約束ですよ
その夜、空一面を覆った赤い光。
やがて近隣の村のどこからも出火していないことが判明すると、村人はやれやれ一体あれは何だったのかといった表情で自分たちの家に戻っていった。
一部にはあれは何かの凶兆ではと怯える者もいたが、不運なことはいつやってくるか分からないし、こればかりは占いと同じでその人の心の持ちよう、当たるも八卦当たらぬも八卦というやつだ。
取り急ぎ、俺のやることは姫の心を落ち着けることだな。
「お休みのところ相済みませぬ……」
とはいえ、あれをどう説明したものかと思案して眠れずにいたら、襖の向こうから姫付きの女中が俺を呼ぶ声がした。
「いかがなされた?」
「それが……姫がすぐに来てほしいと」
女子が寝所に男を呼ぶなど余程のこと。幼いとはいえ、徳川の血を引く姫君がそのことを知らぬ道理もないはずだし、普通ならば女中が止めるだろう。
そう考えれば何やら大事があったかと判断せざるを得ず、一枚上に羽織るとすぐに姫の寝所へと向かった。
「姫、安十郎にございます」
「中へ」
許しを得て中へ入ると、枕を抱えた姫様が布団の上でチョコンと座っていた。
なにこの可愛い生き物……
「火急のお呼びとか。いかがなさいましたか」
「怖くて眠れないのです……」
どうやらオーロラの光が未だに不気味なものに映り、不安で寝付けないらしい。
「あの……種が寝付くまで側にいてはもらえませんでしょうか」
好意的に解釈すれば、一緒に部屋にいてくれという意味だろう。それでも憚られるところではあるが、姫がポンと布団に手を置く仕草を見れば、側というのは布団、つまり添い寝しろということだ。
……待って、殺す気?
こんなのバレたら間違い無く斬首刑だ。切腹すら許されない、武士として最大級に不名誉な罪科。……別に切腹なら甘んじて受けるわけじゃないよ。何が楽しくて自分の腹に刀を刺さなきゃならんのよ。
困るのは親父殿や家の者にも罪が及ぶことだ。この姫様はそのために俺を呼んだわけですか?
「姫、さすがにそれは……」
「何故ですか? 種の側にいてくださると約束してくれたではありませんか」
ええ、ええ、たしかに不安にならないようにと、さっきそう言いましたよ。しかしそれは拡大解釈が過ぎると思うのです。ってか、女中も止めろよ。言われたままに俺を呼ぶなんて、子供のお使いじゃないんだからさぁ……
そう思って視線を向けたら、申し訳なさそうにペコペコするばかり。俺に睨まれたからって、「言ったんだけど聞いてくれないんですぅ~」みたいな膨れ面をするな。
「このことは父上にも兄上にも内密にいたしますゆえ」
「ですがそこに……」
「いいえ。ここには私たち以外、誰も居りません。もし居れば首が飛びますもの」
怖い怖い怖い……声色こそトロンとして甘えるような、ちょっと舌足らずな少女のものであるのに、言ってることは途轍もなく恐ろしい。女中に対して何も見ていない、聞いていないことにしろ。口にしたらどうなるか分かっているよね? と恫喝しているわけですよ。
「安十郎様、ダメですか……?」
怖い怖い怖い……いつもなら可愛くおねだりしてるなと思えるけど、この状況で言われてもキュンとはしないよ! なにその上目遣い、数え六歳にしてそんな技術を使うなんて、あざとさ全開なんですけど。
「安十郎……私の頼みが聞けませぬか」
……!! 俺が答えに詰まっていたら、瞳の奥にほの暗い光を湛えながら、姫様がこちらを睨みだした。
今まで自分のことを名前でしか言わなかった姫様が"私"と言ったことも衝撃だが、俺に命じる姿はフワフワとした天真爛漫なお嬢様ではなく、支配階級、人の上に立つ側の人間なのだと思い知るには十分なものだった。
◆
「安十郎様はどうして怖くなかったのですか」
結局圧に負けて添い寝をすることになった俺に、姫様が先程の赤い空のことを尋ねてきた。
「難しい話になりますが、あれも自然の為せる業の一つ。雷もそうですが、空が光るというのは無い話ではありません」
「あのように赤く光ることがあるのですか」
「鎌倉時代の歌人、藤原定家の日記に『赤気』という現象の記述があり、まさに今日見たものと同じだと思われますので、ごく希に珍しい現象として起こり得るのだと考えます」
雷とオーロラでは原理が全く違うのだが、この時代に電気の概念はまだ存在しないから、似たようなものだと説明してあげると、姫様が何でも知っているのねと褒めてくれた。
「どうしてそんなにお詳しいのですか? やはり立身のためですか」
「誰かの役に立ちたいからですね」
天災や飢饉はいつかまた起こる。それを知っているからこそ、自然の力に抗うことは難しくとも、そうなったときに一人でも多くの者が助かる術があるのなら、それを学び、教え広めることが大事なのだ。
「ですがしがない旗本の部屋住の言など、誰も聞く耳を持ちません。だから少しでも名を上げ、私の言葉に耳を傾ける方が増えるよう精進しているのです」
「しがないなどと申してはなりません。既に安十郎様は我が父の信を得ております」
「田安公には目をかけていただき、ありがたい限りでございます」
「それに、種も安十郎様が側にいて頼もしいですよ」
「勿体ないお言葉」
それからしばらく、とりとめも無い話をしていると、いつの間にか姫がすうすうと寝息を立てるのが聞こえた。
やれやれ、ようやく離れられ……ないな。
「安十郎……離れてはなりません……約束……ムニャ……」
困ったね……俺の袖をキュッと掴んで、寝言でまで側に居れと言われては離れるのも難しく、その夜は空が白み始めるまでお側に居ることとなった。のだが……
「ゆうべはおたのしみでしたね」
翌朝、何故かそのことを賢丸様が知っていたのですが……