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喪女の取り扱い

ホワイトボードにいくつか文字が並ぶ頃、誰かのお腹が鳴った。

閉館から2時間が経過。マジ限界だ。

上田さんも我に返ったようで、部下たちの心底ゲンナリした雰囲気を察し、企画会議を収束させた。

来週までに各自特集用の本を検討して提出するようにと言われて解散とあいなった。

時計の針はもう9時近い。

月に一度ほどこのような残業が発生することがある。滅多にない事が故、疲れてしまった。


「まだ雨降ってるわね。ヤダわ面倒くさい。あとは明日にして、さっさと帰りましょうよ」

「そうですね。今日はもう帰りましょう」


三輪さんと真鍋さんが帰り支度を始めるのに合わせて、私と川上さんも用意を急いだ。

通用口の前に行くと警備員さん呼び止められた。

「河野さん、預かり物してますよ」

「わたし?」

「菅田さんという男の人が傘をお返しに来られました。しばらく外で立たれてたんで、こちらからお声がけさせてもらって、そしたら河野さんに傘をお借りしたけれど、ないと困るだろうからとこちらをお預かりしました」


夕方に菅田雄太に貸した赤い折りたたみ傘が丁寧にビニール袋に包まれて手渡された。


「濡れたものをすみません」

「いやビニール袋に入った状態でお渡し頂いたんです。コンビニ帰りかなんかの買い物袋だったんじゃないですかね。目の前で袋に入れて下さいましたから」

「そうだったんですか。とにかくお手数おかけしました。ありがとうございます。お疲れ様でした」

「はい。皆さんお疲れさんです」


確かにないと困っただろうから、すぐに返してもらえて有難い。細筋肉マンありがとうと心の中で感謝していると、興味津々な顔でこちらを見ている三輪さんと目が合った。


「なに?なによ?男の人って?」


警備員のお兄さん。余計な情報量多かったな。


「実家のお得意さんが傘持ってないようだったんでお貸ししたんですよ。本も借りられたんで、濡れると困ると思って」

「ふぅーん。そうなんだ。また本返しに来るのね。楽しみだわね。それじゃあ私お先に」

「お疲れ様です」


振り返ると真壁さんが立っている。

「私たちも帰りますか」

「はい」


戻ってきた傘を差して2人で並んで公園の中を駅の方へと歩いていく。

10月の夜の雨は蒸し暑さも寒さも特に感じさせないから好きだ。公園の中を照らす街灯に雨が照らされる感じもいい。

会議の課題について真壁と話しながら公園を抜けると交差点の向こうに煌々と灯りがついた雑居ビルが目に入った。

いつもは気にしたことのないものが目に入るとまるで別の街にやってきたような気分になる。ポスターが何枚も張られたガラスの奥には大きな人影が数人分見える。奥にはリングのようなものもある。

ここかぁ。毎日通ってるのに気が付かないものだ。

「ここですね」

真壁も同じように建物を見ている。

5階建てのビルの中程に白い看板に赤い文字で「ミタヤジム」と書かれている。間違いない。


「男の私でも良い体の男性は惚れ惚れしちゃいますね。河野さんはいかがですか?」

「いかがですかって」

思わず笑ってしまう。

「健康的だなとは思いますけど、現実味がないというか…。運動とは無縁な人生なんで、別世界感が半端ないですね」

「別世界か(笑)僕も同じ感覚ですね。身体ひとつでやってるわけですから、男として憧れなくもないんですけど。想像もつかないな」


信号が青に変わり、横断歩道を渡って商店街を歩く。駅前の短い商店街は人の往来が増える。塾帰りの学生やビジネスマンが行き交っている。

傘を閉じ、そのまま駅へと歩いていく。大通りに面したファーストフード店やパチンコ屋が騒々しい駅前の雰囲気を掻き立てる。大通りを渡った所で、真壁と別れ、そのまま駅中を突っ切って進むとまた交差点だ。

信号待ちをしていると後ろから声をかけられた。


「こんばんは。お帰りですか?」

自転車に乗った大柄な若い男性に声を掛けられる。つい俯き、身体が強張る。


「あ、昨日お豆腐屋の方でお会いしたんですけど、突然声かけちゃってすみません」


よく見ると昨日の自転車筋肉くんな気がする。


「あぁ、すみません。ボーっとしてたもので」


嘘だ。全くわからなかった。


「結構遅くまでお仕事なんですね」

「いえ、今日は残業でこんな時間になってしまって」

「遅くまでお疲れ様です。僕はバイト中です。またお豆腐屋さん伺いますんで、よろしくです。じゃあ」


大通りの信号が青に変わると自転車に乗って筋肉くんは去って行った。

何だか筋肉三昧の1日だな。横断歩道を人の波に乗って渡ると見慣れた商店街だ。アーケードが閉まっている店がほとんどの中、何軒かの居酒屋やチェーン店の灯りが商店街を賑わせていた。数十メートル歩くと路地に入る。我が家はもうすぐだ。ポストの中を改めると実家の紗枝から差し入れが入っていた。有難い。

