二十一 鷲宮悠介 6 手紙
鷲宮悠介 6 手紙
僕は今、幸せなのだろうか?
何度も自分に問うてみる。聞こえていないのか? 応えが返って来ない。
会社を出て、時間通りに来た電車に乗った。然程混み合ってはいなかったけど、座席は全て埋まっていた。吊り革を持ち、首を垂らして、携帯の画面を見た。でも、携帯で何をしたいのか考えが浮かばず、またズボンのポケットに仕舞った。
夏妃は、僕に暴行を加えた二日後に、僕を自分の家に呼び出した。日曜日の夜、彼女と話しをした。
「警察に言わなかったんだね? なんで?」
彼女から解放された後、僕は自室で疲れを癒す事に終始していた。
「何でって、言った方が良かったの?」
「言わない方が良いに決まってんじゃん。初めてお前に感謝したよ」
「腫れも引いてきたし、会社の人には上手く言って誤魔化すよ」
「何で?」
「何で、って、会社の人には言った方が良かったの?」
「言わない方が良いにきまってんじゃん。違うよ、何で言わないでいてくれるの?」
「だって、僕は、君を精神的に追い詰めて、苦しむ姿を見るのが目的だったから、警察に捕まる君を見ても、興奮はしないだろうなと思ったから」
「最低だな、お前」
「君に言われたく無いな」
「じゃあもう、いいんだね?」
「もういいよ、痛い目に遭ったし。これを教訓にして生きていくよ」
「そうじゃ無くてさ、何ていうか。何て言えばいいんだろう。だから、私と、離れてしまっていいの?」
「はっ? そうするよ。付き纏ったりしてごめんね。出来るだけ、早く引っ越すからさ」
「そういう意味じゃないよ。だからさ、何ていうか、よりを、戻せたりしないかなって」
「はっ? えっ、どういう事?」
「だからさ、また、恋人同士になって欲しいって言ってるの」
彼女は顔が真っ赤になっていて、多分僕は、その表情に惑わされてしまったのだった。
「恋人って、あんな事があったのに、どうしたらそういう発想になるの?」
「女の子に、そんな事まで言わせるんだ?」
そんな玉か? とは思ったものの、その時の彼女を、とても可愛いと思ってしまった。
「出来れば、その発想に至った経緯を聞きたいかな」
「私さ、今まで××××さてて、気持ちいいと思った事が無かったの。でも、一昨日、何度も×ってしまった。また、あの感覚を味わいたいの」
「そんな、理由で、僕達はまた付き合うの?」
「そんな理由? 私にとっては、とても大事な事なんだよ」
人によって、大事なモノというのは、こうも違うものなんだなと教えられた。
「ごめんなさい」
「そっか、分かったよ。殴ってごめんね。さよなら」
「いや、そっちのごめんなさいじゃなくて」
「どういう事?」
「あの、さよならとかじゃ無くて」
「じゃあ、付き合ってくれるの?」
「えっ、あぁ、うん」
彼女の術中に、まんまと嵌ってしまったのだと後々気付いた。
「じゃあさ、決めようね、付き合っていく上でのルールみたいなの」
「ルール? まぁ、そうだね」
「まずさ、×る時は、私の部屋とあなたの部屋交互にしよう。だってさ? ×××拡張するならさ、汚れちゃうじゃん? 臭いもあるしさ、お互いの部屋交互にだったら、納得も出来るでしょう? あともう、殴ったりしないよ。約束する。話しが前後したけど、その代わりに、あなたの×××を拡張していこうね?」
話しが前後どころか、訳が分からなかった。
「えっ? ×××? いや、嫌だよ! 何言ってるの?」
「嫌なのか、じゃあしょうがないね、お別れだね」
僕は、少し前まで、彼女から離れ様と思っていた筈なのに、その時には、彼女と離れる事など考える事は出来無くなっていた。
「い、いや! 分かったよ。君の言う通りにするよ」
「本当に? 約束、してくれるの?」
「うん」
「×××、拡張してくれる?」
「うん」
「そのグッズ、買って来てくれる?」
「うん」
「私が呼んだ日に、必ず来てくれる?」
「うん」
「私の気が済むまで、×××してくれる?」
「う、うん」
「その約束、守ってくれる?」
「うん。約束するよ」
「嬉しいな。早速だけど明日、仕事終わったら部屋に来て」
次の日の夜、部屋に行くと、新聞紙を敷いたベッドにうつ伏せにされ、油で湿ったボールペン二本を×××に入れられた。僕が悲痛に声を上げると、楽しそうに彼女は笑った。その後、またあのマッサージチェアに座らされ、縛られ、朝まで僕の××で彼女は遊んだ。
僕は途中で、「このままだと朝になってしまうよ? ここら辺で止めようよ?」と言ってみた。彼女は、「はぁっ? ってか言ったよねぇ? 私の気が済むまで×るって言ったよねぇ? 黙ってろよ」そう言って、朝まで腰を振った。
ようやく終わりが訪れて、お互い、出勤時刻も迫っている筈なのに、彼女はシャワーを浴びた後、パジャマに着替えた。
「えっ? 時間大丈夫なの?」
「はっ? 何が?」
「だって、仕事が」
「あー、今日私、有給取ってるから」
それは、精神に非常に応えた。
一緒だから。貴女と同じ明日のしんどさだからこそ、耐え抜けられた事なのに。貴女は、今日仕事じゃ無いんですか? これから寝るんですか? 羨ましさと、妬ましさが、心を二つに割った。彼女はわざわざ、僕の部屋まで来て、着替えて出ていく所まで見送った。終始、皮肉を交え、僕をからかいながら笑っていた。
苛々はしていたものの、仕事が終わりに近付くと、ふと、あんな自然に笑う彼女の顔を、一度目に付き合っていた時には、見た事が無かったなと思った。
帰りの電車に乗っている時に、彼女からメールが届いた。「そのまま私の部屋に来て」と、僕は、そのメールがとても重く、辛く感じた。また、アレを朝までやるのか?
