二十三 樋口楓 6 記憶
樋口楓 6 記憶
保健室みたいな部屋だなぁ。私は、捕まった筈なのに、何でこんな所に居るんだろう?
「樋口楓さん。ですよね?」
「はい。そうですけど」
腫れ物に触るみたいに、警戒しながら訪ねて来た。迷子センターに連れて来られたみたい。私は、迷ってなんか無いし、現状を分かっている。罪を認めて、服役する覚悟は出来ている。
「鷲宮悠介さんを、殺害したのは、間違いありませんか?」
「はい」
何度も繰り返された質問だ。私は、その度にイエスと応えて来た。
「何故、鷲宮悠介さんを殺したのですか?」
何度も繰り返された質問に、何度も同じ応えを返した筈なのに、そいつらは覚えていなかった。
「私の大切な友達を、傷付けたから、これ以上、悪い事が出来ない様にしたかったから」
何だろう? この人達の目は、悲しい目をしてる。
「あなたの動機は、それだけでしたかね?」
「だって、大切な友達を滅茶苦茶にしたんだよ? それは、無理だよ。我慢出来なかったんだよ」
「あなたに危害を加えた訳じゃ無いんですよね? 何故あなたが、殺す必要があったんですか?」
何この人? 気持ち悪い。喋り方が嫌い。ウザい、消えて、喋るな、私の前に現れるな。
「私の名前を知っていた。樋口楓って、フルネームで覚えてた。こんな、ネットの流通する世界だから、それだけで怖くなった。二人の関係を邪魔だてしようとした私に、危害を加えて来るんじゃないかって、それどころか、私の大切な家族にまで、手を出して来るんじゃないかって思って、怖かったんだ。私自身の事ならまだいい、私の、大切な人にまで、危害を加えて、笑う様なクズなんだあの男は。だから、大切な人が傷付けられる前に、駆除してやったんだ。善良な市民に厄難を晒す害虫を、駆逐してやったんだ」
三十半ば程だろうか? やけに細身のその男は、縁の細い眼鏡を、左手の中指で押し上げ、奇妙な間を設けて言った。
「楓さん? あなたの御家族というのは、具体的に、どなたの事でしょうか?」
下の名前で呼ぶな。家族の名前? 何を聞いているのか?
「そんな事、調べればすぐに分かるんじゃないんですか?」
「はい。昨日も同じ質問をしたのですが、覚えていませんか?」
昨日も同じ質問? 昨日も私は、この男に会ったのか?
「何を、言ってるんですか? もし、昨日も同じ質問をしたのなら、何故今日も同じ質問をするんですか?」
「それは、昨日は、間違った答えが返って来たからです。なので、同じ質問をしました」
「間違った、答え? って、何ですか?」
「あなたの、戸籍謄本に載っている御家族とは、違う名前を仰られたので、今日も同じ質問をしました」
「戸籍謄本に載っている名前?」
「はい」
「私の、戸籍謄本に載っている家族の名前って何ですか? 私の知らない所で、戸籍が書き換えられてたんですか?」
「それは、違うと思います」
「じゃあ、私のその、戸籍謄本に載っている家族って、誰なんですか?」
「……それでは今日は、逆から行きましょうか」
逆って何だ? ってか、昨日の事なんて記憶に無い。
「あなたの御家族は、樋口幸雄さんと、樋口節子さんです」
……
「はっ? それって、おじいちゃんとおばあちゃんですよね?」
「はい。そうです。樋口和貴さんのご両親です」
「何でそうなるの? お母さんは? お父さんは? 弟は? おじいちゃんは? おばあちゃんは?」
「十二年前に、お亡くなりになられています」
「……」
何を、言っている。
「はぁ? はあ? なくなったって、何がなくなったって言うの?」
「みなさん。殺されて、お亡くなりになりました」
「はぁ? はぁ? はぁ? はぁ? 訳分かんない。十二年前? ついこの間も、実家に帰って、家族みんなで集まって、焼き肉を食べたんだよ?」