玄関の鍵を開けて、靴を脱ぐと脱衣所に向かう。雑巾を持って玄関に戻る。靴と傘の雨粒や泥を払う。

お風呂に湯を溜め、キッチンへと向かう。


紗枝からの差し入れを開けると立派な豚の角煮と大根がテラリと濃い茶色に艶めいている。美味しそうだ。レンジに突っ込み温める。ラジオの電源を入れる。

この時間のパーソナリティは中堅男性アイドルだ。カラカラとした笑い声が聞こえてくる。

レンジがチンとなるのが待ちきれず、扉を開ける。豚の角煮から湯気がたちのぼる。最高かよ!

箸で摘むと抵抗なく塊が割れていく。口に頬張ると甘辛い味がたまらない。天才!大根も中まで味が染み込んでいる。

お風呂の湯が溜まった。豚の角煮一切れと大根をひとつに留め、温かい湯に浸かった。

ラジオを聴きながら、湯に浸かるのは最高の贅沢だ。ひと番組分たっぷりバスタイムを楽しんだら、冷蔵庫から冷えた炭酸水とウイスキーを取り出し、自家製ハイボールを作る。

残しておいた豚の角煮と冷蔵庫の作り置きのきんぴらを容器ごと持って茶の間へと運ぶ。

ラジオを聴きながら、晩酌を進める。豚の角煮と大根を明日のお弁当用に残す。たっぷり作ったきんぴらを肴にしながらチビリとお酒を流し込む。

スマホを見ると、香奈からメッセージが届いていた。

「先輩、筋肉イケメンとはお知り合いですか?」


ん?香奈は今日の菅田雄太とのやりとりは知らないはずだ。


「昨日実家に豆腐買いにきてくれてたんだよ」

メッセージを送るとすぐに返事がきた。

「そうなんですか。もっと前から知り合いなのかと思ってました」

「そんなことないよ。昨日が初顔合わせ。香奈が帰った後、カウンターで貸出ししたけど」


本当は傘も貸したけどね。言わない。どうせ近々三輪さんあたりから耳に入るだろうけど。


「傘、貸したんでしょ?急接近じゃないですか」


早くも耳に入っている。三輪さんめ…。


「本濡らされそうだったからね」


ちょっと言い訳っぽく聞こえるかも知れないが事実だ。

何ターンかやりとりをして、妹の紗枝に御礼のスタンプを送るとスマホを置き、ハイボール一杯分の晩酌を終わらせる。ちょうど洗濯機がピーと洗い上がりの機械音を鳴らすと、脱衣所に向かっていき、小さな脱衣所から続く一畳ほどのサンルーム兼廊下に洗濯物を干し、台所の洗い物を済ませ、お風呂洗いも完了した。


