二十八 樋口楓 七 得体
樋口楓 7 得体
連れ戻された独房の中で、私は、やっと止まっていた思考が動き始めた。
私が犯した殺人は、あの子にとって、迷惑でしか無かった事を気付かされた。じゃあ何の為に私は、あの男を殺したのだろう。
あれ? 名前が、思い出せない。あの子って、あの男って、誰の事?
さっきまで名前で呼んでいた筈なのに、こんな事、有り得ないよ。
そうか。そうだったんだ。私は、今までもこうやって、嫌な事を見ない様に、忘れて、逃げて生きて来たんだ。
また、記憶を改竄して生きていくのかな?
でも、耐えられないよ。一人ぼっちでは、生きていけないから、また、家族の死を忘れて、待ってくれている人が居るって、楽しい思い出をたくさん創って、自分を騙して、惨めに逃げて生きていく事しか出来ないよ。
誰が、誰が私を咎められるの? 私を追い詰める奴らは、同じ地獄を味わえばいいんだ。大切な人を全員殺されて、この世界に独りきりになって、悪夢に魘され発狂して、頭がおかしくなって、それでも、同じ様に私の事を責める事が出来るのか?
何で、何で私がこんな所に閉じ籠められなきゃいけないんだ? 私が何をした?
お父さん、お母さん、おばあちゃん、おじいちゃん、たつや、ジョン。みんなに会いたい。きっと、心配してるよ。
一昨日、面会に来てくれたなぁ。みんな揃って、不安な筈なのに、私の為に、笑顔で居てくれたよね? ジョンもお利口さんに、面会の時間が終わるまで、隅でお座りしていたね。
駄目だな。さすがに、面会室に犬が入れる筈無い。ジョンは、外でお利口に待っていた事にしよう。あれ? そんな大勢で入れるのか? まぁいいや、別に、多少辻褄が合わなくても、関係ないから。
私の為に、楽しいお話しをいっぱい持って来てくれたね。
お父さんは、真っ黒に日焼けしていて、友人とサーフィンに行ったなんて言ってたけど、多分嘘だな。そんなキレイに焼ける訳無いもん。私と話しをするネタを考えて、考えた挙句に、日焼けサロンにでも行って、今日の話題を一生懸命捻り出して来たんだよね?
ありがとう。
お母さんは、私が甘いものが大好きな事を知っていて、しかも、わざわざ好物のシュークリームの話しをしたんだ。新しいお店を見つけて、今まで食べたシュークリームの中で、一番美味しかったなんて言うんだ。私は不貞腐れた振りをしたけど、大丈夫、分かってるよ。美味しいシュークリームが食べたいのなら、しっかりと刑期を終えて、出所した後に、二人で食べに行こうって言いたかったんだよね?
ありがとう。
おばあちゃんは、おじいちゃんと一緒にお寿司屋さんに行った話しをずっとしてた。「楓ちゃんの為に、蟹さんをいっぱい食べて来たからね」と言っていた。おじいちゃんは横で、「そうじゃったそうじゃった」と言うばかりだったけど、二人の想いに、笑顔に、とても癒やされたんだよ。
ありがとう。
たつやは、面会時間が終わる直前まで、何も喋らなかった。私自身、たつやの顔を直視する事が儘ならなかった。刑務所に収監されている以上、家族と居れる時間は有限だ。その間に、一言くらいは声が聞きたかった。でも、私から声を掛ける事は出来無くて、刑務官に、「そろそろ」と促され、みんなが帰り支度を始めた頃に、弟は、私の事を睨んで、言葉を発した。
「姉ちゃんはさ、分かってるの? 俺達に、どれだけ迷惑掛けたかってさ」
「たつや、やめなさい」
母は、弟の言葉を制止しようとしたけれど、私は、首を横に振って、その母を抑止した。
「たつや、ごめんね。悪いお姉ちゃんで。きっと、辛い思いをさせてるよね?」
「俺は、姉ちゃんに謝って欲しくて言ってるんじゃない。姉ちゃんは、分かってるのかって聞いてんだよ」
「凄い迷惑、掛けたよね? 周りの人になんかは、知れ渡ってしまったりしてるのかな? ごめんね。私のせいで、今の家も住みづらくなってしまってるよね?」
