八 樋口楓 3 虫
樋口楓 3 虫
夏妃に悠介と別れる事を促したのは間違っていないはず、彼はあんなに愛くるしい猫達を無残にも葬り、悦に浸る異常者なのだから。
悠介は保健所から猫を引き取った事など無いと言っていた。悠介は何処からか猫を捕まえてきて、人目の付かない様な場所に連れていき殺していたのだ。
考えただけでも身の毛がよだつ、その身体を引き裂かれた猫達の無念を思うと、同じ命を授かっているのに、自分よりも弱い生き物には何をしても許されるのか? と、憤りを感じずにはいられない。
もしもこの世に鬼がいたとしたら、龍がいたとしたら、私達人間は狩られる側であり、抗えない強者からの暴虐に怯えながら暮らすのであろう。
悠介の様な、生類を憐れむ心を持たない様な人間は、早々に、これ以上の尊い命を奪われる前に死んでもらい、輪廻を転生して、搾取される側に立つべきなんだ。
夏妃は悠介と別れると言った。でも、何があるか分からない。大切な友人を守る為にも、私は二人の関係に足を踏み入れていかなければいけない。事の成り行きを探るため、月曜日に夏妃をランチに誘った。
二人で何度か来た事のある、お昼には三種類のお得な日替りセットのあるイタリアンのお店に入り、それぞれオーダーした後に本題に入った。
「あれから悠介と話した?」
「金曜日会ったよ。居酒屋出た後家に呼んだんだ」
「それって秋元さんとか居たあの日? 話しが早いね。それで何て言ったの?」
「いや、特に何も、昼頃に帰って行ったよ」
「何もって、別れ話ししたんじゃないの?」
「しなかった。何か私ちょっと酔っててさ、電話で呼んだらすぐ来てくれて、ちょっと嬉しくなっちゃったんだ」
「ほだされちゃったの? 良くないよ」
「ほだされたってか、自然体なんだよ。別に別れ話しした訳じゃないんだしさ」
「なんで? 夏妃が心配だから言ってるんだよ? なんで分かってくれないの?」
「ってか関係無くない? 私がまだ一緒に居たいと思ってるから居るだけだし、責められる筋合い無いんだけど」
「嫌なんだよ。もう大切な人が傷付く事が分かってるのに、何も出来ないなんて嫌なんだよ」
「そんなにあいつヤバいの? 確かにまた引いた事あったけど」
「なに?」
「×った後にさ、眠れなくてずっと目閉じて考え事してて、そしたら何かハァハァって聞こえてきてさ、目開けたらあいつのひん剥いた目と合っちゃって、暗くてよく見えなかったけど、×××しごいてたのかな? マジヤバくて、目が合った後は口閉じて、でも鼻息漏れててフゥンフゥン言いながら×××から右手離さなかったんだよ? そこまでしっかり観察してもあいつ目を剥いてこっち見てた。夢だとでも思って欲しかったのかな? 目を閉じたらまたハァハァ聞こえてきて、考え事する気も失せて寝ちゃったけど」
「それ、よく寝れたね?」
「ヤッ、もぉぉ!」
急に夏妃が叫びを上げた。その視線の先には、五百円玉程の大きさの蛾がテーブルの上に止まっていた。
「なんなの? 蛾くらいで」
「虫系ダメなんだよ私」
「もぉ」
そんな事くらいで話しを頓挫させたく無かった。仕様が無いので、先に来ていたセットのホットコーヒーを掛けてその蛾を弱らせた。
「ちょっと、何してんの?」
「何って、これがいたら話し出来ないんじゃないの?」
私は手を拭いた後置いていたおしぼりでそれを掴み丸め、零したコーヒーで汚れたテーブルを拭いた。
「振り払えばよくない?」
「また戻って来るかもしれないし、それに、私も嫌いなんだよね、虫」
「そっか」
「悠介の話しに戻るけど、猫の話しは聞いたの?」
「聞いてないよ」
「なんで?」