2階へと向かうため、玄関前の廊下でふと赤い折りたたみ傘が目に入った。開いたまま、玄関の床に置いてある。雑巾で拭っても取れない水気を乾かすためだ。

大きな身体の菅田雄太にこの傘は小さかったかも知れないとふと思った。

お節介だったなと自己嫌悪に陥りながら、いつもと違う一歩踏み込んだ自分の対応や香奈とのやりとりを思い出して色々と考えてしまった。

ラジオからはお笑いタレントの声が聞こえる。布団に入って昼間読んでいた本を一気に読み終える。気がつくと眠りに落ちていた。


夜中、ラジオの音で目が覚める。ラジオを消して、水を飲みに一階に降りる。


何となくテレビをつけてみる。

格闘技の番組が流れていた。ボーっと眺めていると筋骨隆々マンが登場した。リングの上で悪役風のレスラーと闘っている。

大きな身体を宙に舞わせて相手をなぎ倒したり、悪役っぽい相手レスラーに殴られたりしている。

大きな胸板を何度も殴打されたり、あらぬ方向に脚を捻られる痛々しい姿には目を背けてしまう。

筋骨隆々マンの額に茶髪のロン毛がはりつく。汗を飛び散らし闘う姿は勇しく見える。

「いい身体」が闘う姿に魅入っていると、どうやら決着がついたようだ。

レフリーが筋骨隆々マンの左手をリング中央で高々と掲げあげる。

筋骨隆々マンの名前は橋田達也というらしい。

テレビ画面に彼の名前と決め技が大きく表示されている。

人気者のようで、たくさんの観客が彼の名前入りのタオルを掲げ、勝利を讃えていた。

試合後のインタビューに見たことのある人懐っこい笑顔で答える姿を見て、テレビを消して布団に戻る。


筋肉ざんまい。という言葉が頭を過ったが、すぐにもう一度眠りについた。




今朝はバックヤードで三輪さんと共に、新書と古い本の整理だ。

三輪さんのお喋りにつきあいながら、作業を進めるとあっという間に昼休憩になった。

昨日の雨は小降りながらも降り続いている。温かいコーヒーが美味しい。

タンブラーからはまだほのかに湯気がたちのぼっている。三輪さんにもらったチョコレートと幼馴染が焙煎したコーヒーは相性がとても良かった。

午後からの英気を養っていると、スマホが鳴る。紗枝からメッセージだ。


「お姉ちゃん今日は必ず店によってね。遅くなってもいいから」

「オッケー」とスタンプを返す。


身支度を整えて午後からはカウンター業務に着く。

学生が増えてきた頃、菅田雄太が入ってくるのが目に入った。軽く会釈を交わす。その姿を見ていた三輪さんが近づいて耳打ちする。


「あの人?あの人?イケメンね」


興奮気味な囁き声に何とかポーカーフェイスを保とうと努力する。

ん?私めちゃ意識してない?

これだから喪女はっ…と自分で自分に言い放つ。

男慣れしていないアラサーほど変に意識過剰になってしまうものだ。

まさか自分にそういった事態が訪れてしまうとは…ザワザワと騒ぐ胸の内を隠すように、パソコンの画面に必死に課題用の資料を打ち込んでいく。

無心よ!無心!


心を何とか落ち着かせながら資料を作っていると貸出カウンターに常連の老人たちがポツリポツリと並ぶ。

貸出対応を続けたり、本を一緒に探したりしているといつの間にか菅田雄太の姿は消えていた。

内心ほっとしてしまう。

慣れない感情はペースを乱す。

喪女の心は乱れやすい。

自己コントロールは身を守る。と自分に言い聞かせる。


課題の資料作成をしたり接客をこなしているうちに、気がつくと退勤の時間になった。


サッと身支度を整えて通用口を出ると雨が降り続いていた。

昨日、菅田雄太に貸した赤い折りたたみ傘とは違う水色の傘をさして歩き始める。

赤い傘と菅田雄太のことを思う。

わざわざすぐに傘を返しにきてくれた。律儀な性格なのだろう。

警備員さんにわざわざビニール袋に入れて預けてたし…な。

待て待て、単純によく知らない女から突然傘借りて、キモかったんだよ。

だからサッサと返しとこうって思ったんだって!

警備員さんには普通に礼儀を払っただけでさ。

自分に良いように想像して、これだから喪女はっ!また自分で自分に言い放つ。

菅田雄太がなぜこんなにも気になってしまうのか自分でもよくわからない。


明らかに舞い上がっている自分を自己分析しながら、実家の豆腐店に向かう。

まず爽やかアイドル系自転車筋肉くんに出会った。その後、橋田達也が店にやってきて、あまりに非現実的な体躯に驚いた。

その後、橋田に比べると若干受け入れやすい菅田に安堵したのではないだろうか。

安心から自分に近いという誤認識を起こし、傘を貸すという私にしては大それた行為に至ったと結論する。

その後は、周りの雰囲気に乗せられてしまっていると解釈した。


自己分析が冷静にできたことで、いつもの自分を少し取り戻した気になった。

ひとつひとつの行動を裏付ける客観性に自画自賛をしていると、あっという間に実家の豆腐店に着いた。


すでに降ろされたシャッターを開けて中に入る。


「お姉ちゃんお疲れ様ぁ」

「ただいま」

「まあまあとりあえずご飯食べて行きなよ。お腹空いてるでしょ?」

「サンキュー。マジ神だわ」

「今日は豚汁とブロッコリーのお浸しです」

「ヒャッホー」

「豚汁あっためてくるからちょっと待っててね」


紗枝は生活空間のある2階へと上がって行った。

父と母が別れてから、女3人でここに暮らしてきた。

父の母である祖母は豆腐屋を継がずに出て行った父のことを申し訳なく思い、自分の住んでいる近所の一軒家を母に遺してくれた。

それでも母は早朝からの豆腐作りを行うために店の2階に住み続けている。

ちなみに商店街の古くからある店はどこも同じような作りで、隣の健ちゃんのお宅も類に漏れず。

今は喫茶店の2階に健ちゃんと紗枝の家族が住んでいる。元々の持ち主である老夫婦は近くのアパートで大家をしながら、通いで喫茶店を営んでいるのだ。

健ちゃんのお爺さんは元々は不動産業に心得があり、バブル期に近くの土地を売買し、残した土地にアパートを建てたやり手である。

店のパソコンが置かれた机の上に高級洋菓子店の紙袋が置かれていた。下町の商店街には見慣れないものだ。

妹の紗枝が菓子製菓学校に通っていた頃、一度バイト代をはたいて買ってきたことがあるが、確かマカロンが美味しいお店だったはずだ。


2階から紗枝が降りてくる。

湯気が優しくのぼる豚汁がのったトレーを私の前に置き、紗枝も正面に座る。


「お姉ちゃん、このマカロンの訳を聞かせてもらうわよ」


はい?!

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