「そうじゃない。そんな事、どうだっていい。俺が言ってるのは、俺達の為にやってくれた事だったのだとしても、それで、俺達がどれだけ苦しむのか分かってんかって事だよ」
「それは……」
「家族が、一人でも欠けたら、俺達は、普通じゃいられないんだ。ずっと、みんなで生きて来たから、だから、だから……」
弟は、言葉に詰まってしまった。それでも、その場に居たみんな、刑務官さえ押し黙って、その後に続く言葉を待った。
「……姉ちゃんって、馬鹿じゃん? いつも、みんなの話題の中心に居るし。姉ちゃんをいじってれば、みんなが笑顔になるし。姉ちゃんが戻るまでは、ガラじゃないけど、俺がその役、引き受けといてやるから、出来るだけ早く、戻って来いよ」
「たつや……」
「なんだよ?」
「鼻毛、出てるよ」
「はっ? 真面目な話ししてんのにそんな事気になってたのかよ? マジか? ちゃんと処理してんだけどな」
「冗談だよ」
「はっ?」
その場に居た、弟以外は爆笑していた。弟だけは、仏頂面して、不機嫌を装っていたけど、私にだけ見える角度で微笑んでいた。
みんなが荷物を持ち、背を向けた時に声を掛けた。
「たつや」
「あっ?」
弟は、ぶっきらぼうにこちらに顔を向けた。
「ありがとう」
小声過ぎたかな? 伝わっているかな? 弟は、少しだけニヤけて面会室を後にした。
そうだ、私は、こんな大切な家族を守りたかったんだ。だから、あの男を殺したんだ。
あの男は、私どころか、私の家族にまで危害を加えようとしてた。それで、誰か一人でも命を奪われる様な事があれば、私は、一生後悔すると思った。だから、この世では生きていてはいけない、誰からも必要とされない害虫を、駆除してやったまでだ。わしみやゆうすけは、この世の中に、要らない人間だったんだ。
わしみや、ゆうすけ? 鷲宮悠介?
なつき、えとうなつき。衛藤夏妃。
「だから、楓は、私の大切な人を奪った。ただの、人殺しだよ」
夏妃の声だ。誰を殺したって? 悠介か、鷲宮悠介だ。
駄目だ。わしみやゆうすけって名前が、頭に灼きついていて離れない。
私は、家族を守る為に殺ったんだ。だから、私は悪くない。
悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。
……お
だめだぁぁ。もう、私は、家族が殺された事に気付いている。忘れられなくなっている。
あっ、あっ、あっ、あっ、もう、やめて。
「だから、楓は、私の大切な人を奪った。ただの、人殺しだよ」
「ガァァァァァァァア、ハァッ、オエッ、オエェェエッ、アァァァァァァァァァァァアア」
あぁ、あぁ、
隣の牢から、罵声が聞こえる。五月蝿い、黙れ。お願いだから、静かにして欲しい。
そうか、私は、夏妃の大切な人を殺したんだね。私が、私の大切な家族を殺した奴に向けた憎悪を、私に抱いたんだね。
それが、私の罪なんだ。もしかしたら、この世の中に、どれだけ嫌われていても、殺されて良い人間なんて居ないのかもしれない。鷲宮悠介が、そうだったように。
どう足掻いても消せない。人を殺した感覚だけは、脳髄に貼り付いて剥がれない。
私はこれから、今までの自分の記憶を疑って生きていく。もう、死んだ家族を、自分の寂しさを紛らわせる為に使わない。それが、何も知らず、妄想で悪役に仕立て上げ、仕舞いには殺してしまった、鷲宮悠介への償いにしたいと思った。
もしかすると、本当は、私の家族は幸せなんかじゃ無かったのかもしれない。今までの思い出の殆どは、私が創り上げた、理想の家族の言動だったのだから。
もう、真実の思い出と、偽物は見分ける事が出来ない。でも、確実な思い出の中で、一つ、分からない事がある。
お父さんは、みんなが殺された時に、何処に居たの?
