喋る時に頭に「あ」をつけてしまう令嬢、婚約破棄されて、そのまま無口になってしまう
「ユリーティア・レティセン、お前との婚約を破棄する!」
夜会にて、伯爵家の令息ルーゲン・ラウトにこう告げられた子爵令嬢ユリーティアは頭が真っ白になってしまう。
元々喋るのが得意でない令嬢だったが、どうにか言葉を紡ぐ。
「あ、おっしゃる意味が……」
「だからお前とは結婚しないって言ったんだよ!」
「あ、なぜでしょう……?」
「それだよそれ」
「え……?」
ルーゲンが男前といっていい顔立ちをしかめる。
「その喋る時、いちいち『あ』をつけるのはなんなんだよ! うっとうしい!」
「あ、すみません……」
「ほらまたやった!」
「あ、これは癖で……」
ユリーティアは「あ」をつけないよう試みるのだが、それがかえって「あ」と声を出す悪循環になっている。
「もういい。それより俺はお前に代わる、素晴らしい婚約者を見つけたんだ」
ルーゲンの言葉に呼応するように、一人の令嬢が彼の横についた。
光沢の強い金髪で桃色のドレスを着た派手な令嬢であった。
「彼女はヴァネッサ・ルイド。お前と同じく子爵家の令嬢だが、お前と違って喋る時に『あ』などつけない。弁舌に長けた素晴らしい令嬢だ」
「うふふ、あなたはルーゲン様に相応しくないわ。社交界では文字通り、社交性も要求される。あなたではルーゲン様を支えるどころか、足手まといになるだけよ」
ルーゲンとヴァネッサから立て続けに“口撃”を受ける。
言い返そうにも、ユリーティアにはその術がない。それは自分が一番よく分かっている。
だから、こう返すしかなかった。
「あ、はい……分かりました。お幸せに……」
***
ユリーティアは元々寡黙な令嬢だったが、婚約破棄以来、輪をかけて無口になった。
喋り方が原因で婚約破棄されたことが、トラウマになってしまったためである。
それ以後、夜会に出ても――
「ユリーティア嬢、僕とおしゃべりしませんか?」
「……」
「あの……聞いてます?」
「……」
ユリーティアも決して容姿は悪くはない。
栗色の髪と栗色の瞳を持つ、可愛らしい令嬢である。しかし、どんなに可愛らしくても仏頂面をしていればその魅力は半減してしまう。
「無視かよ! せっかく話しかけてやったのに……もういいよ!」
「……」
ユリーティアの“無口令嬢”ぶりは社交界に広まった。
最初は彼女に同情的な態度だった者たちも、いつしか呆れて相手にしなくなった。
それでも、ユリーティアは無口のまま、パーティーの場にひっそりと咲き続けた。
そんな日々が続いたある夜の晩餐会でのこと。
相変わらず無口無表情でいるユリーティアに、近づいてくる者があった。
やや癖のある金髪で穏やかな青い眼を持った、明るい雰囲気を持つ青年だった。
だが、ユリーティアは興味を示さず、無口を貫いている。
「どうも! 君がユリーティア? “無口令嬢”って噂の……」
「……」
「噂を聞いて興味があったんで、話しかけてみたんだ。どうぞよろしく!」
「……」
ユリーティアは無言のままだ。
普通ならば、この時点で大半の人間は彼女から離れてしまう。
無視されるのはプライドが傷つくし、晩餐会は人脈を広げるために参加するもの。無口な令嬢といつまでもいてもメリットはないからだ。
ところが、この青年は――
「僕もここにいていいかい? もし、僕のことが邪魔だったら離れてくれ」
ユリーティアは動かなかった。
青年も無言のまま、その場でたたずんでいた。
5分、10分、20分……ずっとそのままだった。
青年もユリーティアに声をかけようとしない。それどころか、この無言を楽しんでいるような雰囲気だった。
30分ほど経っただろうか。
ユリーティアが久しぶりにその重い口を開く。
「あ、あ……あの……」