「実家に帰って? あなたは今、一人暮らしをされてるんですか?」
「そうですけど」
「昨日あなたは、実家に住んでいると仰ってましたよ?」
「はっ?」
「家族で、いつも見ているクイズ番組を見て、盛り上がったんだと言っていましたよ」
「はっ? 何言ってんの?」
「あなたは、十二歳の頃に、父方の両親に引き取られて、十八歳の時から今まで一人暮らしをされています。心あたりは、ありませんか?」
「い、いや、嫌、イヤだ!」
「楓さん。落ち着いて下さい」
「あぁぁぁぁあ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ」
「先生、これ以上は」
「分かっている。でも、彼女の記憶は変動を繰り返している。何処かで、交わる時が来るのかもしれない」
「でも、思い出さなくてもいい事だって、あるんじゃないですか? 彼女は、忘れているのに、何故、思い起こさせなくちゃいけないんですか?」
女の人が後ろに居たのか。眼鏡の人しか視界に入って無かったな。何か、私を庇ってくれようとしてたのかな? そんな声だったんだ。
声って、感情を表す時に、とても大事な役割を果たすと思うんだ。言葉のチョイスも大事だけれど、それを放つ声色にまで気を使える人って、とても優しい人だと思う。
私は、優しい人が好きだな。
忌まわしい情景というのは、いつまでも脳髄に貼り付いて、剥がれ無い物なのだろうか?
また悪い夢をみた
初めて家出をした。自分が悪い事をしたのだから、家族に、咎められるのは仕様が無い事だった。
それでも、ちゃんとお父さんに謝りたくて、分かって欲しくて、何と言って謝るかなんて考えながら歩いている私は、鈍足だと傍から見れば言われかねない、ゆっくりとした歩調で我が家を目指していた。
夜の道を歩いてると、昼間じゃ分からないんだろうなぁって音が幾つも聞こえる。
名前も知らない虫の鳴き声。何処かの家の網戸の開閉音。一人歩く道の、砂利の摩擦音。
一つ一つの音が、その日しか出せない音を、私に届けてくれた。
家の前に辿り着いた。二階建ての我が家の全ての窓から、明かりが漏れていた。
私は、深呼吸をして、玄関のドアを開けた。
明るい玄関に、お母さんと、ジョンが倒れていた。床は、真っ赤に染まっていた。
私は、階段を登ろうとしたのだけれど、祖父母の部屋の襖が開いていたので、目を遣った。おじいちゃんとおばあちゃんが倒れていた。畳は、真っ赤に染まっていた。
二階に上がると、三つの部屋全てが開いていて、全てに明かりが点いていた。弟が仰向けに倒れていた。胸に、ナイフが刺さっていた。少しだけ、近付いてみたのだけれど、遠目から、悲痛に歪み、剥けた目を晒す弟に、それ以上近寄る事など出来なかった。
一階に戻り、リビングに入った。
居て欲しかったから。
私に、声を掛けてくれる人が居て欲しかったから。
じゃ無いなら、そうじゃ無いなら、夢だと思った。夢じゃないと、きっと、耐えられ無いから。
でも、お父さんが、リビングで、私を待って居てくれれば、分からないけど、全て解決してくれるかもしれない。
リビングで、お父さんを探した。お父さんはリビングに居なかった。お父さんを探し回った。トイレも、お風呂場も見て、何度も、動かない家族を視界に収めた。
私は、スゥと、浮き上がる感覚がした。リビングに一人、取り残された私、それを俯瞰で見ている感覚になる。泣いていた。あの子は多分、私だと思う。何度も見ている夢だから、私はもう泣かない。
早く覚めないかなぁ。いつもはここで、記憶が途切れて、夢から覚めて、いつもと変わらない朝になるんだ。最近、やけにその頻度が多い気がする。何かが、起こっているのかな?
