二十四 生駒絵名 1 忘れられない人
生駒絵名 1 忘れられない人
私にはいつまでも、どうしても忘れられない女の子がいる。
いや、もうその子は二十歳を超えているのだから、女の子では無く、女性と呼ぶべきだろう。
その女性と初めて会ったのは、半月形の、みんながかまくらと呼ぶ、公園で子供が遊ぶ遊具の中でだった。
彼女は、私の姿を見て狼狽えた。
そんな反応を、私は可愛いなと思って、遊びに誘ってみた。彼女は、小さく頷いて、子供二人くらいだったら、広さにも余裕があるから、足を伸ばして語り合ったんだ。
私はその時本当は、かまくらから出て、ブランコで、靴を飛ばして飛距離を競う遊びがやりたかった。以前、かまくらから、男の子達が楽しそうにやっている姿を見たから。せっかくお話しを出来た、同い年くらいの女の子と、そんな遊びをしてみたかった。
でも、彼女は、とても深刻な悩みを抱えていたから、私の無粋な遊びの欲求は捨ててしまった。彼女の悩み事を聞いて、彼女を答えへと促した。
彼女が決意を固め、家路に向かった時、私は、多分、優越感の様な感情があったのかもしれない。
年端のいかぬ女の子には、仕様の無い事だと、そして、また来るって言っていたから、その時には、私のやりたい遊びをやってもらうからな、と思っていた。
彼女が次に、私を訪ねたのは、さよならをした二時間程後の事だった。
真っ白だったワンピースに、赤いシミが至る所に付いていて、彼女の表情は、別人かと見紛う程に変わり果てていた。
何処も見ていない、視点の合わない目にも映る様に、大きなジェスチャーで、両手を使って、おいでおいでと手招きした。彼女は、ゆっくりとかまくらの中に入って来た。
「何があったの?」
彼女は、何も応えなかった。そして、「ウゥ、ウゥ」と、叫びそうになっていたので、抱き締めて、その顔を胸に埋め、声を出させない様にした。
今、大声を出したら、近隣の人から通報が入るかもしれない。事情も分からないまま、彼女を大人に受け渡すのは嫌だった。
幼い私には、分からなかった。彼女の、とても深い苦しみを、その様子から分かってあげられなかった。そのまま、夜が明けるまで、抱き締めてあげる事しか出来なかった。
私は、小学六年生の、不登校児だった。三ヵ月前に、母と喧嘩して、家出をした。それから夜は家に帰っていない。ただ、昼間、共働きの両親が、仕事で家を出た後は家に戻る。両親が確実に居ない朝八時まで、彼女を抱き締め過ごす事にした。
朝方、外は何やら人通りが多いのだけれど、今まで一度も、このかまくらの中を覗かれた事は無い。人通りが落ち着いてきた。彼女を、背丈も一緒だし、取り敢えず私の服にでも着替えさせないとと思った。そんな、不気味なシミの付いたワンピースを、いつまでも着せる訳にはいかない。
「ねぇ? 起きてる?」
私は、朝まで身体を縛り付けた腕でタップして聞いてみた。
「う、うん。おはよう」
「ねぇ? 何があったの?」
「ここ、どこ?」
「えっ?」
彼女は、覚えていなかった。どこからなのか分からないけれど、どんな質問をしても、応えは、「分からない」だった。
私は、取り敢えず家に帰ろうと思った。貸せる上着も羽織っていなかったので、彼女の手を引っ張り走って、何とか人目に付かず家まで辿り着いた。
持っていた鍵を、玄関の穴に挿して回し、いつもの様に扉を開けた。彼女の手を引っ張って、中に招待した。
「大きなお家だね」
「そうかな? 普通だよ」
私は、恥ずかしかった。我が家は一軒家で、両親と私の三人で暮らすには、どうしても大き過ぎる家だと認識はしていた。周りから見れば、恵まれた環境で育っているくせに、その中でも難癖付けて、家出をして、一人で生きている気になっている、とんだ勘違いをしている奴だと思うだろう。
でも、その通りなのだと思う。結局私は、昼間家に帰って来て、母が冷蔵庫に置いていてくれるご飯を、電子レンジで温めて食べる事で生き長らえている。
とてもじゃ無いけど、一人じゃ生きられない。そんな事は、家出してすぐに分かっていた事だったけど、ガキのくせに、何かを悟った気になって、こんな生活を続けていたんだ。
そんな事を、彼女に見透かされてしまう気がして、両親が頑張って建てた大きな家を、普通だなんて言ってしまった。
彼女の手を引っ張り、お風呂場の前の脱衣所に行った。服を脱がせて、風呂場に入れた。彼女の着ていた服の、赤いシミを凝視してみる。これは、一体何なのだろう?
