序章前編:少女はキノコに出会う
“魔王の森”その名の通りあらゆる魔物の巣窟と化した深き森。かつて、勇者に敗れた魔王が同胞である魔物たちを救う為に自身の命を世界樹の種を発芽させ、魔王樹生み出した魔境。魔王樹の元で生い茂る森林の環境が高濃度の魔力を生み出し続け、あらゆる希少な薬草などが育つ恵みの地でもあるが、この地に住む多くの魔物が種類や個体数によって広範囲の縄張りが多数存在し、幾たびの魔物同士の争いが起きている危険地帯でもある。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、」
「ぶぐぉぉぉぉぉ! ぶぎ! ぶぎ!」
その森の中を駆け抜く少女たちがいた。否、逃げている。魔力を集める器官と獲物を追い詰める武器として担う立派な双角を持った赤き巨躯の猪、双角猪に。
わずか五、六歳である少女は茶栗色の三つ編みを揺らし、黒い瞳に恐怖を浮かべながら、息が切れるほど、汗をかく暇もないほど走った。少なくとも自分の手を捻るほどの魔物から逃れるために。
しかし、通じない巨体を持ちながら、風を切るように突進するその姿はどんどんと少女の距離を狭める。
「はぁっ、はぁっ、あっ⁉」
少女は地面の凹凸に足を取られ、転んでしまう。目の前に生まれて初めての危険が迫って来ているというのに。そんな哀れな少女を魔物が襲い掛かろうとする。
「ぶぎーーーーー!」
「いや、いやーー! お父さん! お姉ちゃん!」
少女は自らの家族を呼びかけるかのように叫びながら、そのあまりにも短い生涯を閉じようとしていた。
しかし、その少女の頭上に小さい影が横切った瞬間、何かがぶつかる轟音が生じた。
「ぶぎぃーーーーー⁉」
「えっ⁉」
双角猪の前を立ちふさがる影が突進を抑えるだけではなく、徐々に押し倒そうとしていた。その光景に驚く少女が見た正体は…
「キノコ……さん?」
黄色い斑点を備えた橙色の笠、少女が可愛いと思うくらいの白色の一頭身、一見すれば美味しそうなキノコのような形貌の拳、少女の言う通りまさしく茸人族である。
しかし、事実としてこの弱弱しい魔物が双角猪の突進を互角以上に相手取り、
『はぁ!』
「ぶぎゃぁーーーーー!」
その茸人族の柔らかい拳は双角猪を殴り上げ、口もないはずの叫びを上げながら、勝利を勝ち取った。
その声は脳裏に響く念話という魔法よりも鮮明でどちらかというと心の中に響くほどの音響だった。
そんな光景を少女はただ傍観するだけだった。
『少女よ、大丈夫か?』
「うっ、うん! 大丈夫……痛っ⁉」
あまりにも素早い決着に呆然しながら返事に応えたが、転んだ際に膝下で出来た赤い痣に苦痛が走る。
『ふむ、捻挫と転び傷か。なら……』
そのマイコニド族は近くに生えていた薬草を少女が怪我した膝下に巻き付けた。その瞬間、痛みが和らいだ。その効能に少女は驚く。
「痛くない⁉ どうして⁉」
『ここの辺りは足の怪我を治す韋駄天草が生えている。
だが、しばらく安静にするんだ。和らいだだけで、完全に足が治るには時間がかかる。』
「ダメ! 絶対ダメ! そんなの待てない! 村のみんなが、お姉ちゃんが食べられちゃう!」
マイコニド族の制止に少女が拒否する。必死になる何かが彼女にはあるらしい。
『どうやら君の村に何かあったらしいな。君のお姉さんが食べられるとはどういうことか教えてくれるか?』
「うん。私たちの村はこの森の向こうに住む草原の村だったの。でも、そこにドラゴンが来て、お姉ちゃんを攫ったの。」
『ちなみにそのとかげ……ドラゴンの鱗の色は?』
「赤色だったよ。そのドラゴンが吹いた熱い火と同じ色の。」
