喪女ピンチ
今日は休みである。図書館では2日働いて1日休みを取るようなリズムで働いている。
川上さんや香奈のようなパートタイマーや学生バイトもいて、なんだかんだと人は足りている。
今日はマッサージと都立図書館に行くつもりだ。
マッサージは高校の同級生に半ば強引にメンバー登録されたが最後、すっかりハマってしまった。月に2回必ずメンテナンスと称して通っている。
さっさと朝のルーティンの家事を終わらせて、家を出る。
マッサージは夕方からなので、都立図書館にまずは向かう。
都立図書館に行くには、電車と地下鉄を乗り継ぐ。
駅に向かい、ホームに上がると実家とは反対側の街並みが見える。
大通りを挟んだ駅前のビルの壁面には大きなモニターがある。
大型モニターではアイドルの新曲のPVが流れていた。
最近はどのグループなのかわからなくなってきた。
ラジオでパーソナリティをしている子は名前を知っていても、顔がわからないことも多い。
年をとったなと思っていると、モニターに筋骨隆々マン橋田と外国人が炎をバックに勇ましいポーズを決めている。
11月に行われる試合を告知しているようだ。
そういえば、昨日菅田雄太と富田潤がチケットを用意してくれると言った試合が隣街の区立体育館で行われるこの試合だった気がする。
動画はシーンを替え、菅田雄太と4人の選手を映し出した。
どうやら2組で試合に出るらしい。
商店街や図書館で会う菅田とは違い、髪をオールバックにした姿だ。
見ているのがなぜか恥ずかしくなった。
思わず目を逸らし、スマホを取り出して眺める。
昨日、隣で話をしていた菅田の声は、低くて少しだけ太い男らしい声だった。
健人は優しい声だし、図書館の先輩である真壁さんもあまり低い声ではない。
上田さんはおじさんの声だし…。
何となく菅田が昨日話していたことを思い出す。
喫茶ビーンのブレンドがお気に入りだということ。スペイン語と英語が堪能なこと。メキシコに住んでいたこと。同じ街に住んでいること。毎朝ジムでトレーニングをすること。
大学以来の男性との交流だったように思う。仕事やバイトは別として。
否が応でも、意識するのは当たり前ではないだろうか。
私は自他共に認める「喪女」。
リアルな恋など皆無な人生を送ってきたのだ。
そんな私が異世界の住人・プロレスラーにしてイケメンと遭遇したのだ。
興味を持ってしまうのは仕方がないのではないだろうか。
異性というより、その存在自体が未知なのだから、恋愛だとかそういうものではないのだ。
そもそも人との交流が仕事以外では皆無なのだから。
この感情は異世界への興味。
異業種交流のようなものに違いない。
無意識に人の流れに乗って、ホームに入ってきた電車に乗り込む。
窓の向こうは昨日までとは打って変わって、秋晴れの良いお天気だ。
流れゆく景色をただ眺める。
ラッシュが過ぎた電車は疎に席を埋め、のんびりとした空気に包まれている。
休日感を味わえる瞬間だ。
ビルに映り込む電車が、幾重にも重なる建物の層を遮る。
都心に近づく程にビルが遠景を遮る頻度が上がっていく。
大通りを渡る瞬間だけ、真っ直ぐに視界が開き、またすぐに遮られる。
そんな車窓からの景色を見ていると乗り継ぎの駅に到着した。
地下鉄のホームへと繋がる連絡通路に向かっていると、バックパッカーの外国人に声をかけられた。
「スミマセン。ココイク。トレイン。乗ル。ドコデスカ?」
栗色の髪に青い目の美しい女性だった。
外国人らしい大きな身体に、巨大なリュックを背負っている。
手に持った地図のページは私の住む街を描いたものだった。
「えっと…アップステア。ゼアアコンコース。ユーキャンライドザトレイン。ナンバー3ライン。OK?トレインカラーイズメイビーライトブルー」
「オケーオーケー。あ…ありがとうゴサマス」
今の英語は大丈夫なんだろうか。頭のどこか片隅から勝手に湧き出てきた英語である。発音なんてお粗末すぎる。
異国のお嬢さんごめんよ。
その英語に何の責任も持てない。
言っておきながら、ごめん。
私が指差す方へと振り返り、手を振ってそのまま階段を登っていく。
大きなリュックからは逞しい太腿が伸びている。
外国人ってショートパンツ好きだよね。
自分も振り返り、地下鉄のホームへと足を向けた。
都立図書館は5階建の建物で、ここも大きな庭園公園の中にある。タイル張りのビルにはカフェや食堂も併設されていて、本好きは1日中ここに居座ることができる。
庭園には四季折々の木々が植えられている。今の季節には銀杏の大木が楽しみのひとつだろう。
時間が許せば、庭園の散策も楽しみたい。
書架を巡って、蔵書を目で追う。
今はネットでも蔵書目録を閲覧できたりする。
ただそれとこれとは別で、書架に陳列された背表紙を目で見るのは全く別のことだと思う。
ひと通り書架を巡ると、植物図鑑を手に取った。この図鑑は写真ではなく、植物を水彩画で表示している。優しい雰囲気のする図鑑で、都内ではここにしかない実は貴重な本だった。
午前いっぱい閲覧室で過ごし、昼過ぎに図書館を出た。
駅から地下鉄で次の目的地まで向かう。
車内は程々に混み合っている。
運良く座席に座っていると、次の駅で一気に乗客が増える。
目の前に男性が立った。
黒い皮のジャケットを着た大柄な男性だ。
筋骨隆々マン橋田より大きいが、もう少し年を取っている。
目の前にある男性の足には、ガッチリと固定具がついている。
思わずすくっと立ち上がって、席を空けると目線で促した。
「ありがとう。お嬢さん」
しゃがれた声での御礼の他に周りからも御礼の言葉が聞こえた。
思った以上の反応に驚いてしまう。
よく見ると、彼の周りは同じようなジャージ姿の大柄な若者が数人付き添っている様だ。
うまく移動して、扉の近くに立った。
目的の駅までもう残り数駅だ。
扉の前に立っていた時だった。
不快な感じが背後でした。
気のせいかもしれない。
揺れる車内だし…。
次の瞬間、お尻を鷲掴みされた。
や…やっぱり痴漢っ!
