奉行と参与の大仕事
勘定所とは財政を一元的に管理する、幕府の機構の中でも最も重要な部署である。
財政管理と一言で言うが、その所掌する範囲は広く、徴税事務から各部門との予算折衝のほか、旗本御家人の給与支給、地方の天領から上がる帳簿や、武士の資産管理台帳にあたる分限帳の検査など、およそ幕府の収入となるもののほとんどを所掌しているほか、税の源となる金座や銀座、株仲間の監督、五街道や山林の管理、河川治水、長崎貿易の管理や経済農政対策、さらには金目に関する訴訟も請け負っている。
未来で言うならば、財務省(&国税庁)をベースに、金融庁(金座や銀座、株仲間の監督)、国土交通省(五街道や山林の管理、河川治水など)、農水省に経産省(貿易管理、経済農政対策)、法務省(民事裁判)の仕事の一部分もしくは大部分も一緒にやっているようなものだと言えば、どれほど面倒な組織かお分かりになるだろう。そんなわけで、勘定所は本丸にあって中央の財政を担う御殿勘定所と、大手門の横にあって地方を担う下勘定所の二ヶ所に政務場所が分かれており、さらにその中でも次のように部署がいくつかに分かれている。
――御殿勘定所
・御殿詰…幕府内の各部門との予算折衝、諸経費の出納、米相場や分限帳の検査とそれに伴う書類決裁担当
・勝手方…金座・銀座・株仲間の監督、旗本御家人への給与支給担当
――下勘定所
・取箇方…天領における徴税、経済事務担当
・道中方…五街道の管理業務担当
・伺 方…運上金・冥加金、山林管理などの監督・経理処理担当
・帳面方…帳簿の検査、及び決算書類作成担当
そんな巨大組織である勘定所のトップが老中支配下の勘定奉行で定員は四人、役高は三千石。行政・司法・財政などを担う役方の職の中では、江戸町奉行と共にトップクラスの高位職であり、幕臣が昇進していく"すごろく"の上がりに近い位置にある。
――天明五(1785)年四月
「さて、皆様お揃いでございますな」
年始の場にてお触れのあった拝借金の申請が始まると、多くの藩が我先にと申請を届けに推参し、現在勘定所は大忙し。そんなわけで家基様の将軍位継承に先立ち、俺は新たなお役を与えられ、これに対応することとなった。それが勘定所参与という役職だ。
参与と言うと、地方自治体だと地域によって違うが、専門事務を担当する課長級とか部長級の職位として置かれたり、定年を迎えた局長級が再雇用でその職に就いたりなんてこともあるが、俺の場合は独立職で老中と勘定奉行の縦のラインに割って入るものではないので、「内閣官房参与」みたいな、特定の事務における有識者の相談役といった色合いに近いかと思う。
元来、家基様は俺を勘定所の担当に据えるつもりだったようだが、勘定奉行は重要な職とはいえ旗本の就く職だ。大名となってしまった俺がそこへ入るわけにもいかないし、かと言って奉行の上に立って取りまとめるというのもおかしな話になるので、表向きは奉行たちに助言する立場となる。
裏向きはって? そら今回の経緯を考えたら、拝借金申請の審査担当だな。助言と言いつつ、俺の基準である程度可不可を決める立場になるだろう。
というわけで参与就任にあたり、奉行たちと方針のすり合わせを行なうために集まってもらった。
「桑原伊予守盛員にござる」
一人目は桑原殿。五百石の旗本当主を継ぐと、西の丸書院番、小十人頭、目付、作事奉行と昇進を重ね、安永五(1776)年から現職にある。今の奉行たちの中ではキャリアも年齢も最年長で貫禄十分の方だ。
「桑原殿、そう威圧せずとも」
「元よりこういう顔じゃ。親子ほどの年の差とは申せ、二万九千石の当主に対し礼を欠くわけにはいくまい。見知った顔ではあるが、お主たちも改めて挨拶せよ」
「では、赤井越前守忠晶にござる」
「松本伊豆守秀持にござる」
桑原殿と息の合ったやり取りを見せるのは、赤井殿と松本殿。赤井殿は桑原殿と同じく、様々な職を務め、天明二(1782)年に京都町奉行から現職に就く、言わば旗本のエリートなのに対し、松本殿は軽輩の出ながらも田沼公に才を認められて勘定方に抜擢され、勘定組頭、勘定吟味役と勘定所の中で昇進を重ね、安永八(1779)年に奉行に就任して五百石の知行を受けることとなったのだが、これは江戸時代にあってはかなり異例の出世と言える。
この時代、奉行のような高位職は旗本の中でも禄高や出自の高い者など、任じられる者にはある程度の格が求められるし、同じ部署で持ち上がりということも無い。
例えばだが、町奉行所の同心や与力が奉行に上がることはないし、書院番や小姓組などの番方でも、番士から組頭、組頭から番頭へと直接上がるような人事はあり得ないのに対し、勘定所だけは数こそ少ないが平役から奉行まで登り詰めた人物が存在する。それだけこの部署が実務能力を重要とする場所だという証だ。
