二十五 生駒絵名 2 焼き鳥屋
生駒絵名 2 焼き鳥屋
彼女を抱えて二階に上がった。気を失っている。全く、反応が無い。
私のベッドに寝かせた。ここまで運ぶのに、三十分は掛かっただろう。所々で身体を置いて、腕を休めさせたのだが、彼女が起きる事は無かった。
彼女の名前は、そうで無ければいいのだが、樋口楓、なのだろう。
私は、どうしよう? どうすればいいんだろう? 分からなくて、何か、全てを分かった気になって生きてきたのに、分からない。分からないよ。彼女にどう接したらいいの? 何て言えばいいの? 無いんだよ。言葉が。相応しい言葉が無いんだよ。
まだ、両親にバレる訳にはいかない。まず、吐瀉物の処理をしないと。古いバスタオルを使って、彼女の吐いたものを掻き集めた。そのままゴミ箱に入れて、更にウェットティッシュで綺麗に床を拭いた。洗い物をして、水を切る籠に置き、脱衣所に置いていた彼女の衣服を自分の部屋に運び、二人の靴をビニールに入れようとした時に気付いた。彼女の履いていたサンダルが、真っ赤に染まっている事に。元々赤い色のサンダルなのだと思っていたけど、底が水色だったから気付けた。
その乾いてしまった血の赤さに、抑えきれない感情を覚えた。
報道では、凶器はナイフだと言っていた。人は、ナイフで殺される程刺されたら、どれほどの血が流れるのだろう。そしてそれを、彼女は目の当たりにしたのだろう。
そうこうしている内に、母が仕事から帰ってくる時間だ。私は、彼女の寝ている布団に潜り込み、彼女の姿を隠し、一人で寝ている様に見せた。何故かというと、私が公園で過ごす時間に、両親が何をしているか分からないからだ。もしかすると、居るんじゃ無いかと思って、毎日部屋を覗くのかもしれないから。
布団の中で暫く過ごした後、案の定、母は部屋を覗いて来た。私は、寝た振りをしながらも、それが、とても嬉しかった。私の事を、気に掛けてくれてるんだって。
そんな後、昼間から寝ていたせいか、ぐっすりと眠っていた彼女は起きてしまった。
「おはよう。フッワフワ」
「布団? 確かに、フッワフワだね」
「公園、で会ったよね? ゴメン。あんまり覚えてなくて、名前、聞きたいな?」
「絵名だよ。君は、何さん?」
「かえで」
やはり彼女は、あの事件の生き残りだった。
「かえでって呼ぶね? もう夜なんだけどさ、眠く無いよね?」
私には、多少の睡魔が襲ってきていたのだが、夜明けまで、以前の様に、彼女が何かに触れて叫び出すのではないかと思い、眠る訳にはいかなかった。
だから、眠っていて欲しかった。その姿を見つめるだけで、私が夜にとる行為は済んだ筈だった。
「一緒のお布団で寝てたの? 何で? 覚えて無いんだよ」
「かえでは、お腹空いてる?」
「お腹空いたな、あれ? いつご飯食べたっけ?」
「朝に、一緒にご飯を食べたよ? 覚えてないかな?」
「そうなの? あれ? でも、この家に入ったのを覚えてる。と、思う。お風呂に入った気がする」
「そうだね。一緒にお風呂に入ったんだよ」
「そうなの? 恥ずかしいな。この可愛い服は、もしかしてえなちゃんの?」
「そうだよ。そんな、可愛いもんじゃ無いよ」
「可愛いよ! 欲しいなぁ、どこで買ってもらったの? きっと高いんだろうなぁ。お母さんに言っても、私には買ってくれないんだろうな」
彼女はやはり、記憶が欠けていた。母親が殺されている事を、認識していない。だとすれば、他の家族も同様なのだろう。まだ、生きていると信じている。
同い年の私には分かる。今、彼女が、家族が、全員死んだと知ったら、心を保つ事は出来ない。きっと心が、思い出させない様に働いているんだ。
