側にいないよ
――時は少し遡り、天明四(1784)年秋
「跡目をお譲りになられると」
ある日、いつもなら西の丸の家基様の元へ向かうところ、その日の俺は内々に呼び出しを受けて本丸の黒書院に通されることとなった。
以前に伺侯席の話でも触れたが、黒書院は将軍が臣下と面会する際に用いられるもののうち、限りなくプライベートに近い用件で会うといった機会に使用される。
となると面会の相手は将軍なわけだが当然サシではなく、そこには家治公のほかに、田安家の治察様や田沼公をはじめとする御老中方、そして俺と同じく呼び出しを受けた松平定信様も同席しており、俺が部屋に入って襖が閉じられると、内々の話であるがと前置きされ、そのことを聞かされた。
状況が状況なので、物陰からドッキリの札を持った茶坊主が現れて「テッテレー」みたいなことがあろうはずもない。
「大納言様は」
「無論ご承知の上だ。御三家、清水家にも内諾を得ておる」
先程黒書院はプライベートな面会に使うと言ったが、これは将軍の個人的な用件という意味のほかに、まだ表に出すことの出来ない重要案件も含まれている。今日の用件が後者だということは確実だが、肝心の家基様がいないので確かめてみれば、既に家治公から話はしており、了解済みの話だという。
「今年も昨年に続き稲は不作。飢饉を脱するには至っておらず、御公儀の財政も非常に苦しいが、だからこそ上様はこの機に家督をお譲りにならんとされておるのだ」
「左様。未だ世情穏やかならざるときにあって家督を継承するは、時期尚早という声もあるやもしれぬが、だからこそ大納言に跡目を継いでもらい、新しい時代が始まると天下万民に示すのだ」
「して、何故にそのような大事を公となる前に私に?」
「治部、とぼけるのも程々にせぬと要らぬ腹を探られるぞ」
そこまで決まっている状態で、定信様だけではなく俺も呼ばれたということは、おそらくそういうことだろうなとは思いつつ、念のためにと確認してみれば、治察様にやんわりと窘められてしまった。
治察様曰く、今回の飢饉は過去のものと比べても類を見ない範囲と期間で不作となっているにもかかわらず、それでもなんとか餓死者の数を抑え、米価高騰にあっても大都市の混乱が防げているのは、家基様が農政改革を提言してくださったおかげだと言う。
「それはつまり、治部、お主がいたればこその成果よ」
「勿体なきお言葉」
「山城、越中、治部。五年後十年後には、其方らがそれを担うときがやってくるであろう。此度の家督継承はそのときのための準備じゃ」
治部は俺のこと。越中は定信様のこと。そして山城とは田沼意知殿のことだ。以前は大和守であったが、今年になって山城守に転任となられたのだ。律令国の格で言うと大国の大和が上なのだが、大昔の基準にあまり意味は無く、今となっては帝のおわす山城国のほうが偉そうな感じはする。
そして、将来を託す人物として俺を含む三人の名が上がったが、この数年で譜代の家臣たちの中にも将来有望と言われる人物の名がチラホラと上がってきた。
以前、俺に武蔵忍城を与えるという話が上がったとき、家基様には「お前は一生側近として働いてもらうからね(意訳)」との言葉を頂戴したが、それもこれも例の一橋による将軍位簒奪の政変の煽りで、少なくない家臣が改易や放逐、又は自ら身を引くなどして、人材の枯渇が懸念材料にあったからだ。
とはいえ、人間なんてものは時間が経てば成長するわけで、昨今の農政改革やら田沼公が進める経済対策などに触発され、新たな知識や政策を取り入れようと学ぶ若い武士が増えてきた。それが出世のカギと睨んでのことだろうが、そのおかげもあって家基様に代替わりしても、支える人材はそれなりにいるだろうという判断につながったわけだ。
当然最初の頃は経験が浅いので、田沼公をはじめとする老臣の下に付いて政務を学び、いずれ来たるときのためにスムーズな権力委譲を行う。そのためには、一線を退くとはいえ家治公が大御所として健在なうち、そして田沼の爺さんたちが動ける身体のうちに準備をしておくというのは理に適っていると言えば適っているか。
ということは、とうとう俺も正式なお役目が与えられることになるか……
「代替わりに伴い、若い者にも要職に就いてもらう。お主たちがその端緒じゃ」
現時点では、家基様が十一代将軍となられると共に、意知殿が若年寄、そして定信様が老中に任用される手はずとか。意知殿に関しては父親の事業の継承という意味では一番近くに居た人間だし、定信様は東北の諸侯の中で最も優れた飢饉対策を行って名を上げたからな。後見となる家治公や治察様とも近い存在だし、適任だと思われる。
「治部は側用人じゃ。大納言様の御意向である」
そして俺は側用人らしい。側用人って何? というのは冗談だが、俺にそれをやれというのは冗談であってほしいぞ。
側用人とは正式には御側御用人と言い、将軍の側近としてその命令を老中たちに伝えたり、老中の上申を将軍に取り次ぐ役目を担う近侍役の最高位。その始まりは現在常陸笠間藩を治める老中牧野備後守貞長殿の祖父で、五代綱吉公の部屋住時代からの近侍であった成貞殿が任じられたのが最初だという。
