マスクを被っていた女
新しい本を献本する作業をしている。
月に1度の大仕事だ。
前の日に書棚を空けておいた位置に、新書を並べる作業はなかなか骨の折れる作業になる。
真壁さんとの作業はまだ楽な方だ。
真壁さんは経験のある司書で、尊敬する先輩だ。こういった作業も効率よく、且つ気遣ってもらえる。
「河野さん、腰辛いでしょ。適度に休んでください」
「いえ、昨日お休み頂いたので頑張らないと」
「お休みはどこか出掛けたの?」
「都立図書館を覗いて、帰りに美味しいナポリタンをいっぱい食べました。
書店街の「ラルフ」て言うお店です。真壁さんご存知ですか?」
「大盛りで有名な店だよね。河野さんの好みだなんて意外だな」
「成り行きで、行くことになったんですけど、いいお店でした」
「誰かと一緒だったのかな?」
「はい。図書館からの電車の中…でたまたま知り合いと会って…しまって」
「そうなんだ…」
真壁さんはそれ以上は尋ねて来ず、黙々と作業を続け、新書の棚は程なく完成した。
夕方の来館ラッシュをこなして、閉館の準備をしていると川上さんが声をかけてきた。
「河野さん、今日終業後って少しお時間頂けないですか?」
川上さんは20代前半のイケてる女子だ。
パートタイムで図書館に来ているので、ゆっくり話をすることはない。
イケ女からのお誘いは男性と話をするのとはまた別の緊張が湧き上がる。
「あの…大丈夫ですけど、仕事の話ではないんですよね?」
「そうですね。お話の内容はその時に。終わったら、大通りのコーヒーチェーンの前でお待ちしてていいですか?駅前の公園側を西に入ったお店です」
「それは…お任せします」
「ではそこで。後ほど」
細い括れた腰やスカートからスラリと伸びる脚先にはリボンのついたヒールという絵に描いたようなイケ女の後ろ姿だ。
噂によると良いところのお嬢様なのだそうだ。そそと去っていく姿を見送りながら、お嬢様説に頷く。
何だろう…
これまで川上さんと業務以外で話をしたことはない。
改めて外で話となると怖い。
巷では、高額なサプリメントを個人販売で売りつける話を聞いたことがある。
こ…断れるかな…
私は慎ましやかに、趣味に生きる喪女である。
川上さんのような美肌を手に入れるだけの気力もお金もない。
面倒だな…
お金はありません。の一本で通そうと固く誓う。
業務を終えて、通用口を出ようとしたところで真壁さんが声をかけてきた。
「今日、少し飲まない?」
「えっ?ご…ごめんなさい。今日はこの後急用がありまして…」
「そっか…急に誘ってごめんね。また声かけるよ」
「また…。ではお先に失礼します」
真壁さんとは何度か食事をしたことがある。
その時は三輪さんか川上さん、またはその両方がいて、ミーティングによる残業の後が多い。
今日もどちらかと食事に行くことになったのだろうか。
おばちゃんとおじちゃんのお相手を真壁さん1人に任せるのは心苦しいが、今日は川上さんという先約が入ってしまった。
明日またお詫びして、話を聞けば許してくれるだろう。
公園を足早に抜け、駅前のコーヒーチェーンに向かう。
川上さんは律儀に店の前で待っていてくれた。
商売人は礼儀正しいものだ。絆されてはならない。と強く誓って声をかける。
「川上さん、お待たせしました」
「お疲れのところ、ご足労おかけしました。中入りましょうか」
カウンターでコーヒーを注文し、2階の窓際に向かい合って座った。
「河野さん、今日お時間を頂いたのは…」
「私…お金ありません!」
「は…ぃ?」
