重大発表
「水戸様、ご助力かたじけのうこざいます」
「いやいや。治部ならばあれくらいの返しは考えておったろうが、お主や越中が申したところで隠岐も退くに退けまいて」
治保公の言うとおり、俺や定信様がそれを言えば確実にしこりが残る。残ったところでどうという話ではあるが、揉めずに済むならその方がいいのは確かだ。
「しかし、まさか水戸様までこちらにお出でとは」
「越中と同じように、余も治部に用があるのだよ」
「治部、今度は水戸様を巻き込んで何をする気じゃ」
「巻き込むとは人聞きが悪い。水戸様には鶴千代君に蘭学の指南をと頼まれているのでございます」
鶴千代君は治保公の御嫡男。つまりは次の水戸藩主だ。
なんで俺に蘭学の指南をと依頼が来たかというと、俺が田安家の嫡男寿麻呂様に蘭学の指南をしていたことを聞きつけ、一人に教えるのも二人に教えるのも大して変わらんだろうと頼まれたのだ。
「寿麻呂が蘭学に励んでいると聞いて、鶴千代もいつか跡目を継ぐときのために様々な学問に触れておきたいと言い出してな」
「水戸様と言えば勤王に篤いお家。学ばれるのならば、てっきり儒学や国学などを修められているものとばかり」
「だからこそよ。治部少輔は京に上りし折、その考察を帝がいたくお褒めあそばされたと聞く。なればその者に学ぶは、帝の御叡慮にも叶うものであろう」
定信様が言う儒学や国学とは、後世水戸学と呼ばれるそれであろう。それこそ黄門様こと光圀公が手がけ、未だ完成を見ない『大日本史』の編纂を通じて形成された思想と言える。南北朝のどちらが正当な系譜かという論争にあって、南朝正統論に基づき作られた大日本史の史観が、そこから後醍醐天皇に味方した楠木正成や新田義貞が忠臣で、敵対した足利尊氏が悪者というのが根付いたのもここが始まりと言える。
未来人からすると幕末の尊王攘夷論とか、それを基づいて決起した桜田門外の変などの根底に水戸学の思想が反映されている印象が強いので、苛烈な論調の学問というイメージであるが、この時代ではそんな過激思想とは思われていない。
何故ならば、帝を敬う「尊王」と、夷狄を打ち払う「攘夷」という考え方は、幕藩体制と相反する考えではなく、むしろ幕府も帝は敬うことを疎かにしていないし、敵が攻めてくればこれを撃退するという方針に変わりはない。
では何故、幕末があんなことになったかと言うと、当時の時代背景としか言いようがないかな。
相次ぐ外国船の到来。一方で日本は政治体制に大きな揺らぎが見え始め、今の体制のままでは国を守れない。帝を扶け、国を維持するためには新たなる政治体制によって国を変えていくしかない。そう考えた維新志士たちによって、尊王は尊皇と名を変え、倒幕の大義名分になり、彼らを中心とした新政府が国を作っていくにあたり、南朝正統論が明治から戦前までの間、国の正しい史観として教えられていったわけだ。
これを論じていくと、それだけで一冊の本が出来上がることになってしまうので、これ以上の言及は避けるが、今の幕府には外圧を跳ね返す力は無いと見限られたからこそ尊王攘夷論が討幕につながっていったわけで、ここから数十年の間に諸外国と対等に渡り合うだけの政治体制と国力を養い、正しい海外の知識を保持した状態でこれを迎えるならば、尊王攘夷論が沸き起こったとしても、それが討幕に直結する可能性は低いのではなかろうかと考える。
と、少し話が逸れてしまったが、水戸家が勤王の志に篤いのはこの世界でも常識である。そんな家が蘭学を取り入れることにしたのは、まさに俺の存在が故かもしれない。
治保公も御存知であったように、俺が帝に懐かれたのはそれこそ勤王の士には周知の事実。つまりは帝が俺のやってきた事業とか学問にお墨付きを与えたようなもので、だからこそ水戸藩も甘藷栽培を手掛けるのに藩内で異論は少なかったようだし、そのおかげで今回の飢饉にあっても多くの民が救われたという実績も出来たので、異国の学問であるにもかかわらず受け入れる土壌が育まれたのだと思う。