「明日は、住まいの所から聞いていきましょう」
「まだ、続けるんですか?」
「続けます」
「先生? 私たちのやっている事は、正しい事なのでしょうか?」
声が、聞こえる。悪い夢を見た後は、いつも、朝、目が覚めるのに。
「君は、正しい事をしていると思って、ここに居るんじゃないのかな?」
「勿論そのつもりです。だからこそ、彼女は、忘れているんですよ? そのまま、忘れたまま過ごした方が良いと思うんです」
「君は、とても優秀だと思う。何故かって、自分の意見をちゃんと言うから。こういう場所に居るとね、君みたいな人が必要なんだよ」
「どういう事ですか? 私は、先生の意見を否定しているんですよ? 厭わしくは無いんですか?」
「そんな訳が無い。僕達の仕事は、答えというモノが、不明確な事を分かっていて、出来得る限りの真実を求める仕事だと思う」
「真実は、もう明らかなんです。これ以上、この人を追い込む必要があるんですか?」
「君は、樋口さんのケースでは、もう罪を認めていて、動機や殺害方法も明らかになっているから、これ以上、追い込む様な事をして欲しくないと思うのでしょう?」
「そうです。全て明らかになっているのに、昔の、辛い記憶を呼び起こさせる必要なんて無いと思うんです。きっと、私だったら、耐えられないから」
「僕は、君のそういう意見も汲み取っていきたい。難しい案件を抱えると、心理学的な観点からというのが薄れて、自分の感情で進行してしまう事がある。そういう時に、ちゃんと自分の意見が言える様な、君みたいな人に居て欲しいと思う」
「ありがとうございます。それでは、先生の意見を聞かせてもらってもいいですか?」
「彼女が、殺人を犯した理由とは、何だと思う?」
「それは、友人を救う為」
「それは、肥大してしまった妄想の果てだっただろう? もう一つは、分かるよね?」
「架空の家族を、守るため」
「そう。彼女の犯行は、自身が今でも生きていると思っている、家族の存在が引き金になった様に思うんだ。もう二度と、こんな過ちを繰り返させない為に、僕は、彼女の記憶を戻すべきだと思うんだ」
涙が、溢れて来た。
「う、う、ウア、アァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァア」
ホイッスルを鳴らした様な悲鳴だった。
繋がってしまった。記憶が、繋がってしまった。私は、抑えきれなくて、その場に、今朝の食事を嘔吐してしまった。
何か、耳元で聞こえてくる。もう、誰も喋るな。五月蝿い。煩い。
えぇぇ? あれも、無かった事なの? 去年の初詣に、家族みんなで行ったんだ。
みんなのおみくじを覚えてる。おじいちゃんは小吉、おばあちゃんは中吉、おかぁさんは大吉、お父さんが凶、弟が末吉。
ふてくされた弟の顔は、格別だったなぁ。お父さんが慰めてた。お父さんしか、たつやの下居ないもんね。
あれ? 私、おみくじ何引いたんだったっけ? 何も無いのか。
初詣なんて、行って無いから。
「アッ、嫌、イヤァ、イヤだ。イヤだよ!」
「楓さんの意識が、戻りました」
「思い出したのかもしれない」
「そうかも、しれないですね……」
「だとしたら僕達は、一生恨まれるかもしれないね」
どんどん遠くなっていく。二人の声が、遠くなっていく。
あなた達に、罪なんか無いよ。一生懸命、考えてくれたよね? その結論だったんだよね? 私の、大切な人って、もう居なかったんだね?
そっか、ずっと一人きりだったんだ。だから、夏妃を、仲良くなったあの子を、心のどっかで、凄く大切な人だと見立てて、補おうとしたんだ。
もう、私には、誰も居ないんだ。
「忘れるんだ。全て、忘れるんだ!」
誰かの、声が聞こえてきた気がした。それは、とても懐かしくて、思い出すと、暖かな気持ちにさせてくれる音だった。
「えな」
それは、私の意図せぬ所で、勝手に喉が震えて出た音だった。
頭が痛い。足が震える。指は固まってる。目が泳ぐ。耳鳴りする。
「えなちゃん。助けて」