この側用人であるが、任じられるのは旗本の就ける最高位の一つである側衆からという場合もあれば、大名当主がそのまま任じられるケースもある。しかし共通するのは、その後出世とか大幅な加増が見込める職ということだ。
最近であれば田沼公も側用人から老中へと出世の階段を上がり、九代家重公に仕えた大岡忠光殿は三百石の旗本の嫡男から最後は武蔵岩槻二万石の大名に任じられた。
さらに過去を遡ると、綱吉公の寵臣として有名な柳沢吉保殿は甲斐一国十五万石の太守にまで上り詰めたし、側用人の初代こと牧野成貞殿も加増に加増を重ね、隠居した頃には八万石にまで所領が増えている。側用人は信任篤い者が任じられる職なので、将軍との距離も近く、必然的に功を挙げ加増されやすいわけだ。
もっとも件の牧野殿は、親しいが故に屋敷を訪れた綱吉公に正室と娘を見初められ、NTRされたとかなんとか。出世したのはその埋め合わせという意味も含まれているかもしれない。
さすがに家基様に種や、将来生まれるかもしれない娘が……というのは想像したくないし、そんな人物ではないと信じているが、親しすぎるというのは、それが正しい人事であったとしても、妬み嫉みの宝庫になること請け合いだ。なにしろ知らん人間からみたら依怙贔屓人事にほかならないからな。
そもそもで言えば、現状嫡子でしかない意知殿が、大名の役職である奏者番を務めているのも異例なのに、さらに上の若年寄だし、定信様は今でこそ譜代の久松松平家だが、吉宗公の孫という出自で、本来御家門が就くべきではない老中職に任じられるのも異論が出るだろう。
そこへ何の職にも就いていない俺が一足、いや、二足も三足も飛んでいきなり側用人ってのは……どうなんでしょうか。信任されているのは素直に有難い話だし、偉くなるのは悪い話ではないが、現時点では贔屓の引き倒しになりかねん。
「相変わらず迷惑そうな顔をしているの」
「いえ、滅相もない」
「分かっておる。織り込み済みじゃ」
「と、仰せになられますと」
「打診しても構わぬが、治部は固辞するであろうと大納言様が仰せであったわ」
以前の経緯があるからか、一瞬の困惑を見てまたかと受け取った田沼公に叱責されるかと思ったが、どうやら家基様の想定の範囲内であったようだ。
「しかし……側用人にしてくださると言うに、断る阿呆がおるとはな」
「しかしながら、私はあちこちを動き回っておりますれば、常に側にはおられぬ側用人というのは如何なものかと」
偉い人たちにしてみれば、貰えるものは貰っとけという話なんだろうが、やろうとしている諸々は、江戸城に腰を据えたままで出来る話ではないのでね。側用人なのに側にいないとなると、職場放棄になってしまう。
「例えば、先日献上いたしました羊の毛織物でございますが、いかがでございましたでしょうか」
「うむ。思っていた以上に温かい。寒い日には重宝するであろうな」
先日のこと、長崎に入港したオランダ船により、毛織物が運び込まれて将軍家に献上された。これまでも献上品として贈られたことはあったが、今回はその効果を確かめるという目的で、実用品を多く手に入れて将軍家や幕閣の方たちに試してもらったのだ。
それは布状の、所謂毛布のようなものであったが、朝晩冷え始めたこの時期、温かい寝具として重宝しているようだ。
「蝦夷地開拓には寒さへの備えが肝要。この毛織物はその策の一つにござる。オランダより仕入れるばかりでは値が張って行き渡らせることも難しゅうございますが、これが我が国で作れるとなれば」
そんなものは家臣や弟子に任せて指揮だけ取れば? という意見もあるだろうが、何しろ新しいことを始めようとしているのだから、現地を直接自分の目で見たいところだし、可能であれば参勤交代という形で中之条に足を運ぶ機会も欲しい。
だから側用人はもとより、幕閣に入るのは時期尚早。もう一度言う、時期尚早。言葉の響きが好きなので二回言ってみた。
「仕方のない奴じゃ。だが実質無役に近いお主がいきなり側用人となるを懸念するはもっともではあるな」
田沼公は半分呆れ気味に話を聞いていたが、一理はあるなといった感じで、それ以上追求してくることはない。
「ならばお主に見合う、今のお主の仕事の役に立つ名分を考えてやる。それならば受けるであろう」
ありゃ……側用人は囮で、本命はそっちか。固辞するのを分かってて、二度は断れないだろうという目論見か。
お役に就きながらある程度の自由行動が許されるなんて役職があるのか? 知らん……
お読みいただきありがとうございます。
本日ついに旗本改革男の単行本発売でございます。
ここまできて「やっぱ無しで」にはならないとは思いましたが、なにしろ初書籍化なもので、自分の目で書店に並んでいたのを確認すると感慨深いものがありますね。
これまでも買ったよとか予約したよとの声を頂いており有り難い限りですが、今後も書籍版を買ってみようかなと思ってくださる方が増えるよう、これからも投稿を続けて参りたいと思いますので、引き続きのお付き合いのほど、よろしくお願いします。