「水戸様も治部の学問の有用性にお気付きになられましたか」
「実際に稲より実入りが良かったからの。これを植えておらなかったと考えたら、今頃はどうなっておったか」
「左様でございますな。我が白河も同様にござる」
「そういうわけでな、さらなる藩政改革を進めるためにも、鶴千代に蘭学の真髄を叩き込んでほしいわけだ」
そこまで言われては断る理由はない。水戸家は御三家で唯一江戸定府が常の藩であり、ご意見番かつ将軍家の協力者として取り込むメリットは大きいし、なにより外国船の到来が頻発するようになれば、尊王攘夷論がどっちの方向に暴発するかも分からないので、ここで藩士たちに諸外国の知識を植え付け、水戸学にそれを取り入れてマイルドな仕上がりにさせるのも後々のためになるかもしれない。
「しかし、鶴千代君もご立派になられたことだ。確と己の成すべきことを見定めておられる」
「なに、同い年の寿麻呂に負けたくないだけであろう」
「いやいや。将軍家をお支えする覚悟の表れでございましょう」
実は鶴千代君と寿麻呂様は、安永二(1773)年生まれの同い年。御三家御三卿で言うと、一橋の嫡子も同い年だったが、こちらはもう表舞台に立つことはなく、あとは近い年齢だと、紀州家の右近衛権中将治宝様が二歳年上でいるくらいか。清水家は元々重好公に子がおらず、尾張家は後継者を相次いで亡くし、今は藩主の甥が養嗣子となっているが、この方は俺や定信様に近い年なので、家基様を支える年下の親族は今のところこの二人とそれぞれの下に弟が一人ずつ。将来さらに弟が増える可能性はあるが、各々が自身の将来を見据えて行動するというのは良いことだと思う。
「将来が楽しみでございますな」
「だと良いのだがな。元服も近いことだし、それなりにはなってもらわないとな」
「おお、元服が決まりましたか。それは目出度い」
「もう今年で十三であるからな。少々遅いくらいじゃ」
治宝様が元服されたのは三年前のこと。なので、二人とももう元服しても問題ない年齢なんだが、なにしろここ二年ばかりは飢饉で世情穏やかならずといった感じで先延べにされていたところもある。俺は寿麻呂様の事情しか聞いていないものの、おそらくは鶴千代様も同じだったのだろう。とはいえあまり遅くなってもよろしくないので、まだ全国的な不作は続いているものの、一時期の危機的状況から脱しつつある今年あたりに元服の儀を執り行う意向のようだ。
となると、寿麻呂様も年内には元服となるかもしれない。
「さすれば、上様より諱を……」
「越中、その話はまだじゃ」
「……左様でございましたな」
「遅かれ早かれ皆も知ることになろうが、今はまだじゃ」
何かを言いかけたところで治保公にそれを制されると、定信様もそうであったとハッとした表情になる。それを知る者は今のところごく一部の者だけなので、他の大名たちの耳があるここで話すのは、いささか憚るものである。
ちなみに俺はごく一部側の人間なので、定信様が何を言わんとしていたかは分かっている。知らない側の大名も、この後拝謁する際に知らされることであろうが、それを先んじて俺たちの口から広めるわけにはいかない。
「未だ各地で飢饉が続き、苦労が絶えないことと思うが、諸侯にはつつがなく政を進められんことを願う」
諸大名が大広間に集められ、年始の拝謁を進めた後、将軍家治公よりお言葉を賜る。
最初こそ定形の挨拶ではあったが、今般の世情を鑑み、諸大名に一層の改革を求めながら、さらなる国の発展を願う言葉へと移り、そして最後に、幕府がそれを推進していくための大きな覚悟の証として、その一言は発せられた。
「年内には将軍位を大納言に譲る。諸侯には余に対してと変わらず忠義を尽くしてもらいたい」
将軍位継承。年始から今年もまた激動の時代が始まろうとしていた……