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喪女の暮らし2

目覚まし時計が鳴っている。朝は苦手だ。スマホを眺めてから、のそっと布団から起き上がるとカーテンを開ける。軽く伸びをして、一階へと降りる。ラジオをつけて、そのままお風呂場でシャワーを浴びるとようやく目が覚めてきた。

髪を乾かしていると、ラジオが7時を知らせる。

パーソナリティが今日の天気の話をしている。夕方から雨か。傘を持って行かないと。

健人の店で買ったコーヒー豆を機械にセットするとすぐに部屋中が良い香りに包まれた。

昨日の晩御飯の残りをお弁当箱に詰める。ご飯にふりかけをかけるか、梅干しをのせるか考えていると、コーヒーができあがる。

朝の時間って何でこんなに早く過ぎるのか。

梅干しをのせて、お弁当に蓋をして、保冷剤と一緒に袋いれる。


落としたばかりのコーヒーをマグカップとタンブラーに注ぐ。

朝はやることが多い。

コーヒーをすすりながら、お弁当の残りをつまんで朝食終了だ。洗物を爆速で済ませ、昨日干した洗濯物を片付ける。


なんとなくつけている音の無いテレビに目が止まった。


派手な衣装を着たプロレスラーが映っている。

人懐っこい笑顔でレポーターに答えているのは昨日見た筋骨隆々マンだ。

どうやら人気選手だったらしい。

後ろに数人のレスラーが立っている。

派手な衣装を着たレスラーの中に細筋肉マンもいた。

ひとり黒いブルマーのようなパンツに黒いブーツ、昔ながらのレスラースタイルに見える。

昨日と同じ無愛想な表情でたっていた。

他のレスラーはマスクを被ったり、派手なガウンに身を包んでいるのに比べると地味な感じがするが、首から下げたタオル以外はほぼ肌を晒しているので、細筋肉マンのスタイルの良さがよくわかる。

