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旗本改革男  作者: 公社
〈第七章〉治部、激務に放り込まれる
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年始参りでお礼参り

ちょっと能書き長めな回なのでご容赦を

――天明五(1785)年


 年が明けて正月、年始の挨拶のために大名たちが江戸城に参集している。


 大名の仕事とは何かと端的に言えば、領地を守り己が家を守るということに尽きる。国を富ませ家臣領民の暮らしを守り、ひとたびその富を奪い取らんとする敵が現れれば、武器を手にこれと戦う。故に為政者としての地位を担保されていると言ってもいいだろう。


 と、格好良いことを言ってはみたものの、この時代に敵が攻めてくるということはない。では国を守るとは何を意味するかというと、天下人に睨まれないよう上手く立ち回ることがそれに該当する。将軍家への御礼参りはまさにそのためであり、江戸在府の大名の大事な仕事と言える。


 大名の登城と将軍への拝謁は、その主従関係を確認する重要な儀礼であり、家督相続や官位受領、参勤交代で江戸に到着したときなど、都度発生する不定期なものと、定例で定められたものの二種類がある。


 定例となっているのは年始のほかに、一月七日の人日じんじつ(七草)、三月三日の上巳じょうし(桃)、五月五日の端午たんご、七月七日の七夕たなばた、九月九日の重陽ちょうようという季節の節目を祝う五節句と、徳川家康公が初めて江戸城に入城した日として、幕府では正月に次ぐ祝いの日と定められている八月の朔日(一日)、所謂八朔(はっさく)が礼式日として定められているほか、毎月一日、十五日、二十八日の月次御礼つきなみおんれいがあるので、結構な頻度で拝謁する決まりとなっている。


 大名たちはこの決めに従い城に上がり、定められた部屋で拝謁の順番を待つ。このとき待機する場所のことを「伺候席しこうせき」と言い、格で言うと上から大廊下、溜間たまりのま、大広間、帝鑑間ていかんのま、柳間、雁間かりのま、菊間の順に七つがあって、大名の家格、官位、役職等により部屋が決められているのだが、この先詳しい説明をするには、前段として江戸城本丸の造りを把握していないと何を言っているか分からなくなるので、まずはそちらを先に話すことにしたい。


 本丸は女性陣が住まう大奥、将軍の生活空間である中奥、公式行事の場である表の三つに分けられ、将軍が大名や旗本の拝謁を受けるのは、表にある大広間、白書院、黒書院の三つとなる。使い分けとしては、将軍がプライベートで面会するときの黒書院、御三家などの大身や、小藩であっても家督継承の挨拶など特別な拝謁で個別に応待するときに使う白書院、そしてその他大勢を一堂に会して拝謁を行う大広間。多少の例外はあるが、概ねそんな使われ方である。


 そしてそれぞれの位置取りであるが、玄関から入って最初にたどり着く大広間。そこから赤穂事件でも有名な松之大廊下を進んで白書院。さらに奥へと竹之廊下を進み黒書院。その奥の御錠口から先は中奥となるので、表と呼ばれるのはここまでとなる。




 さて、ここで先ほどの「伺候席」の説明へと移るが、それぞれがどこに位置し、どのような身分が詰めるかは以下のとおりである。そのときにより例外はいくらでも発生するので、多少雑な説明なのはご容赦願いたい。


○大廊下~上下の二部屋に分かれ、上は御三家、下は越前松平家や鷹司松平家、加賀前田家など、大名でも最上級格の者が詰める。ちなみに大廊下とは、先ほどの松之大廊下のことだが、そこに面した部屋という意味なので、廊下に座らされていたわけではない。


○大広間~国主および準国主、その他四品以上の官位を持つ御家門、御連枝、外様大名などが、大広間の脇にある二之間と三之間に詰めている。こちらも最初から大広間で待たされているわけではない。


○溜間~黒書院溜間に詰めるためこの名が付いた。譜代や御家門の中でも重鎮が詰めており、会津松平家、彦根井伊家、高松松平家の三家は代々ここに詰めていることから「定溜じょうだまり」、一代限り溜間詰を認められた家は「飛溜とびだまり」、老中を長年務めて退任した大名への礼遇で、一代限りここの末席に詰める「溜詰格」と呼ばれるものがある。


○帝鑑間~白書院下段の間の東に連なる部屋。幕府成立以前から徳川氏に臣従していた譜代の詰める席だが、御家門や外様が願い出てこの席に移った御願譜代や、新規取立ながら家格向上によりここに移った大名も若干存在する。


○柳間~大広間と白書院の間、松の廊下から中庭を挟んだ東側にある部屋で、五位および無官の外様大名・交代寄合・表高家・寄合衆が詰める。


○雁間~黒書院と白書院の中間に位置し、幕府成立後に取立てられた大名のうち、城主もしくは城主格の者が詰める部屋。伺候席の中で唯一、老中が御殿を巡回する際の経路に入っており、幕閣の目に留まりやすく役職に就く機会も多いことから、帝鑑間からこの席への移動を望む譜代も少なくない。後述の菊間と併せて「雁菊」と呼ばれる。


○菊間~黒書院と白書院の中間に位置し、雁間より白書院側にあるのが菊間。幕府成立後に取立てられた無城大名と、旗本役である大番頭、書院番頭、小姓組番頭、旗奉行・槍奉行などと雁間大名の嫡子の席とされている。




