五 樋口楓 2 スプーン
樋口楓 2 スプーン
悠介からの着信を受けたのは午後九時頃だった。
仕事が終わり、家に帰って食事を済ませ、お風呂を浴びて、部屋で何となく携帯の画面をぼんやり眺めている時に着信が鳴った。普段はあまり知らない番号からの電話は取らない。でもその日は特に何も考えずに応答してしまった。
「鷲宮だけど、今大丈夫?」
「鷲宮?」
「悠介だけど」
「ゆうすけってどのゆうすけ? 鈴木君?」
「だから鷲宮だって」
「それ苗字か、鷲宮?」
「夏妃と付き合ってる悠介だよ」
「あーどうしたの? 何で番号知ってるの?」
「松村から聞いたんだよ」
松村は、その日の合コンの男のメンツを揃えてくれた大学の同級生だった。
「そうなんだ。何かあったの?」
「別に何も無いけど、ただ夏妃と会社で会うよね? 俺の事は極力話さないで欲しいんだよね」
普通いくら気になったとしても、わざわざ番号を調べて電話で釘を刺す様な事をするものだろうか?
「特に深く話したりはしないよ。別にそんな悪く言う事なんて無いし」
「例えば、猫の事とか」
「ねこ?」
猫の事とはまさに、彼が首輪を付けて散歩していた猫の事だろう。あの時、やはり見られていたのだと思うと背筋に寒気がした。
「言ってないよ。言わない方が良いんだね? 悠介が保健所から猫をいっぱい引き取ってるって事」
「保健所? 何言ってんの? 保健所から猫引き取った事なんか無いよ」
「あっ」
そうだった。それは私が都合良く解釈をした物語だった。私はよく、現実と妄想の境目が無くなってしまう。私のその癖は昔からで、古い記憶を辿ると、高校生の時に弟に注意をされた時まで遡る。
それは確か高校一年生の夏で、三つ下の弟とスーパーに買い物に行った。その日はとても暑くて、母は夏バテで夕食の調理をサボってしまい、私達二人に家族七人分の食事を用意するようにとおつかいに出した。
ご飯だけは炊いておくからと、母は二千円しか渡してくれなかったけど、余ったら好きに使いなさいと配慮してくれたおかげで、どれだけ家族のおかずを安く済ませるかに必死になって考える事が出来た。
まずは家族七人がお腹を満たせるおかずを探す事から始まった。お惣菜コーナーに行って、値引きされている物を探したけれど、時間もまだ午後の六時過ぎだったため、二割引きが限界で、しかもその中で残っている物は、サツマイモの甘露煮という白米が進まない惣菜しかなかった。
私は恐れながら鮮魚コーナーに行った。そこは高校一年生には似つかわしくない、毎日家計簿を付けながら、家族の為に安くて美味しい料理を振る舞う主婦達の為にあるスペースなのだと感じた。近くに居たおばさんが私を睨みつけている気がした。多分そのおばさんは、「お嬢さん迷子にでもなったのかい? そうでないなら分不相応だからすぐ横の棚のスナックコーナーに行きなさい」と伝えたかったのだろう。でも私は逃げなかった。そのおばさんが目を付けていた、鯖の開きフィレをトングで奪い、驚きのあまり身動きが取れていないおばさんを横目で確認しながら、次々とビニールの袋に詰めて、税込百円を六匹、六百円で家族のメインディッシュを手に入れた。
弟に持たせた籠の中にそれを入れて、呆気に取られているおばさんに後ろ手でさよならをした。弟は不安そうな顔を隠し切れず私を見ていた。私は笑って、彼の不安を取り除こうとした。弟はまた、いつもの無頓着な表情に戻った。
その後は安いサイドメニューを買い漁る手段を取った。五十円の大きめの豆腐を二斤、半額で売られていた百五十円のキムチ、三パック七十円の納豆を二セット、多分この位でみんなは満足してくれるだろう。これだけ買ってもあと千円も自由に使えるお金があった。