家中を探したんだよ? 見たくないのに、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も何度も、家族の、死に体を見たんだよ。
今までは、考えずに済んだ事が、もう、考えない訳にはいかなくなっていた。
ねぇ? お父さんは、何をしたの?
何で? 何が、気に入らなかったの?
私の中の印象で、お父さんは、気難しい性格をしていて、あまり、家族の輪の中に入ってくる人では無かった。
でも、私達の言葉を聞いて、その場の感情では無く、客観的な目線も交えつつ、自分の言葉を紡ぐ人だった。
塾考した結果、私達は、生きていくのに値しない人間だったのでしょうか? この世から、淘汰されるべき生き物だったのでしょうか?
お父さんが、殺しに来る。
きっと、世間体から大きく外れてしまった私を、お父さんが殺しに来る。
鷲宮悠介を殺した罰は、お父さんの手に拠って、私を殺める事で収束する。
嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だよ。何で、何でそんな事するの? 殺さないで下さい。殺さないで、殺さないで、殺さないで、殺さないで。
死ぬのが怖い訳じゃない。求められれば、いつだって自害する。でも、でも、お父さんに、大好きだったお父さんに殺されるなんて嫌だよ! そんな死に方、無いよ……
産まれて来た事を、後悔すれば、許してくれますか?
何か、さっきと同じ様に、番号で呼ばれて、牢から連れ出された。何処かへ連れて行かれる最中に、「今日二回目だね」と言われた。さっきも同じ刑務官に連れられたかな? よく覚えて無いけど。私は、軽く相槌を打つ事しか出来ず、脳を働かせる為に、両手で髪の毛をわしゃわしゃと掻き回し、力強く地肌をマッサージした。
私は、殺されるのかもしれない。面会に来た父に、殺されるのかもしれない。その手段は分からないけれど、生き残った失敗作を、私には想像も出来ない方法で殺すのだろう。
でも、最後に、お父さんに会える。その喜びが、死への恐怖を勝った。
ドアが開かれ、アクリル版越しに見た人物は、父親どころか、見覚えのない女性だった。
暫くは、お互い言葉を押し殺していたのだけれど、私は、その人を凝視し、何故か、心の底から灼けついていく感覚を覚えた。
「ね、ねぇ? 私達、会った事、あるよね?」
その人は、切れ長の目を、しっかりと私の視線と合わせて言った。
「十二年振りだよ。ここの施設の人に説明するのは、とても大変だったよ。普通は、分からないよ。君は、異常だね」
私には、今対面している相手が誰なのか分かった。
「えな、ちゃん?」
「名前まで覚えてるなんて、君は、とても律儀な人なんだなぁ」
忘れていた。本当は。でも、全て思い出したんだ。家族の死を受け入れなければ、思い出せない事だったんだ。
彼女との思い出が、走馬灯の様に心を巡った。
二人で過ごしたあの公園、彼女の家、一緒にお風呂に入って、その後食べた麻婆茄子、一緒に布団で寝て、家をこっそり抜け出して、夜の町を彷徨って、居酒屋に入った。おばちゃんに焼き鳥を奢ってもらって、おばちゃんと店主の過去の恋を聞いて、三人組のサラリーマンに絡まれて、でもチヤホヤしてくれて、嬉しくて、突然手を引っ張られて、おばちゃんにお礼を言って、またあの公園に行って、二人で寝て、あなたは、寝てる筈なのに、私の手を、いつまでも強く握っていてくれた。そして、あなたが起きた時には、夕方になってしまってた。ごめんなさい。その寝顔が、とても可愛かったから、起こす訳にはいかなかったんだよ。あなたは起きて、涙ぐんだ。でも、泣かなかった。それどころか、私を元気づけるために、ブランコで遊ぶ事を提案してきた。いつまでも遊んだね? このまま、力尽きて死んじゃうんじゃないか? って程遊んだね。遊び疲れて眠りについて、起きたら、あなたはとても嬉しそうで、はしゃぎながら走ったね。家に着くと、あなたのお母さんは、とても怖かった。ずっと、私の手を握っててくれたね。家を飛び出して、あの公園に戻った後、抱き締めてくれて、ありがとう。その胸の中でしか、精一杯泣けた事無かったよ。私の、涙とか、鼻水まみれの顔に頬をつけて、一緒に泣いてくれたね。