声を出すこと自体がほとんどなくなっていたので、上手く声が出ない。
だが、青年は「ん?」と普通に反応する。
「な、なぜ私なんか……に……」
「社交界にものすごく無口な令嬢がいるって聞いたからさ。声をかけさせてもらったんだ。こうして君の近くにいると、喋らなくても楽しいひと時を過ごせたよ。どうもありがとう」
「あ、こちら……こそ」
青年は微笑み、言葉を続ける。
「僕はアトルって言うんだけど、君は?」
「あ、私は……ユリーティア。ユリーティア・レティセン……です」
「ユリーティアか。よかったら、今度デートでもしない? 君といると落ち着けるんだ」
ユリーティアは驚くが、自分のような人間に話しかけてくるアトルに好感を抱いていた。
「あ、はい……私なんかでよかったら……」
「そっか、決まり! じゃあ今度の日曜日、王都の大通りでデートしよう」
にっこり子供のように笑うアトルに釣られて、ユリーティアもほんのわずか顔をほころばせた。
***
日曜日、ユリーティアは王都の大通り近くで待ち合わせをした。
水色のワンピースを着て、ドキドキしながらアトルを待つ。
すると、まもなく彼はやってきた。
白シャツに焦げ茶色のベスト、下は紺色のズボンというラフな格好をしている。
「ごめんごめん、ちょっと遅れちゃって。待った?」
「あ、いえ、私も来たばかりで……」
「そっか。今日はね、大通りでフェスティバルをやってるみたいなんだ。二人で楽しもう!」
「あ、はい!」
大通りには多くの露店が並び、賑わっている。
人混みが苦手なユリーティアは尻込みしてしまう。
そんな彼女にアトルは手を差し伸べる。
「僕の手を取って」
「あ、でも……」
「はぐれたら大変だから」
「あ、じゃあ……お願いします」
ユリーティアは勇気を出してその手を握った。
その手はとてもしなやかで、そして頼もしいぬくもりを感じられた。
アトルに先導され、ユリーティアはフェスタを楽しむ。
一緒にソーセージを食べ、クレープを食べ、空腹を満たしたら景品を当てるダーツにも挑戦する。
「あ、ダメでした……」
「惜しかったよ! あと少しだった!」
ユリーティアは残念ながら景品を得られなかったが、アトルは――
「それっ!」
ダーツの矢が的の『首飾り』と書かれた箇所に刺さる。
「よしっ! 当たった!」
「あ、すごい……!」
景品の首飾りは安物ではあるが、三日月を模した洒落たデザインをしていた。
アトルは手に入れた首飾りをユリーティアに手渡す。
「あ、いいんですか?」
「うん、よかったらどうぞ」
ユリーティアは喜んで受け取り、さっそく首につける。
「一生の宝物にします!」
「アハハ、それは嬉しいな」
二人は笑い合った。
その後も二人は音楽隊の演奏を見たり、大道芸に驚いたり、アトラクションに挑戦したり、祭りを大いに楽しんだ。
こんなに楽しい時間を過ごすのは初めて――ユリーティアはこう思った。
「はい、リンゴ。美味しいよ」
「あ、いただきます」
リンゴの甘い果肉を楽しみつつ、ユリーティアは尋ねた。
「あ、あの……」
「ん?」
「あ、私なんかといて楽しいですか? 私……暗いし、こんな喋り方だし……」
アトルは笑顔で答える。
「楽しいよ! もし楽しくなかったら、とっくに別れを告げて帰ってるもの」
「あ、どうも……」
「それに君は暗くなんかないよ。そのワンピース似合ってるし、とても輝いて見える!」
“輝いて見える”とまで言われ、ユリーティアははにかんでしまう。
「それとその喋り方だけど、実は僕がよく知っている人間にも君みたいに『あ』をつけて喋る人がいるんだ。だから慣れてるってのもあるんだけど、その人はとても優秀だし、喋り方で貶められるような人じゃない」
アトルは続ける。