胸筋としっかりと割れた腹筋は絵に描いたようで、他のレスラーに比べるとそのスタイルの良さははっきりしている。

ボーっとながめていると、映像がスタジオの様子に変わる。

ハッと時計を見る。ヤバい。朝の2分は貴重だ。


バタバタと化粧をして、コーヒーの入ったタンブラーと弁当を鞄に入れて家を出た。


家から職場までは歩いて15分だ。

駅を抜けて反対側の同じ街にある。ただ朝の駅は人混みを抜けるのがなかなかハードだ。

駅を抜けて大通りを渡ると斜めに走る短い商店街。ここを過ぎると大きな公園に出る。その中にある古びた近代建築の建物が勤務先の区立図書館だ。


私はこの建物を愛している。

戦後に建てられ、くたびれた様にも見える二階建ての洋館。

薄汚れたモルタルの壁もアーチを描く窓も完璧だと思う。毎朝この建物を見る度にテンションがあがる。

勤めて8年目になる今もふと嬉しさが込み上げる。

図書館として利用するため、増築と改修を重ねても尚素晴らしい佇まいは、この街の1番の財産だと思っている。

公園の小道を抜けて、建物を回り込むと建物の関係者入口がある。茶色の重い扉を開けると冷たく光る廊下が真っ直ぐに伸びる。

廊下の突き当たりの窓から差し込む光が長く伸び、床に光の道を作る。今日も最高だ。



事務所の扉を開く。


「おはようございます」

「おはよう」「おはようございます」


先輩の三輪さんと真壁さんが迎えてくれた。

三輪さんは50代の元教師の女性職員。真壁さんは30代の物静かな男性職員だ。

鞄を机の引き出しにしまっていると、元気よく扉が開く。


「おはようござぃまーす」


同僚の香奈がワタワタと隣の席にやってくる。


「下の子どもが保育園やだってグズるもんだから、保育園の門の前で押し問答ですよ。全くやられたわー」

「わはは。大変ねー。お母さんどうしたの?」

「お友達の女の子が現れたら、ママあっち行って。ですよ。泣きたいですよ。母悲しい」

「まあまあ無事登園できてよかったじゃない」

「まぁそうなんですけどね。なんだかなぁって感じです」


ワイワイと香奈の話しをしていると上司の上田さんが入室してきた所で、朝礼が始まる。

今日のシフト確認と業務の注意点と先週の申し送り程度で、いつもと変わらぬ始業だった。



書棚が並ぶ閲覧室に電気をつけ、掃除機をかける。書棚の埃をはらう。閲覧机をふく。

掃除が終わるとパソコンを立ち上げて、返却BOXに昨日のうちに返された本を確認して棚に戻す。

あっという間に開館時間となり、来館者がポツリポツリと閲覧机を埋めていく。


午前中は返却窓口を担当することになっている。午前中はほとんどがお年寄りで、僅かに小さな子ども連れの親子が混じる程度だ。


静かな館内にピッと本のバーコードを読み取る音が響く。僅かに人が発する音とカン高い機械音が私の職場のBGMだ。

素晴らしい。最高の職場だと思う。


「河野さん、ごめん。僕ちょっと接客かかりそうなんで貸出も少し頼んでもいいかな」

「わかりました」


貸出窓口の担当をしていた真壁さんが来館者の対応をしている間、返却と貸出を並行して対応することになる。

大丈夫だと思うが不安にもなる。

稀にかぶることがあり、ワタワタするのだ。

誰も急かしたりしないのに気持ちが焦ってしまう。


「すみません。返却です」

「はい。確認します。...大丈夫です。ありがとうございます」

「ありがとうございます」

「これお願いします」

「3冊ですね。...25日までの貸出です。ありがとうございました」

「はい」


この繰り返し。

だが接客が苦手な私はやや緊張しながらこなしていく。


「河野さん、ありがとうございます」

「いえ」


戻ってきたら真壁さんと囁く様に短く会話をして、担当に戻る。


来館者がカウンターにやってこない間に、期日を越えた未返却リストを確認してリストを作る。

パソコンの画面を睨みつけながら、返却対応をこなしていると肩を叩かれた。


「お疲れ様です。変わります。お昼休憩どうぞ」

「お疲れ様です。ではお願いします」


遅番で出勤した川上さんが声をかけてきたので、早めのお昼休憩へと事務所に戻った。


先に戻っていた真壁さんが持って来たお弁当を開けているところだった。


「お疲れ様です」

「お疲れ様です。さっきはありがとうございました」

「いえいえ。解決しましたか?」

「いつものように本のタイトルわからないけど内容こんなのクイズでしたけど、なんとか」

「さすが真壁さんですね。で、答えは?」

「寺山修司の『赤い糸で縫いとじられた物語』でしたよ」

「どうしてわかったんですか?」

「映画化、詩的な童話、オムニバス、バッドエンド、男性著者、消しゴムの話し、で正解に辿り着きました」

「さすがですね。消しゴムの話か...あの本ってほんとなんだか悲しくなる様な話ばかりですよね。でも寺山修司らしい詩的な言葉が何だかいいんですよね」

「僕も学生時代に読んで、その後もう一度読んだんですけど、また違った哀しさに気づいてすごくよかったですよ」

「真壁さん本をたくさん読まれてますけど、同じ本をまた読むこともあるんですね」

「1度目と違う気づきが嬉しくなるんですよ。安心感の中に刺激があるというか...新しい物語を読んでる気持ちになることもあるんで、たまに」

「刺激…。本の中の刺激は大歓迎です。真壁さんの読書量には頭が下がります」


昨日、紗枝から言われた言葉が一瞬頭をよぎった。真壁さんも刺激は本から得るタイプの様だ。同類。安心。



お弁当を食べ終わると、タンブラーを持って図書館を出る。

公園の西側に立つ図書館は芝生広場や大きな池を望む。公園の各地にはベンチが置かれている。その中のひとつに腰掛ける。


犬の散歩をしたり、広場で子どもと遊んだり、まばらに散らばる人々は思い思い時間を過ごしている。

カーディガンのポケットから本を取り出し、栞を挟んだページを開く。

目が文字を追い始めて間も無く、私は本の世界へと埋没していく。

こうなると周りの音など気にならなくなる。

本の中は自由と刺激とまだ得たことのない感情に溢れている。本は文字で紡がれた美しいタペストリーの様だと思う。読み手はひと目ひと目愛でる。読み進めるうちにタペストリーの全体像を知り、恍惚とした気分になる。

幸せだ。


ポケットのスマホが休憩時間の終わりを告げる。本に栞を挟んでポケットに入れ、足早に職場に戻る。



午後は返却された本を書棚に戻す作業や傷んだ本の確認や修復で時間が過ぎていく。学生の姿がチラホラと増えだし、図書館は俄かに騒がしさを増す。静かだけれど人の存在感が空気を震わせている。