赤トンボの合唱が、聞こえていたね。
夕焼け小焼けの赤トンボ
負われて見たのはいつの日か
あの数日間、私は、あなたに背負ってもらって、いくつもの景色を見たんだ。
それを、ずっと忘れてただなんて。
警察が私達を見つけたのは、それからすぐ後の事だった。
もう、逃げ続ける術も無い私達は、力無く大人達に引き剥がされた。
でも、ずっと握っていた手を、離す事が出来なくて、周りに居た警察の人も、無理に解く事はしなかった。
しばらくは、それは、どのくらいの時間だったのだろう? いくつかの、言葉を交わした覚えがある。
「かえで、まだ、辛い?」
「うん。まだ、意味が分からなくて」
「そうだよね。ごめん。馬鹿な質問だった」
「なんで? 謝らないで」
「君は、忘れていたんだよ」
「なにを?」
「家族が、殺された事を」
「えっ?」
「私と過ごした大半の時は、忘れていたんだよ」
「どういう事?」
周りの大人達が、大人同士で、「そろそろ」とか、「時間が」とか言っている。子供は、お金が無いから、大人の都合で振り回されるしか無いんだ。
繋いだ手を解いた警官が言った。
「残業代が出る訳じゃねぇんだから」
私は、信じられない言葉に耳を疑い、しかも、手と肩をその人に掴まれて、とても気持ち悪いと思った。
残業代などを考慮しない後ろの警官達は、「それでいいんですか?」とか、「梅澤さんの事、見損ないました」等と、私達を思慮する言葉が聞こえたので、仕様の無い事だと思う事にした。
「かえで、一つだけ、いいかな?」
周りを大人に囲まれた私は、怖くて声すら出せなかった。
「忘れるんだ。全て、忘れるんだ!」
彼女は叫んだ。
十二歳の女の子が、三人の成人男性に引っ張られて、痛く無い筈がない。怖く無い筈が無い。それでも、私の為に、言葉をくれた。
「私の事も、忘れていい。だから、嫌だった事は、悲しかった事は、全て忘れるんだ!」
私は、泣いていて、声が出せなかったから、小さな会釈をする事しか出来なくて、彼女に伝わったのだろうか? 心配だったのを思い出した。
「大人になったね」
私が何も喋れないのを見兼ねて、彼女は言った。
「えなちゃんも、美人さんになったね」
「君の面影はあまり変わらないよ? 出逢った時のまんまだ」
「小学生のままって事? 確かに、身長はあんまり伸びて無いけど」
「ごめんよ、そういう意味じゃないんだ。昔と変わらない、魅力的な女の子って意味だよ」
「えなちゃんみたいな美人さんに、そう言ってもらえたら嬉しいな」
「君だけだよ。私の事を美人だなんて言う人は」
何だろう? この子と話す時は、何もいらない。全てを、分かってくれてるから。
「お名前、教えてもらってもいい?」
「えなだよ。さっきから君も言ってるじゃないか?」
「漢字を知りたくて、平仮名でえなちゃんなの?」
「あー、絵の具の絵に、名前の名だよ」
「そっか、絵名ちゃんか」
「親の意図が、良く分からない名前だろ?」
「とても素敵な名前だよ。絵名ちゃん」
彼女は笑顔を見せた。でも、すぐにその視線を、自身の手元に向けた。
「君は、私のせいで、とても辛い生活を送っていたんだろ?」
「どういう事?」
「私が、嫌な事を忘れろだなんて言ったから、君は今、こうして辛い目に遭っているんだよ」
