二代目は君だ
――天明四(1784)年暮れ
「お父上のことお悔やみ申し上げる」
「師・清庵の教えに従い、困窮する領民のために、病身に鞭打って働いていたそうです。父も本望であったことでしょう」
長きに渡る留学を終え、今年の夏に故郷へ帰ったはずの茂さんが江戸へ戻ってきて、お父上である大槻玄梁殿の葬儀がつつがなく終わったことを報告してきた。
師・清庵とは一関の名医建部清庵殿のことであり、蘭学の教えを乞う書簡を杉田玄白さんと何度もやり取りをしていたほか、「民間備荒録」という、いわば飢饉が発生したときの非常時マニュアルを民に広めた人物だという話を以前に述べたかと思うが、実はお父上も建部殿の門下生であり、その教えを受けていた。
そして後に、茂さんが俺の弟子になったという縁で、建部殿と杉田さんのように、蘭学のことや救荒食のことなどで、今度は俺と玄梁殿で何度か書簡のやり取りを始めることとなり、その知識をもって遠く一関の地で民のためにと汗を流しておられたようだ。
その甲斐あってか、稲作こそ全滅に近かったものの、その他の穀類や芋など、そして民間備荒録の教えのおかげもあって、一関では飢えて亡くなる者はそれほど多くなかったらしい。
「先生の教えのおかげだと感謝しておったようです」
「お役に立てたのなら何よりだ。されど、家督を継いで間もないと言うに、慌ただしいことだ」
「某が望んだ話の結果でございますので」
「そうであったな」
交流を持たせてもらっていたので、お亡くなりになられたことは手紙で知らされていた。それこそ出し主は一関に帰ったはずの茂さんである。家督を継ぐことになって忙しいはずなのに、わざわざ礼を述べるためだけに江戸へ来たのかというと、実はこれには理由があった。
「工藤殿も手の早いことだ」
どういうことかと言うと、茂さんが大槻の家督を継承すると共に、彼の身分は一関藩から仙台藩に移ることとなったのだ。
一関藩は仙台藩伊達家の内分分知として、六十二万石のうち三万石を家臣の田村氏が知行している支藩である。実は玄梁殿は大槻の分家なので、一関の藩医はその宗家がいれば問題ないだろうから、蘭学者として名を上げつつある茂さんは、仙台本藩でお預かりしますという話のようだ。支藩の一関は、本藩の仙台に言われては中々拒否出来ないところだね。
そしてその手引きをしたのは、築地に住む北方問題のスペシャリスト工藤平助殿。そう言えばというくらいに忘れかけていたが、彼は仙台の藩医だった。
「婿入りってわけじゃないんだよな」
「ええ。私のところへ嫁いで参ります」
勘の良い方ならお気づきかもしれないが、実は茂さんも結婚することになった。お相手はもちろん、工藤家の綾子殿。草津温泉で俺が嫁にくれと談判しに行けと発破をかけたら、一関に帰る前に本当に行動に移ったのだ。
父にしてみれば、娘にはいいとこに嫁いでもらってという構想もあったことだろうから、青天の霹靂みたいな申し出ではあったのだが、そこは茂さんの実力を知る平助殿のことだ。確約の無い有力な武家との縁談か、向こうから申し出のある将来の有望株との縁談か、どちらが理に適うかと考えたときに、茂さんの申し出を受けることとしたのだ。
そして義理の息子を仙台藩に移したのも、その将来を考えてのことだ。
今回茂さんが命じられたのは、江戸詰の藩医。とは言うものの、藩邸に住まう必要はなく、町中に居を構えて学問塾を開くなり、診療所を開いて町人とか、他藩の大名や藩士の診療に向かうことも認められている。工藤さんや杉田さんなどと似たような感じだと思ってもらっていい。
一関藩にも江戸屋敷はあるし、江戸詰の役もあるが、藩としてのネームバリューは仙台のほうが圧倒的に格上なので、その身分が茂さんの地位を確固たるものにしてくれるはず。平助殿がそれを手引きしたのは、嫁ぐ綾子殿の境遇も考えてのことなのは間違い無い。
とはいえ、仙台藩からの沙汰がすぐに出るわけではないので、それまでは一旦一関に帰って、お父上とも良く話し合ってという段取りでいたのだが、折悪く玄梁殿がお亡くなりになられ、期せずして家督を継ぐことになった。
継嗣という立場から当主という立場になると、簡単に転籍させるのも難しいらしいので、この機を逃してはならぬとなって、急ぎではあるが仙台藩医の役が与えられ、江戸に戻ってきたという次第だ。
「父の喪が明ける来年の夏には祝言を挙げることとなります」
「まあお二人さんなら上手いことやるだろうが、住まいはどうするんだい?」
「今はまだ何処と決めておりませぬゆえ、しばらくは晩功堂で」