私は弟を連れて、百円均一コーナーに行った。今まで意見も言わず付き合ってくれた弟の欲しい物を六つ籠に入れた。私の買えるものは消費税を考慮すると、あと二つくらいのものだった。一つは、悩んだのだけれど、犬のジョンの遊ぶグッズを買う事にした。これまで人間の家族六人分のおかずの事しか考えず行動した、でも私達の家族は七人だ、ジョンの為にもこの真っ赤な、いくら噛んでも破れない玩具を買って帰ろう。
もう一つはスプーンにした。何故それに決めたのかというと、私にはあまり欲しいものも無かったのだ。家族の為の夕食を選び、何がいいだろう? どうすれば安く収まるのだろう? と考えていると、普段私達家族の為に、毎日献立を考えてくれている母の気持ちに気付けた。きっと毎日メニューを考えなくてはいけない母の苦労は、私には計り知れない。でも今日一日でも、その母に取って代わり、家族の為の夕食を考え選んだ経験は、きっと未来の私の力になる。そう思えた時、隣の棚にこのスプーンが居た。それは蛍光灯の光を反射してとても美しく光り、私は一目惚れをしてしまったようだった。この思いを忘れない為にもこのスプーンを買おう。いつか一人暮らしをする事になっても、誰かと恋をして嫁いでも、このスプーンを持って行こう。私はそのスプーンを手に取り、近くで見ると少し汚れていたので、三つ程後ろの同じ型のスプーンを籠に入れてレジに向かった。
弟が籠を差し出し、一つ一つバーコードを読み取る姿を、まるで主婦になった様に嬉々として眺めていた。ただ彼が、そのレジ打ちをしている、人の良さそうな笑顔を向けてくれる彼が、きっとこの界隈の主婦達に大人気であろう彼が、私の大事な思いを抱かせてくれたスプーンを、いくらバーコードが持ち手の端に括り付けているからって、スプーンのすくう所をがっしりと掴んでしまった事で、私は平静を保つ事が難しくなってしまった。
お会計を終え、弟に全て袋に詰めさせ持たせて帰る道のり、二人の歩幅は合わなかった。
「姉ちゃんどうかしたの?」
弟は私の違和感に気付いていた。
「何でも無いよ」
「何でも無いかな? お会計終えるまではあんなにはしゃいでたのに、全然喋らなくなったし、俺が百均で六個も自分の欲しい物買ったから怒ってるんじゃないの?」
「私が好きな物買いなって言ったのに、そんな事で怒る訳無いじゃん」
「じゃあ何で?」
弟が自分を責める様な発言をしたため、私は仕様が無く、機嫌を損ねた理由を吐き出した。
「さっきの店員さん、レジのお兄さん覚えてる?」
「うん。あの人の良さそうな店員さんだね?」
弟の目にもそう映ったようだ。
「あの店員さん、私の選んだスプーンの腹をしっかりと掴んでくれてたよね?」
「そうだった? それがどうかしたの?」
「それがどうかした? あんた本気で言ってんの? 私に、大切な想いを抱かせてくれたスプーン。これからずっと使っていくスプーンなのに、私はチャーハンを食べる時も、カレーを食べる時もあの、人の良さそうな店員さんが掴んでくれたスプーンの腹ですくって食べなきゃいけないんだよ?」
「え? だから何? 洗って使えばよくない?」
「そのスプーンを使う度に思い出すんだよ! あの店員さんの顔を、しっかりと掴んでくれたあの指を」
「そんなに気にする様な事じゃないと思うけど」
「その指には、しっかりと毛が生え揃えられていたとしても?」
「えっ、まぁ洗えば別に」