「何で、絵名ちゃんのせいになるの? 私は、あなたに救われたのに」
「救ってなんかいない。寧ろ、陥れたのかもしれない。分からなかったんだ。何が正解かなんて、分からなかったから」
「私は、陥れられてなんかない。元々が、失敗作だったんだよ。だから、お父さんに殺されても、仕様が無い」
「お父さんに、殺される? 何の話しかな?」
「お父さんがね、気に入らない家族を殺したんだよ。私は、ただ単にその場に居なかっただけで、もうすぐ、お父さんが私を殺しに来るんだよ」
彼女の手は、小刻みに震え出した。
「私のせいだ。私が、忘れろだなんて言ったから、君は、とんでもなく悪い妄想に、取り憑かれなくてはいけなくなったんだ」
「妄想って、なんの事?」
「君のお父さんは、家族だってみんな、君の事を想って、死んだんだよ」
「どういう事?」
「君にとっては、辛い話しになると思う。でも、今の君に、話さなくてはいけないと思う」
「私にとって、辛い事?」
「君のお父さんは、君を探しに外へ出て、殺されたんだ」
「えっ?」
お父さんも、もう、死んでしまったの?
多分私は、どんなに悲惨な物語でもいい、それでも、お父さんが生きていると思いたかったんだ。そういえば、よく思い出せば、あの保健室みたいな部屋で、みんな死んだんだって言ってたな。
「君のお父さんは、君を探している最中に、肩がぶつかったというだけの理由で、ナイフで刺されて殺されたんだ」
……
「なんで、なにそれ? それだけの理由で、お父さんは殺されないといけなかったの?」
「容疑者の男は、誰でも良かったのだと言っていた。ただ、人を殺してみたくて、毎日、その機会を求めて、ナイフを隠し持って、町をふらふらしていたらしい」
「何で、家族まで殺したの?」
「財布を盗って、中身を見て、免許証の住所まで行って、その財布に入っていた鍵でドアを開けて、家族を殺したらしい」
私は思わず、語気を荒げて言った。
「だから、何で、他の家族まで殺したの!」
「可哀想そうだと、思ったらしい。父親らしき人を殺して、残された家族が、可哀想だから殺したらしい」
「なにそれ? 何なんだよそれ! 訳分かんないよ。そんな、訳分かんない理由で、私の家族は殺されたの?」
彼女には、何の因果も無いのに、私はどうしても抑えきれなくて、恩しかない彼女に怒鳴ってしまった。
彼女は少しだけ間を置いて応えた。
「そうだよ」
その左の瞳から、一筋の涙が溢れた。
「ごめんなさい。でも、そんな、耐えられなくて、じゃあ、私が家出しなかったら、お父さんは殺されなかったって事? みんなも、殺されなかったって事?」
もう、分かっていた筈なのに、彼女も、それを突き付けるのは辛いと分かっているのに、聞いてしまった。
「そうだよ」
彼女は、伏せていた目を私に向けて言った。左右の瞳から、幾つもの涙が溢れた。
今まで私が、記憶を呼び起こさず居れたのは、それが理由だったのかもしれない。誰も、その事実を突き付けたく無かったから、私から逃げて、悪者になりたくなくて、いつまでも、放ったらかしにされていたんだ。
彼女は、涙を流してまで、心を殺して、私に真実を伝えてくれた。私は、とても辛い真実だった筈なのに、それと同時に、心が何かから解放された気がしていた。
もう、何も、偽っていく必要がないから。
自分のせいで家族が死んだのかもしれないと、もしかすると心の何処かにあったのかもしれない。そんな考えを振り払おうとすれば、また別の悲惨な物語が頭を覆っていく。そうやって、心は壊れていったんだ。
だから、何故か、受け入れられる。もう、この心も、楽になろうよ。
「分かった。絵名ちゃんから、本当の事を聞く事が出来て良かったよ」