「何か、気味悪いじゃん。それどんな話しなの?」
私は大学時代から遡り、猫の経緯を全て夏妃に話した。
「マジで?」
「うん」
「本当に悠介そう言ってたの?」
「じゃ無かったらこんなに止めないよ。夏妃が、心配なんだよ」
私は気が付くと、涙を流して大切な友人とその彼との別れを乞うていた。店員さんが小さい声で、「小海老とブロッコリーのパスタとスパイシーアラビアータ大盛です」と言う言葉にも、返事も出来ずに俯いていた。
「分かったから泣かないでよ。食べよう」
私は涙を拭いて、近くのおしぼりを折り返して鼻をかみ、スパイシーアラビアータに粉チーズとタバスコを振りかけ食べ始めた。
「それとさ、金曜日の事覚えてる?」
「金曜日の事?」
「秋元の事だけどさ、多分あんた何も気付いて無いと思うけど、私達とんでもないセクハラ受けたんだよ」
私には全く身に覚えが無かった。
「何の事?」
「やっぱり。あいつ、クリスタルの子と比べると私達じゃ物足りないとか言ったんだよ。許せる訳無いじゃん」
「クリスタルって何?」
「あぁー、やっぱそっからな訳ね、クリスタルってのはキャバクラで、そのキャバ嬢と私達は比べられて劣ってるって言われたんだよ」
「そうだったのか、キャバクラの女の子ってみんな可愛いもんね。負けちゃったのか、悔しいよね」
「違うから、そんな話しじゃないから。まずさ、そこのキャバ嬢と比べるとって事はさ、私達に女としての接待を求めてる訳じゃん? その時点でキモいし、まぁ仕様の無い所はあるかもしれん。男と女だし、その位でごちゃごちゃ言わんよ。たださ、口に出して物足りんとか言われるのありえんけん! しかも金を払ってるからそんなにチヤホヤしてもらえるんでしょ? 割り勘の癖にふざけんなって思ったよ」
「それって、馬鹿にされてたって事?」
「そうだよ。なんとなくは分かってくれた?」
「なんで? なんで夏妃が馬鹿にされなきゃいけないの? 夏妃は本当は行きたくないのに、秋元さん、いや、あいつらの機嫌をとる為に行ってたのに、何で夏妃を傷付ける様な事するの?」
「前から分かってるじゃん。あいつらマジ、カスだから。あと私単独で貶された訳じゃないからね、なんかあんたの中で私だけが貶された感じになってない? そこに居た女全員だからね」
「許せないよ。夏妃は私に話しがあるから行っただけなのに」
「まぁ、それは、そうだね。許せないよね?」
「このままにしておけないよね? 夏妃を傷付ける人は許せないんだよ」
「だからみんな平等に傷付けられてる筈なんだけど、私だけが引きずってるみたいで虚しくなってくるんだけど? でもやっぱなかなか大変なんだよ。会社に訴えるとして、それを聞いてちゃんと上の奴が取り合ってくれるのかも分かんないし。だからそこに居た何人かと話したんだけど、ツイッターで拡散してみようと思って、状況をちゃんと伝えて、分かってくれる人多いと思うんだ。フォロワー多い子居たからさ、仲間を募らないと、取り敢えずそれで様子みようってなってる」
「そんなんでいいの?」
「本当はすぐにでも訴えてやりたいよ。でも、上手くいかなかったら追い詰められるのはこっちだし、会社に居場所無くなっちゃうんだよ? 今はまだ様子をみないと」
「そっか」
いつの間にか時間が経っていた様で、そろそろ会社に戻り始めなければいけない時刻になっていた。新しいおしぼりをもらう時間も惜しくて、汚れたおしぼりの出来るだけ綺麗な面で口を拭い店を後にした。
夏妃は今、様々な困難の中にいる。私は、家族にも恵まれていて、幸せな日々を送れているのだから、迷いの中に居る夏妃をどうしてでも幸せにしてあげたいと思っていた。