ひっ!と顔を上げると地下を走る真っ暗な車窓に真後ろに立った俯いた男の興奮した表情が映った。
ヒィーーー……気持ち悪いっ!
次の駅まであと少しだ。
何とか防御して、逃げ切ろうっ
触ってくる手を自分の手で払おうとする。
相手はその手をすり抜ける。
気持ち悪さで泣きたくなる。
「おぃっ!おまえ犯罪だぞ」
大きな低い声が怒鳴りつける。
驚きながら、振り返ると
痴漢男の手はしっかりと捕まえられていた…菅田雄太に…
え?
どういう状況?
何で、ここで菅田雄太?
涙目だった私の瞳から、迂闊にも涙がポロリと一粒驚きのあまり溢れる。
「次の駅で降りよう」
菅田雄太が掴んでいた痴漢の腕を別の男性が引き継ぐ。
菅田に支えられ、4人で次の駅を降りた。
「大丈夫か?気分は?
辛いかもしれないけど、ちゃんと手続きをしないか?」
言葉がなかなか出てこない。
私は黙って頷いた。
男が引き渡されるまでの長い時間、菅田雄太はずっと付き添ってくれた。
「菅田さん、色々ありがとうございました」
菅田雄太は少し戸惑った顔で、
「河野さんの方が色々ご負担だったでしょう。気分は悪くないですか?」
「いえ、だいぶ落ち着きましたので。
その…予定とかお有りになったんじゃないですか」
「自分は…大丈夫です」
「付き添って頂いて、心強かったです。
本当にありがとうございます」
「いえ…」
菅田は無表情のまま、俯き加減に頷く。
「腹空いてませんか?」
「え?」
「いや、電車乗ってるのが昼時だったから、腹減ってないかなって」
「そう言えば、お腹…空きましたね」
「じゃあ…その辺で飯行きましょう」
「そうですね。行きましょう」
駅を出て、促されるまましばらく無言のまま歩くと、菅田が足を止める。
「ここ、知り合いの店なんですけどいいかな」
洋食で有名な店だ。
正直、お腹が空いていて何でもいい…
頷くと、菅田が先に店内に入り、窓際の席に座った。
座るとすぐに、ウェイトレスが水とメニューを持ってくる。
「あんた、何でこんなとこにいるのよ?」
「まぁ、色々あんだよ」
「ボスは知ってんの?」
「知ってる」
「ふぅーん…」
長身の迫力美人がチラリとこちらを見る。
「いらっしゃいませ。突然ごめんなさいね。
今の時間は軽食だけなの。こちらのページからお選びくださいね」
「あ…はい。ありがとうございます」
丁寧にメニューを開いて、渡してくれた。
トースト、ミックスサンドにパスタなど、十分なラインナップだ。
「俺、ナポリタン大盛りで」
「私もそれを…普通盛りで」
「はぁーい。ご注文承りました」
迫力美人が奥に下がる。
菅田を見ると、窓の方に顔を向けていた。
行きつけの店に、こんなの(私)を連れて来たことを後悔してるのかもしれない。
ここはせめて会話を盛り上げるべきだろう。
「ここ、良く来るんですか?