「本当に、いいの?」
彼女の、言葉の意図が分からなかった。
「うん」
「私の事を、恨んだりしないの?」
彼女のその言葉は、少しも理解が出来無かった。
「何で、絵名ちゃんの事を恨むの? もうあなたは、私にとって、とても大切な人になっているよ」
「君は、やっぱり、とても優しい女の子だよ」
「違うよ。私は、ただの人殺しだよ」
「刑期を終えれば、罪を償えば、人を殺した君にだって、幸せが訪れてもいいんじゃないかな?」
「どうだろう。もう私は、独りなんだって気付いてしまったから」
「私じゃ、だめかな?」
「えっ?」
「私と生きてくれないかな? あの時から、私は、君の事が頭から離れなくて。ずっと、ずっと、君の事を考えて生きてきたんだ」
「そんな、勿体ないよ。絵名ちゃんは、人殺しになんか関わらないで、幸せになって欲しい」
「私は、君と関わって生きていきたいんだよ」
「もうこれ以上、大切な人を不幸にしたくないんだよ」
「私の幸せは、君が幸せになってくれる事以外無いんだよ。私の幸せの為に、今君を困らせているんだと思う。でも、受け入れて欲しいんだ」
「でも」
「鷹野洋一」
「えっ?」
「君の家族を、殺した男の名前だよ」
「なんで?」
「携帯電話を持つ様になってから、ずっと調べていたんだ。当時は未成年で、報道で名前が出る事は無かったけど、ネットでは公になってた。二年前に少年刑務所を出ているよ」
「なんでって、そういう意味じゃないよ。何で、私に言うの? そんな異常者の事、もう忘れたいよ」
「大丈夫だよ。もう、住所も分かってる」
「だから、何で私にそんな事言うの?」
「君には、真実を全て伝えるべきだと思ったんだ。ごめんね。そろそろ、帰る時間だね」
彼女は立ち上がって、掛けていた薄手の上着を羽織って背を向けた。
私は、本当は分かっていた。
彼女は、その男を殺しに行くんだと。
そうじゃ無いのなら、名前など言う筈が無い。名前を言った理由は、刑務所の中でも新聞で、その男が死んだ事を報せる為なのだろう。でも、その新聞の記事の中には、あなたの名前も載るんだよね? 嫌だよ。せっかく思い出せたのに、そんな記事であなたを思い出したくない。
でも、すぐに彼女を引き止める言葉が出て来なかった。声が、出なかった。
このまま、彼女を見送れば、彼女は、その男を殺してくれる。
私は、塀の中で、身動きが出来ない。家族を殺した異常者に復讐できるチャンスは、八年は無い。それなら、このまま、見送って、分からないふりをして見送って……
……
醜いな。嘘で塗り固めていた私の得体は、掛け替えの無い恩人が、犯罪を犯す事さえも、見て見ぬ振りをしようとしている。私は、そんな人間だったんだ。
私は、大声で叫んだ。
「絵名ちゃん!」
彼女は、ドアノブに掛けていた手を離して、振り向いた。
もう一度、彼女の名前を呼んだ。
「絵名ちゃん」
「どうしたんだい? そんな、大きな声なんか出して」
やっぱり、嫌だ。彼女は、大切な人だから、人殺しなんかさせたくない。
「絵名ちゃんが、幸せじゃないと、私だって幸せになれないよ」
「分かってるよ。心配しないで」
「分かってないよ。もう、いいんだよ。その男の事なんかどうでもいい。忘れよう? 待っててよ。八年って、めっちゃ長いけど待ってて、絵名ちゃんの事、大切にするから」
彼女は笑った。
「アハハ。大切にするなんて、今までに告白された男の子にも言われた事無いよ? じゃあ、いつの日か、君に大切にしてもらえる日々を楽しみに、生きていけるね」
「じゃあ、思い直してくれるの?」
「何を?」
「鷹野洋一を、殺す事を」
「君は、エスパーかい?」
「そんな、人外扱いしないで、友達として、見て欲しい」
二人を隔てるアクリル版の側まで、彼女は近寄って来た。