「本当慎ましやかに暮らしておりますし、お金をかけても程度の知れた顔立ちです」
「えっと…何のお話しでしょう」
「ですから、川上さんオススメの商品は買うことができない…と…いぅ…」
「ふふふ…何のことですか。河野さんっ…ふふふ…」
「え?違うんですか?」
困った。
違うとなるともぅ防御のしようがない。
川上嬢は可笑しくて仕方ないようで、お腹を抑えくの字になって笑っている。
頭を抱えたい気持ちを堪えて、お嬢が落ち着くのを見つめる。
涙を拭きながら、川上嬢はその美しい顔を相好に崩して、肩でゼェゼェ息をしながら、何とか私に向き合った。
「笑えるわ…あのもぅ…このキャラ辞めちゃっていいですか?マジ無理なんで」
「え…はぁ…」
「頭っから、河野さんにやられっぱなし…ったく。調子狂うわ。
とりあえず、この写真見てもらえます?」
お嬢様からギャルにキャラ変を完了させてしまった川上さんがスマホの画面を差し出す。
覗き込むようにして画面を見ると、そこには何処かの店を外から写した写真だった。
「これが…何か…」
「よく見てください。拡大しますから」
画面を拡大させて、もう一度こちらに画面を向ける。
そこには菅田雄太が映り込んでいる。その向かいに座っている女性は他ならぬ私だった。
昨日のお昼のものだ。
「何でYUTAと一緒にご飯食べてるんですか?しかもアンジェラさんとも仲良くしてたって」
誰だYUTAって…、アンジェラ?
頭をぐるぐる巡らせ、
菅田雄太がYUTAであると繋がった。そうなるとあの迫力美人がアンジェラさんとなる。
「何とか言ってください。河野さん」
「…」
どう説明するのがわかりやすいだろうか。
そもそもこの写真は誰が撮ったのだろう。
隠し撮りである。
「お答えする前にこの写真は何方が撮られたのか教えてもらえませんか?昨日のものですよね?」
「そ…そうですね。フェアじゃないし、私が隠し撮りしたと思われるのも嫌なので答えます。
これは私の知人がたまたまYUTAさんを書店街で見つけて撮ったものです。
よからぬ目的に使うような人じゃないので安心してください」
「よからぬ目的とは何でしょうか」
「その…写真週刊誌とかSNSで拡散するようなことです。みんなYUTAが選手として今、大事な時期なのは分かってるから、そんなことしません」
「しゃ…写真週刊誌⁈」
「で、河野さんはYUTAとどういうご関係なんですか?答えてもらえます?」
語気を強めたギャル川上が詰め寄る。
「えっと…菅田さんはウチの実家がやってる豆腐屋の常連さん?で…図書館の利用者さんです」
概ね間違いないだろうか…
「それで…私の恩人…です」
「恩人⁈」
「えっと…色々ありまして…」
「色々って?」
詰めてくる。
「その困ったことになった時に助けてもらいました」
「詳しくっ」
ボカした言葉では、引いてくれないようだ。
「昨日休みだったので、都立図書館に出かけて、その帰りに…」
「帰りに?」
煽るなぁ
「電車で痴漢被害に遭った所を助けて頂きました」
「なんで昨日の昼間に、YUTAが電車に乗ってるんですか!?昨日は移動日だから、勝志おじさんに付き添って九州に向かってるはずなのに」
「勝志おじさん…あぁ、脚を怪我してた…」
「は?おじさんとも知り合い?あなた何者なのよ」
「何者と言われても…一般人…です」
「いやグゥの音も出ないわっ」
「川上嬢、キャラ変が過ぎませんか?」
「…。河野さん、私はこれまでマスクを被ってましたが、貴方にはそれでは通じないようなんで…
私もマスクを取って、正体を打ち明けます」
ん?はぁ?