洋食喫茶の有名なお店ですよね」
「うん。あぁ…。道場の先輩に連れられてよく来るんだ。バイトも顔見知りが多いから。気を遣わないし。
来たことありますか?」
「いえ初めてです。いつか機会があればとは思ってたんですけど。
レスラーの方って顔が広いんですね。さっきの方も…」
「腐れ縁なんだ。高校からの付き合いで」
菅田が割って入る。
「…ご友人が多いんですね。いつもの皆さんとも仲良さそうですし」
「道場のやつらは家族みたいなもんなんだ。今日、河野さんが電車で席を譲ってた人も道場の…俺の師匠なんだ。
今、膝を痛めてて、だから、席譲ってもらってありがとうな」
「いえ、私でなくてもお怪我されてる方がいたら、譲ったと思いますし。たまたま目の前に座ってたので」
「席を譲らなきゃ、あんな目にも合わなかったのにな」
「まぁそれは運が悪かったというか…。
普段から電車で移動してるんですか?」
「普段は師匠の車で移動するんだけど、今日は事情があって急に電車移動にしたんだ」
「大勢の付き人さんがいらっしゃってましたね」
「うん。師匠はスター選手だからな。若い選手の面倒見てくれてるんだよ」
「そうなんですね。電車の中でとっても迫力ありましたよ」
「みんなデカいからさ、いつもは一般の人に迷惑かけないようにしてんだけどね。
師匠があの状態だから、俺たちも何とか楽させたいなと思ってたら、
河野さんが席をサラッと譲ってくれるもんだから、つい声に出ちゃって。
驚かせて悪かったな」
「とんでもないです。
そう言えば、付き人ってどんなことするんですか?」
「師匠の仕事の雑務とか普段の生活の身の周りのこととか全般だよ。そこでレスラーとしての心構えを教えてもらうんだ。
実は今はもう「付き人」って制度はないんだけど、師匠には慕ってる練習生も多くて、あぁやっていつも付き添ってる奴が多いんだ」
「色々見て覚えられるのはいいですね」
「俺がデビューしてからも、師匠には色々勉強させてもらってる。
たまに殺された方がマシって技をリングの上でかけられるんだけどな」
いつのまにか菅田の言葉遣いが、リラックスして柔らかくなってきている。
「はぃ。お待たせしました。ナポリタン大盛りと普通盛りです」
ドンとナポリタンがテーブルに置かれる。
私の前に置かれた皿は山のようなパスタがのっている。
「私、あの普通盛りをお願いしたかと…」
「こちら当店の普通盛りです。
あんたね。ちゃんと説明したの?
うちは大盛りナポリタンが名物なのよ。
一般の普通の女の子がこんな量食べられると思ったわけ?」
「あ…すまん」
「ったく…あんたが彼女の分も食べなさいよ!エコじゃないことは許さないからね」
「お…おぅ。わかった」
迫力美人はそのまま奥に一度下がって、新しい皿を私の前においた。
「食べられそうな量だけ、ここに移してね。
こんな量、こいつらレスラーからしたら全然普通だから気にせずね」
私の分だったはずの山盛りパスタの2倍の量はあるナポリタンをガツガツと菅田は食べはじめていた。
本当に大丈夫だろうか…
不安になりながらも、自分で食べられそうな精一杯の量を皿に移した。
その間も菅田は黙々と食べ進めている。
「いただきます」
私も口にする。太麺にたっぷりのトマトソースが絡みつき、美味しい。柔らかめの麺が甘酸っぱく、ベーコンの歯応えとピーマンの苦味がアクセントになっていてとても美味しい。
バターの風味を感じる後味もいい。
2人とも黙々と食べすすめ、何とか私が取り分けた分は食べ終えることができた。
菅田の方はと言うと自分の分を食べ終え、私の取り分けた残りに手をつけている。
口の周りがトマトソースで真っ赤だ。
何?この可愛い生き物?
イケメンフードファイター??
すごくいい!
気持ち良い食べっぷりにウットリと見入ってしまう。
清々しいほどの食べっぷりだ。
自分がこれほどまで、人が食べる姿に魅了されたことがあっただろうか。
なんとも言えない感情が胸の奥から込み上げて来た。
ずっと食べててほしい…
見惚れていると、迫力美人が空いた皿を下げた所に、バナナジュースを2つ置く。
「こちらサービスです。バナナジュース飲める?」
「ありがとうございます。いただきます」
迫力美人は私をジッと見つめると、
ふっと笑い。
手で口の周りを指した。
慌てて、テーブルの紙ナプキンに手を伸ばす。ナプキンで口を拭うと、オレンジ色の染みが大きくついた。
菅田と目が合う。
目尻を優しく細め、口元を紙ナプキンで拭っていた。
「あ…あんまり見ないで下さい」
「いや、わりぃ」
ニヤニヤとしながら、食後のバナナジュースをストローを摘んで飲んでいる。
1時間ほど迫力美人を含めてお喋りをして、私たちは店を出た。
食事の支払いは道場が払うということで、ご馳走になってしまった。
電車でいつもの街まで戻り、私たちは駅で別れた。
マッサージにメンテナンスに行くつもりだったけれど、何だか気が乗らず、キャンセルの電話をして、そのまま家に帰った。