「私はさ、もうあのスプーンしか使わないって心に誓って買ったんだよ。もちろん、外出先にまで持って行こうとは思って無かったよ。じゃあ家の中ではスプーンを使うのを避ければいいと思うじゃん? でもさ、私の好物のチャーハンやカレーを家の中で食べない様にして生きていけばいいっていうの? あの、人の良さそうな店員さんのせいで、私は大好きなチャーハンやカレーを家で食べるのを我慢しなくちゃいけないの?」
「普通に食べればいいと思うんだけど。そんなに気になったんなら買わなきゃ良かったのに」
「いや、天津飯を食べる時だって私はあの、人の良さそうな店員さんの指を思い出して?」
「話し聞いてる?」
「聞いてるよ、でもあんただって言ってたじゃない? 人の良さそうな店員さんって、もしも私があのスプーンを買うのをやめたら、あの心の優しい店員さんは何て思う? 彼はきっと私の気持ちに気付いてた、私の表情がそのスプーンを掴んだ後から濁り淀んだ様を気付いていた。そんな彼にそのスプーンを返品したら、自分のせいでお店の売上を百円減らしてしまった。そんな自責の念を抱かせて、もしかしたら僕は気付かない内に同じ様な過ちを繰り返していたのかもしれない。僕がここで働いていなければ、お店の売上はきっともっと上がっていたに違いないと思ってしまったら? 心の優しい彼は、あのスーパーを辞めてしまうのだろう。彼はあのスーパーで唯一の若くて爽やかなアルバイトだから、パートのおばさんの働く意欲になっているんだ。そんな彼が辞めてしまったら、そのパートのおばさんも次々と辞めていって、お店は営業時間を短縮するなどの措置を取らなければいけないだろうね。あのスーパーに足繁く通う主婦の方だって、彼の爽やかな笑顔に購買意欲を刺激されて、必要以上の物を買うようになっている。万引きなんかの被害だって、もし彼に捕まった姿、そんな醜態を見られたらなんて慮り、心にブレーキを掛けていたのにそのタガが外れ、店の経営を追い込む事態に発展するかもしれないんだよ?」
「ゴメン、話しに付いていけないんだけど、まず何で姉ちゃんがお店の経営を考える必要があるの?」
弟は、その意味を本当に理解していない様だった。
「あんた本気で言ってんの?」
「うん。まぁ」
私は感情を抑える事が出来ずに叫んでいた。
「お母さんがどうなってもいいっていうの?」
「どういう意味だろ?」
「家から歩いて五分の距離にあった一番近いあのスーパーが潰れたら、最寄りのスーパーまで、十五分もかけて歩かないといけなくなるんだよ? お母さん最近太ってきたから、歩けないよ。それに、帰りは大量の食材が入ったレジ袋を抱えて来た道を戻らなければいけない。お母さん、きっと耐えられないよ。身体を壊すかもしれない。そんな自分の不甲斐なさに絶望して、離婚しちゃうかもしれない。家族がバラバラになってしまうかもしれない。嫌なんだよ。もう家族がバラバラになってしまうのは嫌なんだよ」
弟は暫しの沈黙の後、その秘めた想いを吐き出した。
「姉ちゃんは考え過ぎて、そのネガティブな考察に自分の作った物語を併せて完成させてしまう節があるよね。でもさ、人生って一本道じゃない。いくつも枝分かれした未来があるんだよ?」
「どういう事?」
「もしもさ、あの時スプーンを買うのをやめていたら、姉ちゃんの気持ちに気付いていた店員さんは悔い改めて、今後スプーンの腹を持ってバーコードを読み取らない様になっていたかもしれない。いくら主婦に人気があるっていったって、異性には通じない。もしも他にそういう事を気にして購買をやめる人がいるとする、その多数の人が買うのをやめる原因を姉ちゃんが無くす事になるんだよ? そう考えたら姉ちゃんはお店にとって良い事をしたってなるんだ」
「そんなの、机上の空論だよ」
「いやいや、姉ちゃんの方がそうだから」