「私、川上湊はレジェンドオブプロレスラー・山野勝志の姪です。父はレフリーのブルース川上です」
「ブルース川上…」
「私は幼少よりプロレスの近くで育ちました。幼心にレスラーになりたいと思った時期もありましたが、家族の猛反対に遭いましたし、中学生の時に人生を変える出会いを経て、レスラーの道を諦めました。その出会いこそ菅田雄太ことYUTA選手との出会いです」
「は…あ…」
一気に話し切った川上嬢のキャラはもう訳がわからんことになってきた。
「我が家は父と叔父が共に道場を運営していました。そこにYUTAが叔父の付き人として、入門してきたんです。
しばらくしてYUTAはメキシコに武者修行に出てしまって、気が付いたら付き人制度も無くなっちゃうし、練習生の寮はここに移っちゃうしで、私たちの距離はどんどん遠くなっちゃって…今はもぅ1ファンでしかない…」
「なるほど…です。お寂しいですよね。
でも、ほら、図書館でならお会いすることもあるでしょ?」
「そのためにここに勤務してるから当然です!」
え?マジ?ガチじゃん。
「でもYUTAのプライベートを邪魔したくないし、しつこくするのもポリシーに反するので…仕事中は我慢してます」
「ほぉ」
なんて返すのが正解?わかんないよ。
「ぶっちゃけますと、富田潤は私の幼馴染です。はぁ…」
言い切ると、キャラ崩壊川上嬢はコーヒーをゴクリと飲む。
「潤には菅田先輩は無理だって意地悪言われるけど、私の心はずっとYUTAのものなんです」
わぁ…
「で、ですね。ここ最近、潤からも河野さんとYUTAの遭遇情報を得ておりまして、私はその辺の細かいところを教えて頂きたいと思っているんです。
だって私にはその権利があると思うんです」
「権利ですか…。権利とは…」
はぁ…とため息を吐くキャラ崩壊川上嬢。
「私は人生をプロレスに捧げる女です。
私は年間平均360試合を観戦します。うちYUTAの試合は80%を超えます。また朝は叔父のトレーニングの補助や雑務をこなし、空いた時間は図書館での業務に就きつつ、YUTAの息吹を感じる生活をしてます。この私に知る権利がないなんて言わないですよね?」
ヤバっ!
こりゃヤバい。何なら高額サプリメントの方がまだよかったかも…
「詳らかにお話しくださいよ」
「さっきお話しした以上のことは…。
あ…今週、傘をお貸ししました!
で、お礼に高級マカロンを実家の方に頂きました。これが全て…です」
「マァカローン???
なんで先輩が傘貸したらマカロンをYUTAがくれるんですか?
意味わかんないんですけど」
「私もわかりません」
興奮したキャラ崩壊川上嬢を何とか大人しい元祖川上嬢の状態に戻したい。
「あのね川上さん、私みたいなわけわかってないのに聞くより、富田潤くんに聞いたらどうかな?私よりはあっちの事情がよくわかるんじゃないかな?」
「河野さん、いいアイデアですね。
そうと決まれば、潤を呼び出しましょう。
ここなら目と鼻の先だわ」
「え、呼び出さなくてよくない⁈」
「しまった!アイツも今九州に行ってる。
つかえないっ!」
「そう…なんだ」
よかった。このテンションに付き合うのも大変なのに、自転車筋肉くん(富田潤)が揃うなんて、今度は私の自我が崩壊しそうだ。
「河野さんは年間どのくらい試合見るんですか?推し選手は?」
「プロレスの試合はまだ観たことがない…んです。だからその推しって言うのもいなくて…」
「え?観たことない?そんなでYUTAとよくご飯行けましたね!?
あ…そっちパターンか…
だとしたら、私の人生どうなんのよ?」
「まぁ…申し訳ない。勉強不足で…」
「本当ですよ!勉強不足です。
河野さん、試合見に行きましょう。
父と叔父のお陰で、チケットも席も用意できますから!
来週の水曜日空けといてください。
以上」
「え!?」
川上嬢はスクっと立ち上がるとサッサと帰ってしまった。
残された私はグッタリ呆然で暫くその場に座って、冷え切ったコーヒーをチビチビ飲み干した。
ずるりずるりとプロレスに引き込まれて行く感じどうでしょうか。