二十六 生駒絵名 3 赤とんぼの歌
生駒絵名 3 赤とんぼの歌
二人で、真っ暗な道を走った。
私は、何かの思いを吹っ切る為に、必死に走った。楓は、そんな私に合わせて、そのペースで走るのを楽しんだ。
あんたが、一番辛いんだよ。
私は立ち止まって、息を切らして、彼女を見た。彼女は満面の笑みを浮かべた。
このまま、記憶など戻らず、楽しい思い出だけを重ねて、過ごす事は出来ないのだろうか? そうすれば、毎日楽しくて、有意義とかいう日々が送れるんじゃないかとも思った。
このまま、有意義に? 私は、嘘を吐き続けるのか? 君には家族が居るよって、一番の友達になりたいのに、一番大事な秘密を、知っているのに言えないのは、裏切りにも近いものがあるんじゃないのか?
私の心は、疲弊していった。家に戻る事は出来ず、楓の手を引き、かまくらに行って、二人で横になった。
「えなちゃん? えなちゃん?」
暫く、眠ってしまっていた様だ。楓の声で目が覚めた。
「ごめん。眠ってしまったよ。家に行ってご飯を食べよう」
「ご飯食べれるの? 嬉しい」
「かえでは、何処まで分かっているのかな?」
「どういう事?」
「いや、いいんだ」
彼女は何処まで分かっているのだろう?
普通に、ちょっと家出をしたという認識なら、家に帰りたいと思う筈だ。彼女の口からは、「帰りたい」という言葉が一度も出なかった。
それは、私にとっては良い事でもあり、恐ろしい事でもあった。なにで、彼女の導火線に火を点けてしまうか分からないから、出来れば、もう二度と事件の事を思い出してほしく無いから。
二人で帰ろうと思い、かまくらから出ると、外はオレンジ色に美しく染まっていた。
「あれ? いま何時?」
「ずっとここに居たから分かんないよ」
これは、多分、夕方だ。
「そっか。お腹空いてるよね?」
「えっ? うん」
「私も、お腹空いたよぉ」
泣きたくなった。もう、母が帰っている時間だ。帰れなくなってしまった。昨日の焼き鳥を、もっと食べておくんだった。昨日の朝に食べた麻婆茄子が、ちゃんと食べた最後の食事だった。
「遊ぼう」
私は、泣きっ面になっているのを悟られない様に、目やにを取る振りをして言った。
「うん! 何して遊ぶ?」
「ブランコで、靴を遠くに飛ばした人が勝ちだよ」
「面白そう!」
そんな遊びを、夕方から何時間も続けた。私には、空腹が押し寄せて来ているのだが、それよりも、楓の事が気になった。遊びながら、他愛の無い話しをするのだけれど、楓が家族の元へ帰りたいと言う事は無かった。事件を覚えていないのであれば、家族の元に、帰りたいと思うのではないのか? きっと彼女の心には、刻み込まれている。だから、私と離れようと思わない。
もう、何も考えずに遊ぼう。
みんな、君の味方だから。
もう、全て忘れて遊ぼう。
いつまでも、死ぬまで、遊んでいようよ。
楽しかったんだ。こんなに心を掴まれて、君の為に、笑う事が嬉しかったんだ。
六時間耐久靴飛ばしをやった後は、さすがに疲れて眠ってしまった。起きると外は明るくて、時間が分からないから、近くを通ったおばさんに時間を聞いた。
「今、何時ですか?」
「十時だよ?」
「やったぁ!」
その人は、「なんだいあの子?」みたいな目線を寄越したけど、私にとっては、二日振りにまともに食事が出来る時間だったので、人目も憚らず歓喜した。
すぐにかまくらに戻り、楓を起こして手を引き、家まで走った。
「あっこの角まで競争しよう」
楓が足が速いのを知っていながら、寝起きだから勝てるだろうと思って、勝負を挑んでみた。
彼女は何も言わず、全速力で走り、遅れてきた私の頭をポンポンと叩き慰めた。
「ぷー」と、唾を飛ばす振りをした後、手を繋ぎ、家路を辿った。
鍵を回して、ドアを開けた時、中に誰かが居る気配がした。私の足は固まってしまい、繋いだ手を強く握った。
リビングの扉が開き、母が姿を現した。
「おかえりなさい、絵名」
その言葉の中に、何を帯びているのかを、私ははっきりと感じ取れ無かった。でも、私の背筋は凍って、鳥肌が一斉に立ち上がっていた。
「ただいま。今日は、何曜日だったっけ?」
「土曜日よ」
「土曜日は、お仕事じゃないの?」
「私が今日休みだと、何か都合が悪いの?」
「別に、そういう意味じゃ無いけど、家に居ないと思ってたから」
「私が家に居ると、何か不都合でもあるの?」
「そんな事、無いけど」
隣に目をやると、彼女は怯えていて、繋いでいた私の右手の腕を、自身のもう片方の手で掴み震えていた。
どうしよう……
私もそうだが、彼女も、お腹が空いている。どうにかして、食事にありつきたい。もう、喧嘩して家出中だからとか、そんな事を考えてる場合じゃなかった。
「友達が、出来たんだ」
少し間を置いたのだが、母が喋る気配は無かった。私の話しを、最後まで聞いて何を話すか決めるのだろう。
「嬉しくて、いっぱい遊んで、昨日、帰れない時間になってしまったんだ。彼女も、とてもお腹が空いているから、ご飯が、食べたい」
母は、まだ何かを待っている様に、私を見つめた。彼女の手が震えている。その顔に目を向けると、彼女は、大粒の涙を流していた。
私は、暫くは、考える事すら出来ず、その涙を眺めていた。そして、記憶の何かに触れたのか? はっ、として気付いた。きっと、彼女の家出をした時の状況と、重なってしまったんだ。彼女は、お父さんに、謝りたかった筈だった。でも、それは出来なくなってしまった。そして、私は、謝っていない。母に、家出をした事を謝っていない。