私も裸になって風呂場に入り、シャワーからお湯を出して、適温になると、彼女の身体を流してやった。「熱くない?」と聞くと、「温かい」と応えた。髪の毛まで濡らして、シャンプーとリンスで、洗って整えてみせた。
彼女は、何一つ嫌がる素振りも見せず、ただただ私のなすがままに受け入れていた。バスタオルで身体を拭いてあげて、そのタオルで私も身体を拭いた時に気付いた。多分、用意されてる服一着しか無いなって。お風呂に入った後に、同じ服とパンツを履くのは少し嫌だったけど、そんな事を言ってる場合じゃ無い。私は元々着ていた服を、「いつも私って、お風呂入った後、同じ服を着ないと気が済まないんだぁ」と言わんばかりに、鼻唄を交えながら、踊る様に着衣していった。
そうしないと、「私には新しい服を着させて、あんたは汚れた服を着るって、私、めちゃくちゃ気を遣わせてるじゃん」なんて思われたら、心苦しくなると思うんだ。だから、そんな演技をした。でも、よく考えれば、家の中に、他に誰も居ないんだから、身体を拭いて、裸で服を取りに行けば良かったなと思った。
ドライヤーで髪を乾かした後、彼女をリビングに引き連れた。ご飯を食べる為のテーブルの前の椅子に座らせて、「少し待ってて」と言って、冷蔵庫の中の、平たいお皿にラップを掛けて置かれている、麻婆茄子を取り出し、電子レンジの中に入れた。ここで私は、彼女への配慮が足りて無かった事に気付いた。
「あっ? 君は、麻婆茄子って食べられるかな?」
私は、とてもずぼらな人間なのだろう。それは、まだ良い方の言い方で、怠慢で、相手の気持ちを思い遣れない、とても悪質なお節介だと気付いた。
彼女が、麻婆茄子が嫌いな人だったらどうする? わざわざ家まで招待されて、出された食事に対して、「私、麻婆茄子嫌いなの」などと言える人が居るのか? もし言ったとしたら、そいつはとても面の皮の厚い奴だ。そんな奴は家に招かない。
彼女がもしも、「お腹は空いて無いよ」等と言うのであれば、それは嘘だ。せっかく厚意で出して貰ったものを、嫌いだとは言え無くて、空腹さえ我慢して、そう偽ってしまうのだろう。
危うく、彼女を悩ませてしまう所であった。彼女は、「麻婆茄子って何?」と言った。それはそれで、何が正解なのだろうか? 「これだよ」と言って、ラップを少し剥がして近付けてみると、「わぁ、美味しそう」と、身振りを交えて言うのだから、母の料理が褒められたのが嬉しくもあり、嬉々としてレンジに入れて温め始めた。いつも私が使っている、お気に入りの茶碗を手に取り、炊飯器に保温されているご飯をよそって、小さめのお盆にご飯と麻婆茄子の皿を乗っけて、彼女の前に差し出した。
「お腹空いてるよね? おかわりもあるからいっぱい食べて」
「えっ、嫌だ」
はっ? 何で? 美味しそうって言ってたのに。
「あなたもお腹空いてる筈でしょ? 私だけ食べるなんて嫌だ」
そういえば、昨日ご飯を食べたのが夕方の五時だったから、十六時間くらい食べて無かったな。でも、空腹なんて感じて無かった。
「優しいね、君は。麻婆茄子、半分貰っちゃうけどいいかな?」
彼女は笑顔で頷いた。私は、いつも母が使っている茶碗にご飯をよそって、彼女の隣に座った。
「いただきます」と、二人で声を合わせる様に言って、食事を始めた。私にとっては、何度も食卓に出てきた、馴染みのある味なのだが、彼女は初めて出会した味覚だったのか、目蓋をグルリと広げて、「美味しい」と笑顔で言った。
そんな彼女を微笑みながら食事を進め、二人ともご飯のおかわりをして、麻婆茄子もそんなに量は無いので、色んな味のふりかけを嗜みながら、時間は過ぎていった。
何となく、リビングのテレビを点けた。この時間帯は、ニュースを絡めたワイドショーしかやっていない。一家惨殺という、とても辛辣なワードが目に入って来た。すぐにチャンネルを変えた、同じ事件が特集されていた。またチャンネルを変えても、結果は変わらなかった。
私は、そのまま、そのチャンネルを変え無かった。凄く、大変な事だなと、テレビを見て思っているだけの私は、被害者が受けた害悪の重さになんて、まるで気付いていなかった。言い表すなら、他人事だったのだ。
テレビから、被害者の名前が聞こえてくると、隣に座る彼女は、震え出し、叫び出した。
「いや、嫌、嫌ァ、嫌ァ、イヤダァ」
私は、彼女が何に反応したのかが分からなくて、部屋の隅々を見回した。途中で目に入ったテレビの画面に、長女が行方不明、という文字を見付けた時に、全身に、足の指先にまで鳥肌が立ったのではないかと勘繰る程の寒気を感じた。
まさか、そんな、ありえないよね?
彼女は、その場で嘔吐した。そして、椅子から倒れようとした所を支え留めた。
私には、言い表せない恐怖が、身に纏わり付いていた。