「そしてそれは君も同じだ。君はとても魅力的だし、たかが喋り方ぐらいで君の魅力は落ちやしない。だから気にしないでいいんだよ」
「……はい!」
ユリーティアは満面の笑みを浮かべた。
フェスタは日没近くまで続き、やがて撤収作業が始まる。
「どんな祭りも終わる時は寂しいものだね」とアトル。
「あ、はい……」ユリーティアも同意する。
アトルがユリーティアに目を向ける。
「今日は本当に楽しかった」
「あ、私もです……」
アトルはうなずくと、薄暗い空を眺めつつ、こう告げる。
「このまま僕のことはぼやかして君とお付き合いしていくのもいいかな、と思ったけど、やっぱりそれは不誠実だと思ったよ。だから、ここで正体を明かしておきたい」
「え……?」
「僕の名はアトル・ヴォルクハイト。この王国の第二王子だ」
「……!」
ユリーティアは驚く。
アトルが只者ではないことは察していたが、まさか自国の王子だとは思わなかった。
「君のことは聞いたよ。君が受けた仕打ちのことも……。君が喋るのが怖くなってしまったのは当然だと思う」
「あ、いえ……」
うつむくユリーティア。
「だけど、僕は君の喋り方のことなんか気にしない。いや、“どうでもいい”と言った方がいいだろう。それほどに君のことが好きになってしまったんだ。だからはっきり言おうと思う」
ユリーティアが緊張で息を呑む。
「僕と婚約してくれ、ユリーティア」
アトルのあまりにもまっすぐな眼差し。
ユリーティアは出来る限りまっすぐ見つめ返すことにした。喋ることは苦手でも、せめて目で誠意を示したかった。
「あ、はい……私でよろしければ……」
「とても嬉しいよ」
アトルはゆっくりとユリーティアを抱き寄せた。
こんなことは生まれて初めてだったが、ユリーティアもそれを受け入れた。
アトルの逞しくも優しい感触を噛み締め、いつまでも酔いしれた。
***
ユリーティアを婚約破棄したルーゲンとその恋人ヴァネッサもまた、躍進の好機を得ていた。
王宮に招かれ、第一王子アティウス・ヴォルクハイトと謁見できることになったのである。
謁見場所は王宮の会議室。
会議室という名称でありながら、絨毯が敷き詰められ、高級絵画が飾られ、ちょっとした美術館のような様相を醸し出している。
ルーゲンとヴァネッサはもちろん早めに会議室に到着し、王子に気に入られるよう、作戦を練る。
「アティウス様は王太子であるだけでなく、非常に頭脳明晰な方で、将来は間違いなくこの国を担う方だ。ここで取り入ることができれば、俺たちの将来はバラ色だ!」
「ルーゲン様、あなたなら絶対に気に入られるわ!」
「ああ、俺の社交性、トーク力で、アティウス様の機嫌を存分に取ってやる!」
程なくして、第一王子アティウスが数人の従者と護衛を連れて現れた。
弟アトルと同じく金髪に青い眼を持ち、鼻筋の通った端正な顔立ちをしている。
ルーゲンたちは「間違いなく王の器だ」と確信した。
さっそくこれまでの社交パーティーで培った“舌”を存分に発揮する。
「これはこれはアティウス殿下! お初にお目にかかります! 私はルーゲン・ラウトと申します!」
「私はヴァネッサ・ルイドと申します」
二人の挨拶にアティウスはにっこりと微笑む。
これは好感触だと悟ったルーゲンは唇を加速させる。
「アティウス殿下のお顔を見たら、ついつい舌が弾んでしまいますよ。まさしく未来の国王、アティウス殿下こそ我が国の至宝! 私も社交界では雄弁と言われる男、今日という日を一日千秋の思いで待ち望んでおりました」
ペラペラと褒めまくる。褒められて嬉しくない人間などいないというのが彼の持論だ。
ここでルーゲンは自分のエピソードも交えようと思いつく。
「ああ、そうそう。この間なんて私は酷い令嬢と出会いましたよ。いちいち喋るたびに『あ』をつける女でして、会話のテンポが悪くなると言いますか、私は同じ貴族として非常に腹立たしくなりましてね。心を鬼にして、『うっとうしい喋り方をやめろ』と忠告してやりましたよ」