「やめときなさい」
折角藩邸ではなく市中に居を構えることを許されたのだから、伸び伸びと羽を伸ばせる環境のほうが良いに決まっているが、今のところアテは無いので、当面は築地にある平助殿の私塾晩功堂で世話になろうと考えていたようだが、俺的にはオススメしないわ。
だって、あそこは人の出入りが多すぎて落ち着かないし、平助殿のことだから絶対に自慢の婿殿とかいって酒の席とかに連れ出しそうだもの。折角の新婚生活なんだから……ねえ。
「しかし居を定めるにも時間がかかりますれば」
「ならば三旗堂で暮らせば良かろう」
「されど……先生は既におりませぬ」
普通に考えれば、江戸での留学期間中一番長く暮らしており、綾子殿共々勝手知ったる三旗堂が居としては最適だろうが、茂さんが敢えてその名を出さなかったのは、俺が大名になってしまったことと関係する。
旗本の頃は湯島に住まい、神田川を越えて須田町まで足を運んで、時にはそこで夜を明かすなんて生活もしていたが、大名になってしまっては、この足を運ぶという行為が不可能だし、まして夜を明かすとか何の寝言だって話になるからね。
更に言えば、種の女中となった綾や、俺が預かる長丸たちも上屋敷に移った。一応俺とは違い、顔を出して講義することは可能だが、女子の綾や、曰く付きの長丸たちに全てを任せるわけにもいかない。なので最近は中之条の家中の者や、他の弟子たちに管理させているので、そこへ他藩の者が厄介になるというのは……ということだな。
だけど、茂さんが江戸詰となったのなら話は別だ。
「お前さんが塾頭になれば良い」
「私が、ですか?」
「おう。三旗堂をお前さんに譲る。俺からの祝いだ」
三旗堂での俺は塾頭と名乗っていた。塾長と同義なのだが、それだとどうしても江田○平八をイメージしてしまうお年頃なので、敢えて塾頭とさせてもらった。この時代の誰にも理解されない俺のこだわりだ。
それはともかく、茂さんの実力ならば塾を開いて門下生を取るのも、診療所を開いて病人を診るのも、何ら心配ない。年齢という点でも、十代の頃から門下生に講義をする神童なんて存在もいるので、二十八歳の茂さんなら若過ぎるという懸念もないし、あれは幕府から下賜された屋敷ではなく、俺個人の資産だからな。誰に譲ろうと文句を言われる筋ではない。
「俺の門下生の中で次の世代に道を示してやれるのは茂さんを置いて他にはおらん。お前さんに覚悟があれば、三旗堂を喜んで譲り渡そうじゃないか」
「過分なお取り計らい、感謝に堪えませぬ。さればこの三旗堂にて、新たな時代を切り開く人材を育てさせていただきます」
「重畳である」
俺が多く関わることが出来ない時点で、おそらく現時点で最良の選択だろう。史実での塾名は忘れたが、たしか茂さんは多くの蘭学者を育てたはずだし、それが少し早まって、場所が三旗堂に変わっただけのことだ。
「ついては一つ頼まれてほしい」
「優秀な者がおれば、中之条藩に推挙せよということですな」
「話が早くて助かる」
メインは医学と農学になると思うが、領内の開発のために、近いうちに中之条にも蘭学塾を開こうと考えていた。
とはいえ、そちらも俺が直接教えることは出来ないから、講師役は俺が指導した藩士から選ぶか、他所から招聘するしかないので、三旗堂からスカウト出来れば有り難いわけよ。
「それでは新たに弟子の受け入れも進めませぬとな」
「長丸、お主秋元の旧臣から志ある者を選んで連れて参れ」
「よろしいのですか」
「うむ。ここで蘭学を学び、それを世のために役立てる人材とならば、仕官の道も開けよう」
長丸に言うのはかわいそうだが、彼らは主の不始末で禄を失った者たちだから、再生の機会を与えても良かろうと思う。無学の徒に一から教えるより、基礎教養を習得した武士のほうが育てるのが早いのも理由だ。長丸に志ある者をと言ったのは、「賢いやつを選べよ」という意味でもある。
「ご温情感謝いたします。急ぎめぼしい者に声をかけてまいりましょう」
「ただ一つ申しておくが、他藩の旧臣や浪人たち、旗本御家人の部屋住なども受け入れるゆえ、願いが叶うかは己次第であるぞ」
「元より承知にて。その機会を与えられただけでも十分でございます」
さてさて、これで懸念していた三旗堂の処遇も片付いた。
茂さんのことだから、優秀な弟子が多く育つだろう。それに江戸詰となれば、俺との連絡も簡単に出来るし、直接面倒は見てやれなくても、色々と裏から手を貸すことは出来るからね。
頼みましたよ、二代目塾頭様!