『なるほど、ここの近くにある火山地帯“赤竜の巣窟”に生息する愚者共か。あそこに住むレッドドラゴンは皆、傲慢で意地っ張り故に君のお姉さんが攫われたのはただの戯れに過ぎないかもしれない。』
「そんな……。だったら、早く竜殺しに会わないと……」
『竜殺し…、やめておいた方がいい。ここはさっきのホーンボーア以上に強い魔物があちこちに存在する魔物の森だ。下手したら、君も死ぬぞ。』
「でも、お姉ちゃんが、お姉ちゃんが、うわぁ~~ん。」
あまりにも危機的状況に少女は泣いてしまう。その涙に濡れた瞳を見たマイコニド族は心と記憶の内に何か思う所があるのか、少女の頭を撫でた。
『少女よ。名は?』
「ううっ、ぐすん。マロン。死んだお母さんとお父さんとお姉ちゃんが栗色の髪だからっておばあちゃんが教えてくれたの。キノコさんは?」
『マシュナリーだ。そのドラゴンとやらは私が懲らしめよう。』
そのマイコニド族のマシュナリーはそう彼女に言い聞かせた。
しばらくして、マロンが住む“カヌア村”ではドラゴン
が村長の娘であるブランを攫ったことで、ある者は絶望
し、ある者たちは混乱による言い争いをする中、
村長であるマロンの父親と彼の祖母である長老がいなく
なったマロンについて話し合っていた。
村長はマロンと同じ栗色の髪と黒い瞳を持ち、長老は
白髪だが、息子と同じ黒い瞳をしていた。
「息子よ。マロンはどうしているんだ? 今朝から見てないのだが?」
「それが攫われたブランを助けるために魔物の森の向こうの街にあるギルドに向かったらしくて。」
「何⁉ あそこの森は生きては帰れない禁忌の場所だぞ。」
「しかし、マロンの置手紙を見た時にはもう……」
その時、村人の一人が二人の家の中に駆け寄り、焦った表情で話しかけた。
「大変だ。ホーンボーアがこっちに向かって来る。」
「何だって⁉ 弱り目に祟り目とはこのことか。ドラゴンの次はホーンボーアが襲って来るとは。」
「いや、その猪の背に何か大きなキノコを持った村長の娘が乗ってるんだ!」
「マロンは無事だったのか! いや、何でそんな状況に……? とにかく向かうぞ。」
緊迫した中、余りにも突拍子な状況に困惑する中、二人
は村人たちが集まる村の入り口に向かう。そこには村長の
娘、マロンが大きなキノコを抱え、魔物の森で襲われた
ホーンボーアと共に村へ帰り、村人は魔物を連れた少女へ
の対応に困っている。
「マロン、心配したんだぞ! 勝手に危険な森にいったりして!」
「お父さん!」
マロンは自らの父である村長に向かって走る。
「マロンよ。よくぞ無事で。ここに帰ったということはギルドからの助けを得られたということか?」
「ううん、途中で足を挫いて、戻って来たの。でもね、このキノコさんがドラゴンを倒してくれるの。」
大きなキノコが自分からマロンの手から飛び出し、キノ
コのような拳と底が二つに割れたような半楕円形の脚を生やし、草の大地に着地していた。そう、マシュナリーは大きいけど普通のキノコに擬態していたのだ。
それを見た村長や村人たちに気まずい状況が漂う。
呆れ、絶望、憤慨が蔓延る中、一人の村人が怒鳴り声を上げる。
「ふざけるな! そんな弱そうな魔物に何ができる!」
「さんざん期待させておいて、笑えないぞ!」
「そうよ! 大体、人間ならまだしも魔物に頼るなんてどうかしてるじゃない!」
一人の声から村の大人たちが怒り狂い、少女に避難を浴
びせた。それはマロンの父親である村長も例外ではない。
「いい加減にしろ! お前の姉がドラゴンに連れ去られたと言うのに何てことを!」
姉への心配と疲労によって、精神を消耗した村長は涙を
浮かべるマロンに憤る。