返却本を書棚に戻していると、本棚の向こうにジャージ姿の背の高い男性が目に入った。朝テレビで見た細筋肉マンだった。

歴史コーナーで立ったまま本を読んでいる。

へぇ脳筋ってわけでもないんだな。


ジャージを着ていても、スタイルの良さは一目瞭然で腰の高さが普通ではない。ついつい今朝見た腹筋を思い出し目を白黒させていると、後ろから


「イケメンですよね」


通りすがりの香奈がそっと耳打ちしてきた。ニヤニヤと笑っている。


「時々来てますよ。ふふふ。じゃあ私、これ片付けたら、子供のお迎えがあるんで上がりますね。後でメッセージ送ります」

「あ...うん。お疲れ様」


興味を持っていると思われてしまった。

喪女を舐めてはいけない。

イケメンだろうがなんだろうが、そこにいるのは3次元のリアルな男である。

興味なんて持つ訳がない。浮ついた感情などリアルではなんの役にも立たないではないか。香奈ってば、本当にわかってないな。


本を棚に返しながら、そんな思いを巡らせているとピカッと窓の外が光り、雷の音がした。天気予報通り、雨が降り始めたようだ。

窓の外を眺める人々が囁きあう声で図書室は一定の静けさを持ったまま騒がしさに包まれている。窓ガラスを雨が打ちつけはじめていた。


カウンターに戻ると三輪さんが話しかけてきた。


「河野さん傘持ってきた?雨夜まで降るみたいよ。今日は来月の特集棚の話もするのに雨降ってると億劫ね」

「置き傘があると思いますけど、会議遅くならないといいですね」

「上田さんが張り切らないといいけどね」


本を乗せたカートを押し、三輪さんは奥へと向かっていく。

貸出カウンターに人が待っているのに気づき、慌てて対応に向かう。

学生たちが入口に集まっている。騒がしい空気だ。

風除室の向こうでは電話をしている人も何人かいる。


手早く貸出の手続きをしていると、細筋肉マンがカウンターの列に並んだ。

さっき読んでいた歴史書を借りていくのだろうか。彼の番が来ると本を差し出す。


「昨日はどうも」

「こちらこそです。ご贔屓頂いてありがとうございます。貸出カードお預かりします」


ジャージのポケットから折り畳まれた財布を取り出し、大きな手でカードを差し出す。

カードに書かれた名前には「菅田雄太」と書かれている。名前を確認していると悟られないスピードでバーコードを読み取ると、続けて本のバーコードを読み取る。

幕末を描いた長編小説の4巻と戦国時代を舞台にした小説を借りる様だ。


「本日から2週間。25日までの貸出です」

「はい」

本とカードを手渡しながら、ふと彼が鞄を持っていないことに気がつく。

「あの…本濡れませんか?鞄とか袋とか持ってますか?」

「あ…いや、本はジャージの中に入れようかと」


ジャージの上着のジップを下ろしながらボソリと呟く菅田に囁く様に尋ねる。


「傘ありますか?」

「すぐそこなんで走って帰ります」

雨はそこそこ降っている。彼が濡れるのはいいが本を濡らされるのは許せない。

「風除室でちょっと待っててもらえますか?」

「あ…はぁ」

「次の方どうぞ」


後ろに並んだ小学生に押し出される様に菅田雄太は遠ざかっていった。

貸出カウンターにできた列を捌き終えると真壁さんにカウンターお願いする。

そそくさと事務所に戻り、引き出しにしまっておいた折り畳み傘を取り出す。

雨の影が映る廊下を足早に進む。


バックヤードから風除室へ抜ける扉を開くと、菅田が立っていた。

何度見てもスタイルの良さに目を奪われる。普段開かない扉から出てきた私に少し驚いた彼に赤い折りたたみ傘を差し出す。


「あのこれ使ってください」

「大丈夫なんで」

「本が濡れると困るので」

「…申し訳ないです」

「じゃあこれで」

「ありがとうございます。必ずお返しします」

「いつでもいいですから。豆腐屋の方にでも預けてください。では」


扉を閉めて一方的に立ち去る。喪女らしからぬ行動ではあるが、いかにも喪女らしい対人スキルだと振り返りながらカウンターに戻った。


「さっきの人知り合い?」


真壁さんが不思議そうに尋ねてきた。


「はぁ、まぁ実家お店のお得意さんなんです」

「なるほど。駅前のプロレスジムの人だよね」

「有名な人なんですか?」

「さぁ私もよく知らないですね。ただジャージにロゴマークがついてたんで」


さすが真壁さん鋭い観察眼だ。


「あぁなるほどですね。ロゴマークかぁ。私なら見てもわかんなかったかも」

「河野さん興味ないことは目に入らなそうですもんね」


余計なひと言だ。だが当たっている。


苦笑いして返却された本を確認しながら、カートにうつしていく。

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