そのまま家に帰ろうとも思ったのだが、彼女の家は僕の家の隣だ、逃げ切れる筈が無い。
チァイムを鳴らすと、あの日と同じ、忌まわしいエプロンを纏った夏妃が出迎えてくれた。
「ちゃんと仕事出来た? 寝なかった?」
「そりゃあ眠かったよ。だから、今日はお願いだから帰らせてくれないかな?」
「凄いねぇ、ちゃんと寝ないで頑張ったんだねぇ、偉いなぁ。ご飯食べた?」
「食べなかった。食べたら眠くなりそうだから。ごめん、帰っていいかな?」
「良かった、じゃあさぁ、ご飯食べられるよね? ロールキャベツ作ったんだよ? それ食べてから寝なよ」
「えっ? 寝ていいの?」
「いいよ、頑張ったもんね? 用意するから奥行ってて」
その夜は、ロールキャベツをたらふく食べて、自分の部屋に帰る気力さえ無く、彼女の部屋のベッドで眠った。
朝起きると、すぐ隣で、夏妃が静かな寝息を立てていた。このまま、眠ってさえいれば可愛いのになと思ってしまった。
可愛い? 僕は、その寝顔を見て、愛おしいと感じていた。こんな心の変化は、普通じゃあり得ない。一度、追い詰める対象になった彼女に、その当時以上に、好きになるなんて、理屈が通っていない。でも、そんな、道理に敵わない心の昂揚を、恋と呼ぶのかもしれない。
それから、平日はたまに部屋に呼ばれ、一緒に食事をとる様になった。彼女の作ってくれる料理は、とても美味しかった。焼き魚や、豚の生姜焼きなどは、とても手際が良く、あっという間に作ってしまい、チキンカレーに至っては、鶏肉がホロホロで、今まで食べてきたカレーの中で、一番だと認定せざるを得なかった。
彼女は、まるで何も無かった様に優しかった。以前交際していた時と変わった事といえば、僕の事をお前と呼ぶ様になり、ケタケタと嫌みったらしく笑う様になった事だった。それでも、彼女がとても楽しそうで、前は、本当の自分を隠して交際していたのだろうというのは自明の理だった。
それは、僕も同じだろう。醜い本性を隠して、取り繕いながら接していた。今まで、交際してきた全ての人の前でも僕はそうだったのだと思う。
でも、今は違う。彼女と居る時、何も身構える事も無く、自然に振る舞っていられる。彼女が笑いながら言ってくる皮肉に、大声を出して笑っている自分がいる。
お互いの醜い本性を垣間見た後、僕と彼女には、誰にも代われない、絆の様なモノが生まれた様に感じていた。
ただ、今の生活を幸せだと感じるかと言えば、そうとは言い切れ無い。何故なら、週末には、狂気に満ちた性行が待っている。
彼女は、ドSだ。僕の苦しみ悶える様を見るのが、楽しくて仕様が無いのだと言っていた。約束通り、×××を拡げられ、殴られはしないのだが、噛んでくる。僕が悲鳴を上げると、笑って緩くなるのだが、僕の反応が弱くなるとまた噛んでくる。力いっぱい噛み締めるのだろう。僕は、身体中歯形の痕だらけになった。××××をしていても、絶頂に達する事の無い僕は、とても長持ちな方なのだが、疲れのせいで萎れてしまうと、×××に×××を詰められ、前立腺を掻き回されて強制的に×たせられる。これを、夜明けまで何度も続けるのだ。
苦しいなんてものじゃない。地獄だ。僕は、Mだという自覚は無い。多分、人の嫌がる姿を見るのが好きだという事は、Sに近い性分なのだと思う。でも、僕の嗜好を押し通す権利は無い。ルールを、決めてしまったから。僕は、黙って彼女に×されるしか無かった。
でも僕には、自分にとって、居た堪れない出来事でも、ポジティブに思考を変えれる特性があった。母が、男を連れ込み、乱れ漏れる声も、二年で性的な興奮へと形を変えたのだから。