「外に、出掛けてみない?」
私は、分からなかったから、どうすればいいか分からなかったから、外に出ようと思ったんだ。
「うん。外、真っ暗だけど、えなちゃんとだったら、何か怖くないな。楽しいかもって思っちゃう」
「行こうか」
日付けが変わった位の時刻だった。私のサンダルを貸して、静かに外に出て、彼女の手を握って、夜の道を歩き始めた。
私は、何の当ても無かった。ただ、この子の心が、少しでも明るくなれる様な場所を探し歩いた。
「鳥やす」という、オレンジ色の灯りが目に付き、歩をすすめた。そこは、とても狭くて、椅子も、カウンターの八席程しか無い店で、まず、子供が近寄って良いお店じゃ無かった。
ジロジロと見ていたせいで、店内で酒に呑まれていたおばちゃんに、声を掛けられてしまった。
「どぅしたの? キョロキョロして、何でこんな夜中にチビちゃんだけでおるの? 通報しちゃうよぉ」
そのおばちゃんの、「通報」という言葉に過敏になってしまい、嘘を吐いてしまった。
「あ、あのっ、お父さんが、このお店で待っててって言ったんです。多分、すぐみんな来ると思うから、待ってていいですか?」
「みんなって、誰が来るんだい?」
「お父さんと、お母さん」
「二人だけなのに、みんなって言うのかい?」
しつこいおばさんは、やたらと私達の身の上を知りたがった。それでも、おいでおいでと手招きして、自分の横に私達を座らせた。
「腹減っとるぅ?」
多分、お腹空いているかと聞いているのだろう。
「ちょっとくらい」
そう言うと、よく分からない単語をいくつも発した。ハツとか、スナギモとか、ムネとか、モモとか、二人前とか。
良く分からなくて、先に出されていたオレンジジュースを、ストローでチュッチュっと音を立てながら飲んでいた。すると、私の肩に手を回して、おばちゃんは言った。
「美味しいよぉ。食べるの好きね?」
何処かの方言が混じっているのか? でも、その威圧感のある口調と裏腹に、肩に置かれた手は優しかった。
「分からない。食べるのを、好きって思った事無いよ」
「そうね」
おばちゃんは、それ以上何も聞かなかった。私は、隣の彼女の事を一番に気にした。
「息苦しく無い? 大丈夫?」
「楽しい」
満面の笑みを浮かべて、彼女は言った。
「楽しいなら、いいね。無理して無い?」
「それは、えなちゃんに言いたいな。何か、苦しそう」
私は、彼女の心配と、お会計でいっぱいいっぱいだった。お金なんて持って来て無いのに、こんな所に居ていい訳がない。
目の前に、美味しそうな串焼きが並んだ。でも、その対価を支払え無い。食べてしまえば、料金が発生してしまうんだ。楓の串に向かう手を制止した時に、おばちゃんは言った。
「私が頼んだんだよそれ、勿論、私が払うんだから食べなさい。お腹が空いてればね」
「いいの?」
楓は、「わーい」と言って串をほうばった。満面の笑みを浮かべて、昨夜の出来事は、頭の何処にも存在していない様にさえ思えた。
私も、赤黒い串を取って、食べてみると、肉のくせにプリプリとしていて、美味しくて大声を出してしまった。
「んまーい!」
奇しくも、楓と声が揃ってしまい、二人で顔を見合わせて笑った。反対から、カッカッカッという声が聞こえて来たので振り返ると、おばちゃんも大きな口を開けて笑っていた。
「かぁいいねぇ、あん時に子供産んどったら、こんくらいの歳やったやろねぇ。ねぇ? としちゃん?」
おばちゃんはそう言うと、カウンター越しの、としちゃんと呼び捨てにするには威厳のあり過ぎるおじちゃんと語り合った。
「そうですねぇ、姉さんのあの時の恋が上手くいってたら、そうだったでしょうねぇ」