 各席の概要はこんな感じ。ちなみに格付けに関して改めて並べてみると以下のようになる。


<席の格付け>

一 大廊下

二 溜間

三 大広間

四 帝鑑間

五 柳間

六 雁間

七 菊間 


 こう見ると、各部屋の位置取りと格がバラバラだとお気付きの方もいるだろう。これを将軍のいる中奥から近い順に並べ替えると分かりやすいかもしれない。


<中奥からの距離が近い順>

二 溜間

六 雁間

七 菊間

四 帝鑑間

五 柳間

一 大廊下

三 大広間 となる。


 これはつまり将軍家との親疎を意味しており、言い方を変えると「信頼する譜代の重臣がいる溜間」→「将軍家のために働いてくれるであろう譜代の小藩がいる雁菊」→「譜代なんだけどあんまり権力を与えたくない大きめの藩がいる帝鑑間」→「有象無象の外様がいる柳間」→「口煩い親戚がいる大廊下」→「油断ならない外様の大藩がいる大広間」という並びになる。格だけ与えて場所は遠いところというのが、幕府の大名統制をよく表しているな。


 ちなみに俺は新規取り立ての城主格なので、雁間詰となる。






「まさかお主が雁間詰になるとはな」

「これは越中守様、本年も変わらず手厳しい。溜間詰の重鎮がこのようなところで油を売っていてはなりませぬ」

「……お主も相変わらず口が悪いな」

「相手を見て物は言っておるつもりですぞ」


 というわけで久々の再会となりましたのは、白河藩の跡目を継いだ松平越中守定信様。家督相続後に上総介から越中守に転任し、次いで従四位下に叙任されたので、席次は溜間。家臣の中では最も将軍家に近いと見なされる家の一つだ。わざわざ俺の顔を見に、雁間に寄ってくれたようだ。


「お主知っておるか。雁間詰は毎日登城せねばならんのだぞ」

「登城しております。西の丸ですが」


 大広間、帝鑑間、柳間に詰める家は「表大名」と言われ、年始や五節句、月次御礼以外に登城の義務は無いのに対し、雁菊の大名で無役の者は、毎日登城する必要がある。だから俺も無役ならば毎日登城して雁間に詰める必要があるのだ。大事なことなのでもう一度言う、無役ならね。


 お忘れの方が多いだろうから改めての紹介になるが、俺は西の丸蘭書和解御用掛を拝命している。ちゃんと役付きなのよ。役職を持つ者はそちらの執務場所へ向かうので、必要時以外に詰める必要は無い。


「こういうときだけ役付きと名乗るのは、ちゃっかりしていると言うか何と言うか」

「これは異なことを。某は登城せぬ日も様々な作物の栽培を通じ、農産の向上に寄与しておりまする。越中守様のご領内でも十分に恩恵は受けておりましょう」

「冗談じゃ。お主のおかげで飢える民が減ったのは事実じゃ。間違いない」




 定信様が家督を継いだのは、天明三(1783)年の十月。浅間山の噴火でえらいことになった年だ。


 春先からの天候不順、そして冷夏、さらには降灰による日光不足。作物を育てるには過酷すぎる環境下において、元々気温の高くない東北の稲作はほぼ壊滅と言って差し支えない惨状であった。


 そんなときに藩主を継ぐなんて不運だねと言われそうなところだが、それ以前から定信様は俺の進言を取り入れて、稲作だけに頼らない農産の推進と、食料の備蓄を進めていたので、既定路線というところだ。


 そして更に特筆すべきは質素倹約の推進。米はいざというときの備蓄として消費を抑え、普段の食事は米に比べて冷涼な気候でも収穫が見込める麦や芋、粟、稗などで賄うことと定め、藩主自ら切り詰めた食生活を送ることでその範とした。


 質素倹約と聞くとケチケチ生活なイメージで、実際に切り詰めた生活ではあったが、いざ飢饉が発生すれば、貯めておいた穀類を少しずつ放出し、米の一部は江戸大坂に売るなどして、そこで得た費用で更に穀類の買い付けをするなどした結果、白河藩内で餓死した民は皆無だとか。


 もしかしたら少しは餓死者がいたのかもしれないが、備蓄を怠ったところでは数千人規模で民が餓死した藩もあると聞くし、そこと比較すれば皆無と言っても過言ではないのだろう。単なるケチではなく、必要な事業に的確に投資するための節約なのだ。


「おかけで東北諸藩の中では最も被害の少なかった藩の一つとして、すっかり名君扱いよ」

「此度の危難にあって民を飢えさせなかったのですから、名君に違いござらぬ」


 定信様は言ってくれるではないかと笑っているが、たとえそれが誰かの入れ知恵であっても、結果を出したのであればそれは名君と讃えられるべきものであると思う。


「何が名君じゃ。聞いて呆れるわ」


 と、定信様とこれまでの苦労を労い合っているところへ、嫌味な声が一つ。


 現時点で江戸にいる全ての大名が参集しているから、いるのは分かっていましたが、わざわざ顔を見せに来ましたよ。


 ()()()()()()()の天敵が。


 まさか将軍家への御礼に来たのに、こっちが()()()()されてしまうのかしら?

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― 新着の感想 ―
一度水戸中納言にコテンパンに叱られたのに懲りねえなあ、って思ったけど、似た思想の奴たくさんいそう。 民政は結果だけが全てなんよなあ
久々に登場ですかね?元田安の愚兄が
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