ヴァネッサもこれに続く。
「あの時のルーゲン様は大変素晴らしかったですわ。あんな気味の悪い喋り方をする令嬢を、見事に叱って下さって……」
二人は喋っている最中、アティウスの顔が曇っていくことに、従者らの目が吊り上がっていくことに、全く気づかなかった。
喋り終えてようやく、ルーゲンは彼らの異様な雰囲気に気づく。
「あれ……? 殿下? 皆さん……どうなさいました?」
アティウスはどこか落ち込んだような表情で、口を開いた。
「あ、私も……今君が話した女性のような喋り方をすることが多くてね。あ、どうしても昔からの癖で……」
ルーゲンとヴァネッサは一瞬で青ざめた。
「い、いやっ! 違うんです! 別に殿下の喋り方が気持ち悪いと言ったわけでは……!」
「そうです! むしろ『あ』をつけて喋るなんて最高ですわ!」
今更こんなことを言っても白々しいだけである。言い訳しない方がまだよかったかもしれない。
最悪な空気のまま、謁見は進む。
いくら喋りに自信があるルーゲンといえど、これを覆すことはできなかった。
「あ、それじゃ私は……退室させてもらうよ。今日は楽しかった」
アティウスが立ち去る。
気分を害しているのは明らかだが、聡明と言われているだけあり、彼はルーゲンたちを責めることはしなかった。
しかし、従者たちはそうはいかない。失態を演じた二人を睨みつける。
「殿下の心は深く傷ついたことだろう。お前たちに言っておく。雄弁も結構だが、過ぎた弁は時に身を滅ぼすと覚えておくのだな。そう、今のお前たちのように……」
「あ、あうう……」
がっくりとうなだれるルーゲンとヴァネッサ。
今後、彼らが王家と接点を持つことのできるようなチャンスは二度と訪れないであろう。
喋りすぎたことで、彼らは社交界での未来を失ってしまった。
***
ユリーティアはというと、いくらかの交際期間を経て、アトルとめでたく結婚した。
アトルと交際するうち、ユリーティアの『あ』をつける癖は次第になくなっていった。
彼女の場合、おそらくは喋る時に緊張してしまい、自分の中で助走をつけるために『あ』をつけていたものと思われる。
しかし、アトルという最良の伴侶と出会ったことで自信がつき、喋る際の緊張を克服できた――と推測できる。
王子妃となったユリーティアは、自室の窓辺でたそがれるアトルに声をかける。
「どうしたの、アトル様」
「ふと君と出会った頃を思い出してね。あの頃の君はとても無口だったな、と思って」
「そうですね。“無口令嬢”などと呼ばれていました。それと喋る時に『あ』をつける癖も……」
「あったね。今ではそんなこともなくなったけど……でも、喋り方なんてものは君の魅力を上下させるものではないと思い知らされる。今も昔も、君は僕にとって一番の女性だ」
「嬉しいです。でも私も成長しましたし、もう頭に『あ』をつけて喋ることはないでしょう」
ユリーティアが微笑む。
その笑みは優美なだけでなく、王子の妃としての貫禄が備わっていた。
「まもなく父上は兄上に王位を譲り、隠居されるだろう。兄上は優れた統治者になるだろうが、気質は穏やかで大人しい。僕はそんな兄上を全力で支えるつもりだ。それにより、我が国はより栄えることとなるだろう」
「はい」
「こんな大事な時期だからこそ、君に改めてはっきり言おう。愛しているよ」
夫からの愛の告白に、ユリーティアも「私もです」と前置きしてから、堂々と答えようとする。
しかし、先ほどの『あ』のやり取りが脳裏をよぎり、思わず――
「いしてます! アトル様!」
「フフッ、そこは『あ』をつけてもいいんだよ」
完
お読み下さいましてありがとうございました。