「嫌なの?」
「嫌だ」
「なんで?」
「私のせいで、絵名ちゃんを人殺しにしたくない」
「君のせいじゃ無いよ。私の意思なんだ。だから君は、傷付かなくていいんだよ」
「そんな風に思えないもん。私と出逢わなければ、絵名ちゃんは普通の幸せを掴めたと思うから」
彼女は、右手で強くアクリル版を叩いた。
「私の為だとしても、そんな事言わないで」
「そんな事って?」
「出逢わなければなんて、言わないで」
「だって……」
「君と出逢って、過ごした日々は、とても短かったけど、君は私に、色んな事を教えてくれたんだよ?」
「そんな事、無いよ。私は、あなたに守ってもらっただけだもん」
「守りたかったんだ。守りきる事は出来なかったけど、君は、私を頼ってくれた。何も無い私を頼ってくれたから。君が私に向けた想いは、違ったのだと思うけど、私は、産まれて初めて、愛情という感情を知ったんだ。まさか、それを感じる初体験が、与える側になるとは思わなかったけど」
「守ってくれたよ! ずっと、あなたの言葉が私を守っていてくれたんだ! 忘れて生きる事しか出来なかったんだよ! それに、私だって、今、絵名ちゃんの事が大好きだよ!」
「私の事を、大好きだなんて、勿体ないよ」
彼女は、私のせいで、とても重い枷をはめられて生きて来たのだろう。
彼女と共に生きたい。
それでも、彼女は私と居ない方が幸せになれると思った。
「絵名ちゃんが、幸せに笑ってる姿が、私は見たいなぁ。私と過ごした時間なんて、ほんの少しだし」
「でも、あの数日間は、私にとって宝物の様な日々なんだ。携帯電話を持ってからは、ヒットしない君の名前をいつも検索してたよ。苗字が変わっている事も考慮していたけど、変わって無かったんだね。見たくは無かった。ニュースで、君の名前を」
「ずっと、見守ってくれてたんだね」
「ストーカーみたいだろ?」
「なんで? 嬉しい。私は、忘れていたから出来なかったけど、あの日からずっと、友達で居たかったな」
「素直に、嬉しいよ」
「だから、嫌なんだよ。絵名ちゃんに、人殺しなんてして欲しくないもん」
「それが、君の家族を殺した奴だとしても?」
「今私には、絵名ちゃんの方が大切だから。それに、後ろに人も居るのに、こんな話ししちゃったから、無理だよ。絶対に阻止してもらうもん。その鷹野って奴を厳重に警備してもらうから」
「そっか。やっぱり私は、間違ってばかりだね」
「まだ、大丈夫だよ。きっと、後悔すると思うんだ。人を殺した感触って、どれだけ記憶を改竄しようとしても、消えないから。何ていうのかな? 脳髄にこびりついて、剥がれないんだよ」
「そうだね。どうしても、剥がれないね」
「えっ?」
「まだ、数時間も経ってないけど、人を殺した感触って、きっと死ぬまで剥がれないんだろうね」
なに、言ってるの?
「どういう事?」
「ここに来る前に、鷹野洋一を殺してきたんだよ」
「はっ?」
「じゃあね」
彼女は背を向けて、足早にドアの前まで進んだ。
「絵名ちゃん?」
ドアを開けて、彼女は振り向いてくれた。
「楓? 私と、出逢ってくれて、ありがとう」
そう言って、返事も聞かずにドアを閉めた。
私は、いま座っている椅子から、いつかは立ち上がらないといけないのだとは分かっている。でも、今は、どうしても立ち上がる事が出来なかった。
後ろに、少しずつ、刑務官が近寄って来る気配がした。
もう少しだけ。もう少しだけでいいから、待っていて欲しい。
近付いてきた刑務官は、優しく、私の肩に手を置いた。咄嗟に、その顔を見てしまった。
私や、彼女の為に泣いてくれる人が居た。
私は、堰を切った様に泣き叫んだ。
いつまでも、いつまでも。その椅子から立ち上がる事が出来なかった。