「子供っていうのは、かぁいいもんだねぇ」
「デッカイ魚を逃したもんだよ」
「元から叶わぬ恋だったのさ、夜の蝶が惚れていい男じゃ無かったんだよ」
「そいつの事じゃ無くて、あっしの事でっせ」
「何だいあんた? あん時振った事、まだ根に持ってんのかい?」
「根に持っちゃいねぇよ。あん時ぁ俺も、その色香に騙くらかされて、心を盗まれてたもんだからよ」
「誰が盗んだって言うんだい? 人聞きの悪い。奪われただけだろぅ? 酒がまずくなるってもんだよ。今は良い奥さんも居て、可愛い子供も居るんだからさ、そんな話しは人様にするもんじゃないよ」
「そうですなぁ、そうなんですけどねぇ、きっと、あかねさんのお子さんは、可愛いかっただろうなぁと思うんです」
「何言ってんだい。もう、子供を産む気力も体力も残って無いババアに、未練を抱かせるんじゃ無いよ」
「変わって何か無いですよ。俺が、あなたを好きだった頃から、何一つ変わって何か無い」
「嘘ついとんやないよ」
「嘘なんかじゃありません。何せ、あっしの心は、まだあなたに盗まれたままですからね」
店内に、キーンと鳴る程の静寂が訪れた。
私は、こんな、昼ドラ? なのか? そんなやりとりを間近で見た事なんて無かったものだから、興奮して、拍手した。
「おー!」
また、楓と声が重なった。顔を見合わせて、さっき以上に笑った。
「さっさと串お食べ! 子供が居ていい時間じゃ無いんだから」
私達は、思わず二人の会話に聞き入ってしまっていて、あと六本程の串を放ったらかしにしてしまっていた。
残りの串を適当に手に取り食べると、冷めてしまった筈なのに、とても美味しかった。二人で顔を合わせ、ニヤニヤしながら食べていると、反対側からおばちゃんに肩を叩かれた。
振り返って、その目を覗き込んだ。
「家出したとね?」
おばちゃんは、座った目で、真面目に聞いてきた。
私は虚を突かれて、それに、待ち合わせで来たって言ってしまっていた以上、本当の事は言えなかった。それに、家出とか、そんなレベルの話しじゃない。
全てを話してしまえば、楓は、私の側から離れさせられると思った。とても良いおばちゃんだけど、だからこそ、子供の私に預けていい案件じゃないって思う。そんな確信があった。
「違います」
「お父さんとお母さん、ここ来んやろ?」
「それは」
私は、迷ってしまった。ここで、来ると言ってしまえば、こんなに良くしてくれた、このお店を、無銭飲食して逃げなければいけない。串焼きは、おばちゃんが払ってくれると言ったけど、居酒屋には、お通し代と、始めに置いてくれたオレンジジュースの代金がかかる筈だ。お金を支払えないのだから、私達には、走って逃げる事しか逃れる術が無いんだ。
「正直に言い!」
おばちゃんは、語気を荒げて言った。私は、涙が溢れてきた。
「ごめんなざい。いえでじて、ぎました。おがね、もっでいません。こべんなさい。ゆるじてぐださい」
私は、おばちゃんととしちゃんに、頭を下げて謝った。大人の下す判断が怖かった。柔らかな手が、私の頭を撫でた。
「顔あげなさい。そして、横を見なさい」
おばちゃんの声が響いた。顔を上げて、横を見ると、楓が、口いっぱいに焼き鳥を頬張り過ぎて、オランウータンみたいな口になって、胸を叩いている姿が見えた。
お店に居る人達はみんな、おばちゃんの言葉を皮切りに爆笑し出して、おばちゃんやとしちゃんも例外から漏れず笑っている姿を見て、私も笑った。この世の中には、心から、涙を流して笑える事があるんだと知った。
「何で家出したとね?」