「でも、キノコさんはホーンボーアから私を助けてくれたし、キノコさんは強いから……」
「口答えするな! そんな雑魚にドラゴンが倒せるわけないだろうが!」
村長の愛のない拳がマロンを襲う。それに対し、マロン
はただ目を瞑り、堪えるだけだった。そのはずが……
『この馬鹿親がぁーーーーー‼』
「ぐがぁぁーーーーー⁉」
マロンに村長の拳が来る前にマシュナリーの柔らかい拳
が村長の顔面にクリーンヒットした。その瞬間、マシュナ
リーは強き白のオーラを発し、周りの村人たちを戦慄させ
た。
『貴様! 自分の娘を殴るとは笑止千万! 親の手は子供を殴る為ではなく、子供を抱き、安心させる為と言うことを知らないのか!』
「キノコが村長を殴りやがった⁉」
『黙れ! 貴様らも貴様らだ! 大の大人がこの娘を寄ってたかって怒鳴りつける暇があるのなら、勇気を奮い、攫われた姉を救い出せ! 貴様らの仲間や家族、愛する者を守りたい思いはそんなものなのか!』
たかがキノコに叱られるという余りにもカオスな状況に
憤る村人を黙らせたが、マロンの姉の危機的状況に変わり
はない。
すると、村長がやけくその涙と鼻水でみっともない顔全
てを濡らし、泣きたくなるような声で言い出した。
「キノコであるお前に何が分かる! 平和に暮らしていた村人たちにそんな気高い心があるわけないだろ! 娘たちを愛する気持ちなら誰にも負けない私でさえ、ドラゴンの恐怖に心を折られてしまったんだ! ドラゴンを倒すだと⁉ どうなっても知らんぞ!」
余りにも惨めな村長の姿にマロンや村人たちは困惑し、
マシュナリーは呆れる。
すると、しびれを切らした長老が一喝した。
「皆の者、静まれ! このお方に失礼なことをするのではない!」
「長老……」
「お婆ちゃん……」
『どうやら、この村の長のようだな。すまない、取り乱してしまった。あなたの息子を怪我させてしまった。』
マシュナリーは高揚とした怒りを落ち着かせ、長老に謝罪する。次の瞬間、長老は頭を下げ、涙を浮かべた。
その光景に村長や村人たちが愕然した。
「長老⁉ 一体何を⁉」
「貴方様に再び救わせていただくとは感謝の極まりの無いことでございます。どうか私の孫娘であるブランをお救い下さいませ。マシュナリー様。」
『再び……、それはどういうことだ? しかも、何故、私の名を?』
長老の話によると、魔王と呼ばれし者が蔓延った数十年
前、長老がまだ若かった頃、この村に魔王軍が襲来し、当
時、赤ん坊だった村長さえも命の危機に晒されようとした
時、マシュナリーが現れ、魔王軍を蹴散らしたらしい。
その話に村長や村人たちが半信半疑で驚く中、マシュナ
リーは納得した。
『そうか、あの時の親子か。なら、安心しろ。その娘ブランを必ず救い出して見せよう。』
「ありがたや。ありがたや。」
長老はまるで神にも祈るかのようにマシュナリーの前で
合掌し、感謝を述べた。
すると、マロンは決心した顔でマシュナリーに頼み込
む。
「私も行くよ、キノコさん!」
「馬鹿なことを言うな、マロン! お前やこのキノコが行っても何にもならないぞ!」
「でも、お姉ちゃんが苦しんでるのに何もできないなんて嫌なの!」
いまだにマシュナリーを信じられない村長はマロンを引
き留めるも、少女はそれを振り払い、マシュナリーを抱き
抱える。
『仕方がない。だが、危ないと感じたらすぐ逃げろ。行くぞ! ホーンボーア!』
「ぶぎーーーーー!」
ホーンボーアはキノコに擬態したマシュナリーを抱き抱
えたマロンを背に乗せ、ブラン救出に向かった。
村長は死地に向かいそうな兵士を見るような目でマロン
たちを見送り、ただただ姉妹の安否を願った。