「それに私は、人に迷惑を掛けたくない。家族を守りたい。そうやって考えて生きてるのに、何であんたに諭されないといけないの?」
「いい加減にしろよ!」
弟は立ち止まり叫んだ。袋を持った右手を握り締めて、震えていたのか、その袋はカシャカシャと音を立て揺れていた。
「人に迷惑を掛けたくない? 家族の為って思って生きてるんだよね?」
「そうだよ」
「じゃあ何で鯖の開きフィレなんか買ったんだよ」
「みんなの夕食のおかずの為だよ」
「普段はさ、もう晩ご飯食べ終わって順番にお風呂に入る時間だよね?」
「そうだね」
「お母さんは調理をするのが面倒っていう理由で俺たちをおつかいに出したのに、この鯖の開きフィレは誰が焼くんだよ?」
「それは……」
私は言葉を失ってしまった。
「それに、家に一つしかないフライパンで、この大きな鯖の開きを六枚も焼くのにどのくらいの時間がかかるんだよ?」
料理なんて殆どした事の無い私には、答える事の出来ない質問だった。
「みんなお腹を空かせて待ってるのに、自分のスプーンの事ばかり気に掛けてる姉ちゃんは、俺よりも家族の事を気に掛けてるって本気で言えるのかよ! 可能性の低い未来への危惧ばかりして、確実な現状が見えて無いんだよ。余ったお金で、度の入って無いメガネとか、眉毛を整えるハサミを買った俺に言う権利は無いのかもしれないけど、そんなスプーン一つで、そんなネガティブに考えてしまう姉ちゃんが心配なんだよ」
その目は涙で潤んでいた。弟は、私を責めているのでは無く、私へ本当に大切な事を伝えたくて言葉を紡いだのだ。
「ありがとう。伝わったよ」
「本当に?」
「多分私は、そのスプーンを使う度、人の良さそうなあの店員さんの顔とか、その指や、そこに生えていた毛を思い出してしまうかもしれない。でも、その時あんたの顔も思い出す。私に大切な事を教えてくれた事を思い出す。だから、チャーハンを食べる時も、カレーを食べる時も、天津飯を食べる時だって、何も不快になる事は無い。あの店員さんの顔と、指と、あんたの言葉を思い出す度、色んな事に目を向けて考えていこうと思える。そんな未来が今は嬉しい」
「スプーンを使う度にそんなにごちゃごちゃと考えなくちゃいけない事の何が嬉しいのかは分からないけど、端的に言うと気にするなって言いたかったんだけど、分かってくれたならいいよ」
弟は照れ臭そうにそう言って目を逸らした。私は、その力の抜けた左手を、右手で取って握り締めた。
「やめろよ」
私は聞こえていないフリをした。
「早く帰ろ」
久しぶりに手を繋いで帰る道は暗かったけど、繋いだ手を離さなければ、道に迷う事なんて無いと思った。
「楓? かえでさーん?」
「あっ、ゴメン、なんだっけ?」
私は暫くの間、自分の世界に潜ってしまっていたようだった。
「いや、なんだっけの前に何してたの?」
「何か昔の事思い出してて、よくあるんだ」
「よくあるの? やめた方がいいよ? 五分、十分くらい喋んないし、電話も切れないから何かあったと思ったわ」
「心配させてゴメンね」
「心配はしてない、君も何かヤバいね」
「ヤバい? 君も?」
「何でも無い。ってかさ、別に俺の事夏妃に言っていいんだけど、何か言ったんだったら俺にも言って欲しいんだよね」
「んっ? 言ってもいいの?」
「いいよ、でもまだ後にして欲しいな、そして何か言ったなら俺に言って」
「言ったらって、何を言ったらあなたに言えばいいの?」
「何か俺にとってマイナスな事」
「私が夏妃にあなたのマイナスになる事を何で言うの?」
「まぁもういいよ。おやすみ」
一方的に電話が切れた。やはり彼は、夏妃の言うような純朴な面など持ち合わせていない。彼の言うマイナスな面とはその事なのだろうか?