私の、自分の非を認めて謝る事への葛藤を見て、開きたくない心の扉が、開こうとしている。私は、彼女のその扉が開いてしまう前に、母に謝罪をした。でも、私は、どうしても彼女の為になる事をしたかったのだから、誰の為でも無く、自分の為に行動したのだった。
「お母さん。ごめんなさい。いっぱい、わがまま言ってごめんなさい。ただ、もっとお母さんと、お父さんと遊びたくて。お仕事が忙しいんだから、仕様が無い事なのに」
私が家出をした理由は、家を空ける事の多い両親に、もっと家に居て欲しいと懇願した事から始まった喧嘩が理由だった。
父も、母も、「そのおかげで、こんなに立派な家に住めているんだ」と言って、私の意見を汲み入れてはくれなかった。
本当は、今でも想いは変わらない。私の幸せは、家の大きさで変わる様なものじゃ無かった。ただ、お母さんとお父さんが大好きで、学校に行かなくなったのも、両親の気を引きたくて。
でも、少しだけと思って始めた不登校は、学校の中の自分の立ち位置を変えてしまった。
三ヶ月程して登校してみると、今まで仲良かった、友達だと思っていた子達との、圧倒的な距離感を覚えた。それは、その子達にとって、どういう心情の変化なのだろう? 三ヶ月のブランクで、話題が合わなくなってしまったのか? それとも、不登校気味の同級生と、仲良くしているのを周りに見られたくなかったのか。
私は、後者の様な気がして、その子達と、自ら距離を取る様になってしまった。今までの、楽しかった思い出とかって、とても簡単に壊れてしまうものなんだなと思った。それから、友達を作る事が怖くなってしまった。
学校が嫌いになった。また家に引き込もる様になり、それまで以上に両親からの関心を求める様になっていった。
両親は、学校に行かない私の事を責める事は無かった。ただ、勉強が遅れる事に懸念を感じていた様で、通信の教材を申し込み、それをこなしているかのチェックは欠かさなかった。
お父さんには、お母さんには、私の事が、見えていますか? 私の事を、愛してくれていますか?
家に帰ってる形跡があれば、安心するんだね。夜、私が何処に居ようと、自分達には関係無いんだね。外で、私が何かに巻き込まれて死んだって、仕方が無い事だって、納得出来るんだよね?
だから、小さい頃に連れて行ってもらって、それから、いつも、いつも、「連れて行って」と言っていたあの公園ですら、探しに来てはくれないんだね。
悔しくて、涙が溢れてきた。どれだけ、両親を諦めようと思っても、一人じゃ生きていけないから。親子という、死ぬまで外れない、冷たい首輪を着けて生きなければいけないんだ。
楓が、あのかまくらに迷い込んだ時、勇気を出して、一緒に遊ぼうと言って、私の傍に座ってくれた時、独りぼっちだった心が、暖かくなる感覚があったんだ。きっと、同じ様な理由でここに迷い込んだ彼女と、友達になりたいと思えたんだ。
でも彼女は、私と同じだけど、同じじゃない。とても優しい家族が居るんだから、みんな心配しているだろうから、帰ってあげた方が良いと思った。でも、その優しい家族は亡くなっていた。
どうしても、彼女を見捨てる事なんて出来なかった。彼女の為だけにでも、私は、母と和解する必要があった。
「ねぇ、絵名?」
重い口を開き、母が私の名を呼んだ。
「はい」
母の応えを待った。
「その子の名前は、何?」
「えっ?」
全く予想もしていない応えが返ってきた。私は、何かを恐れてか、口籠ってしまった。
「あの、この子は、友達で、あの……」
私が応えられずにいると、母はリビングに行って、戻って来た時には、何かを手に携えていた。
「これは、何?」
母が持っていた物は、楓が着ていた、血の付いたワンピースだった。
「何で、それを?」
「あなたの部屋から出て来たの。私の茶碗が水切りに置かれていて、違和感を感じたの、だから、昨日部屋を見てみたら、これを見つけた。その子、家に帰って無いんでしょ? 名前は、樋口楓ちゃん、で合ってるかな?」
私は、後退りして、玄関のドアを開け、彼女の手を引っ張り走り出した。
「絵名! 待ちなさい!」
母の声が聞こえる。私自身がそうするべきだと思ったから、振り向かず走った。
公園まで辿り着き、かまくらの中に入ると、途端に彼女は震え出した。そして、大声で泣いた。
「あぁぁぁぁあ、お父さん、お母さん、たつや、おばあちゃん、おじいちゃん、ジョン」
私は、もう無理なのだとは悟っていた。このまま、逃げていても、食事にもありつける見通しの無い二人には、保護される道しか残っていないのだから。
彼女の泣き声が響かない様に、胸の中に強く抱き締めた。小学校の方角から、赤とんぼの合唱が聞こえる。
夕焼け小焼けの赤とんぼ
負われて見たのはいつの日か
私は、抑えられなくて、大声で泣いた。私の声を、辺りに響かせ無い様に、抱き締めてくれる人は居なかった。
絶望から立ち直れる目処など立つ筈も無く、この先続いていく筈の未来が、暗くて、怖くて、身を寄せ合って慰め合う事しか出来なかった。
きっと、息苦しいよね?
胸の中から彼女を解放して、頬を寄せて、抱き合った。
いつまでも、いつまでも、二人で泣き叫んでいた。
赤とんぼの歌は、聞こえなくなってしまった。