ひとしきり笑い終えた後、おばちゃんが私に聞いてきた。楓は、三人組の若い男にモテモテで可愛いがられていた。
「嘘ついて、ごめんなさい」
「いいよ。ちゃんと謝ったやん? もうその事はいいんよ」
「ありがとう。ありがとうございます」
「子供が、そんな言葉使うもんやないよ、生意気なくらいが可愛いもんたい」
「もんたい?」
「もんだよって事」
「そっか」
「あんた達は顔も可愛いけん、大きくなったら男騙してガンガン奢ってもらえ」
「いいの?」
「女の子はね、男を上手く扱って操って生きていくんよ。二人とも可愛いから出来るよ。でも、お店には迷惑掛けたら駄目だよ。ダッシュで逃げるとか、女の恥だと思わな。男に払わせるんだよ。奢ってぇつってさ」
「そんな事、出来るんですか?」
「出来るってか、それで毎日晩飯タダだったよ。この店のおかげだけどね、今はもう無理だから、その時の分を還元してやってんのさ」
「かんげん?」
「恥ずかしい事言わせるね、恩返しって意味だよ」
「はっ! いいなぁ。何かの物語みたい」
「覚えとくといいよ。現実はさ、物語みたいだけど、間がさぁ、長っ怠くて、タルタルなんだよ。美しい物語はさぁ、間を省いてるから、みんな憧れるんだよ。悲劇のヒロインが幸せになるみたいな、あんなの、そして何年が経ち、みたいな、その間を我慢出来たドMにしか訪れない幸せだからね」
ドエムとかいう言葉が分からないから、その時はふんふん聞いていた。
「苦痛を受け入れたりしないで、自分の思った通り生きな。好きに生きて、嫌な事から逃げたっていい。そうすれば、シンデレラにはなれんやろうけど、人生を振り返った時、後悔なんて無い筈だよ」
「シンデレラには、なれないのか……」
「あんたシンデレラになりたいとね? でもね、いつか王子様が迎えに来てくれるって信じ続けて、もしも来んかったらどうする? 聞いてた話しと違うやん! って思わん?」
「あっ! 本当だ! じゃあシンデレラになんかならなくていい!」
「あれこれ言ったけど、決めるのはあんた自身さ。自分が正しいと思った様に生きな」
私は誰とも、自分の人生の生き方なんて語った事は無かったから、そのおばちゃんの言葉が、心の奥底にまで突き刺さる感覚がしたんだ。
「帰りは送ってあげるから、家帰りなよ」
おばちゃん。めっちゃ優しい。
「大丈夫です。何とかなるから」
「でも、最近ここら辺で起こった一家惨殺事件も、まだ犯人捕まって無いみたいだし」
「えっ?」
「知らんの? ってか昨日の事か、物騒だから、子供だけじゃ帰せん」
「大丈夫です」
「それで何かあったら、私達はめっちゃ後悔するんよ。だから、送るよ」
私は、言いたかったけど、言えない。その当事者が居るって言えない。もう私にも、どうしたらいいかなんて分からなくて、子供の様に泣く事しか出来なかった。
「だっで、わだじも、もぉ、どぉじだらいぃのか、わがんない」
「はっ?」
私は、えぇんえぇんと、子供の様に泣き出した。抱えきれなかった。こんな大きな不安や恐怖を、楓の未来、その幸せを。
楓が、どうすれば救われるのかだけを考えた。でも、まだ、答えが出ないから、まだ、楓と離れる訳にはいかない。
楓の手を取った。彼女は私の分の串まで平らげていた。そして、横の若い男連中と仲良くなっていた。でも、もうそんな事はどうでもいい。手を引いて、店を出た。振り返って、おばちゃんと目を合わせ、大声で言った。
「あかねさん! 奢ってくれて、ありがとうございました!」
「人生、後悔すんなよー」
細い道を走った。多分、誰も追って来てはいないけど、走った。あのおばちゃんに言いたい。人の人生観左右する様な言葉を、いくつも言うんじゃねぇ。