとする者は現れます」
「そういうことでござるか」
勘定奉行を担う者となると、これまでの実務経験は相当に長い。皆まで言わずとも、それだけで俺が何を言いたいか理解したようだ。
要は裏ルート経由で「どうぞよしなに」というお願いだ。藩の江戸家老あたりが直接陳情にくることもあれば、権力者経由で空中戦を展開されるパターンもあるだろう。
「袖の下は言わずもがなですが、酒の席とか芸者遊びなどのお誘いにはお気をつけくだされ」
「拝借金の願い出は勘定所のみにて受けるとの触れはその意味も込めてですな」
「左様。此度は上様や大納言様の肝いりでござれば、滅多なことは出来ませぬ。田沼公にも今回ばかりはよろしくお願いいたすと言上しております」
「聞いております。御老中が狼狽しておったとな」
松本殿は田沼公に引き立てられた身なので、今でも交流が深く、先日俺にそう言われて「なにもそこまで念押しせんでも……」とボヤいていたのを聞いたようだ。
「これまでその役は一橋が多く担っておりましたが、今はもうおりませぬし、田安家は受けることはしませぬゆえ、御老中が一番危険なのですよ」
「……まあ、今までが今まででしたからな」
「されど治部殿。一橋家は無くなりましたが、もう一つ厄介な存在がおりますぞ」
「承知しております。御老中に念押ししたのはそれもあってのことです」
そう、もう一つ。こういうときに口出ししてくる厄介な組織があるのよ。
「高岳様より言伝を承っております」
その組織の名は……大奥。