「久世丹波守広民にござる」
「柘植長門守正寔にござる」
「ご両所と改めて同じ仕事に就けること、光栄に存ずる」
「いやいや、こちらこそ天下にその名を轟かせし治部少輔殿には色々とご教示いただきたい」
四人目、五人目は久世殿と柘植殿。柘植殿に関しては覚えておいでの方もいるかもしれないが、俺が留学した際に長崎奉行として色々と面倒を見てくれた方だ。
そして久世殿は柘植殿の一年後に長崎奉行に就任したので、俺の長崎留学とは入れ替わりの形であちらに赴任されたのだが、その後もカピタンとの面会や注文品の受け渡しなどが頻繁にあったので、色々とお世話になった。
久世殿が勘定奉行に就いたのは昨年。そして柘植殿はつい先日、俺の参与就任と時を同じくしてのこと。奉行の定員は四人なのだが、今回の件で御用繁多になるのは明白だったので、次の奉行就任候補だった柘植殿に五人目となってもらったわけだ。
これで奉行職との顔合わせが済んだわけだが、実を言えば改めて挨拶が必要な間柄でもないのよね。
久世殿と柘植殿に関しては長崎奉行時代から十年近いお付き合いで、貿易のこととかオランダ人の待遇改善とか、あとは詳細な西洋情報の収集などを通じて、俺のことは良く知ってもらっているし、桑原殿も柘植殿の前任の長崎奉行なので、その辺の武士と比べても西洋事情には明るいし、最近の状況を鑑みて俺と意見交換することもあった。
そして長崎奉行を経ずに勘定所担当となった赤井殿と松本殿は、長谷川平蔵さんの蝦夷地巡検に際し、赤井殿が江戸にあって後方支援の任に就き、松本殿はアイヌ交易を幕府の直轄で試行する際の責任者として動いてもらっていたので、こちらもまた俺とは関わりが深かったりする。
つまり、ここにいる面子はある程度政策に関しては同じ方向を向いているわけだが、今回は申請の受け入れ方針がこれまでとはガラッと変わっているので、受ける側も今までの慣例に囚われすぎないようにしないといけない。今日はそのための認識合わせだ。
「しかし、拝借金を御老中がよう認めましたな」
「元々代替わりを機にと考えていたようで」
以前の飢饉であれば、被害を受けた大名旗本に拝借金という形で幕府から金を貸し与えていたが、今回に限っては拝借金の申し出はほとんど受理されていない。
吉宗公から家重公の御代では、改革の成果もあって幕府の金蔵は少しずつ蓄えが増えていたが、以降は再び赤字財政が続いて保有資金は目減りするばかり。よって今回はなるべく金を出さないようにという方向で動いていた。
備蓄や飢饉対策を進め、それに従い動くことで被害は抑えられるという目論見があったのも理由の一つとして間違いないが、その中でこの機に拝借金を認める方向に舵を切ったか。それは家基様の将軍継承とつながる。
新たな将軍の治世に移り、政権の安定とさらなる改革の進行を図るには、まずはこれを履行する大名たちの財政が安定しないことには始まらない。代替わりのタイミングでそれを出すことで、新将軍に対する忠誠を誓わせる目的もある。
「されど、これまでの拝借金と大きく違うのは、苦しい台所事情を補うためではなく、新たな産業を興すなり、各藩がこの先も安定した領政を敷くための資金としてでござる」
金というものは、貯め込んでいたところで不意の出費がかさめば出ていくものは出ていく一方で、収入は意図的に改善を図らないと入るものが入らなくなる。政府とはそういうものだ。
だからこそ新たな収入財源の確保が重要になるが、単なる増税だけでは庶民感情が悪化するのは古今東西変わらない話。しかも各地の年貢率は年々上がり続けて、そろそろ農民の首が回らなくなってきている。農地を捨てて都市へと流れ着く農民が増えているのがその証拠である。
そこで為政者は何をすべきか。簡単に言えば経済を回す、もしくは庶民の経済活動がやりやすい環境を作るなどして、その恩恵を庶民に行き渡らせること。そうすることで消費を増やし、その売上やらなんやらに税を付与して国庫に入れさせるということだ。
金は天下の回りものという言葉がある。原典ははっきりしないし、少なくともこの時代では聞かない言葉なので、もう少し後世に初出となったものかもしれないが、要はそういうことだ。貸し出す金は生きた金として後の循環を促す使い方をしてほしいので、借りたい者はきちんとした計画を出してくれということ。そして、それを精査する勘定方もしっかりとした目線で対応してほしいということだ。
とはいえ、これまでの慣例とは大きくやり方が変わることとなるわけで、それを面倒に思う者が裏ルートを使って……なんて話は絶対にあると思うので、これに対する対応も、奉行たちの総意で線引きをしっかり決めましょうという話なのです。