その当時の出来事を、彼女に話した。平日の夜、彼女が正常な心理状態の時に、チンジャオロースを食べながら。
「そしたらある日、×××を押さえつけてたら、×ってしまったんだよ。何故かその日は、歯止めが効かなかったんだ」
「それってさ、××したからじゃないの?」
「えっ? ××?」
「××。知らないの? 女の××みたいな感じ」
「だから、それまでは出なかったのか」
「多分そうだと思うけど」
「そう、それから、押さえつけるタイプの××××を続けたせいで、ピストンで×かなくなったんだよ」
「押さえつけるタイプの××××って何だよ。初めて聞いたわ。何でピストンで×けないのかって聞いただけなのに、そんな重い話しされると思わんかったわ。お前も色々あったんだな」
「もしかしたらさ、正直、今は辛いんだけど、君からの××も、僕の中で快楽に変わる日が来るかもしれない。そうしたら、こんな日々も楽しくなるんだろうな」
「今は、楽しく無いって事?」
「いや、何だろう。平日は楽しいよ? こうやって普通にご飯を食べて、身の上話しをするのは楽しい。こんな事、誰にも話せた事無かったから。でも、週末は、まだ、やっぱり辛くて」
「安心した。じゃあさ、お前が週末の××に慣れて、それが快感になってしまったら別れようね」
「えっ? え、どういう事?」
「私さぁ、マゾを虐げて悦ぶタイプじゃないと思うんだよね。それなら過去にもう、自分の性癖に気付いててもおかしくないもん。お前さぁ、私の恐怖心を煽って楽しんでたじゃん? だから、その確認みたいな感じでお前と喋ってたんだよ? そして、その確証を得たから、何か胸の中ですげーモヤモヤしてた塊があってさ、コイツにだったら、全部吐き出していいよね? って、コイツを好きな様に制裁加えても文句無いよね? って思ったんだ。本当は、殴るつもりなんか無かったんだよ? 丁度良い棒があったもんだからさ。お前の言葉に苛ついちゃって、やってしまった。本当だよ? 玄関での、植木鉢ガッシャーンも突発的にだったんだよ? だってその時までは、殺すつもりなんて無かったんだもん。途中でさ、殺しちゃいそうになってた。ゴメンね。医者に罹って、眠れないとか嘘吐いて睡眠薬もらってさ、それ混ぜたミネストローネ飲ませようと思ってたんだよ。だけどさ、それ本当に効くか分からんし、効くとしても、効果現れるまで、お前と喋らないといけないし。だからさ、多分、咄嗟に苛ついたんだと思う。近くにあった植木鉢でやっちゃった。その時さ、滅茶苦茶気持ち良かったんだよね。今思うとさ、本当は気付いてた筈なんだよね。その時点で、自分の本性にさ」
「それで、殺そうとまで思ったんだ?」
「そうだね。多分さ、初めて感じた性欲を、お前に抱いてるって認めたくなくて、殺意にすり替え様としたんだよ」
「今でも、週末は君から殺意を感じる時があるよ?」
「いや、ないない。アハッ、笑わせんなよ」
「僕は、あんまり笑えないんだけど」
「話し戻るけど、私さ、本当に嫌がってる奴を虐げるのが好きなんだよ。お前がさぁ、私のプレイに快楽得ちゃったらさぁ、つまんなくなっちゃうと思うんだよね」
彼女は、心さえも僕の自由を拒んだ。
「つまんないって。僕は、君の玩具じゃ無いんだよ」
「分かってるよ。話し聞いてた? 玩具はさぁ、自分の思い通りに遊んで、そのいいなりじゃん? ずっと笑ってんじゃん? マゾを嬲って、仕舞いに笑ってありがとうございますなんて言われたら、今度こそ殺したくなるわ。言っとくけどさぁ、こっちも朝までやってんのしんどいんだから。それでお前は満足して帰るのなんて許せないから」
「そっか、ゴメンなさい」
謝っておかないと、それでスイッチが入ってしまったら、明日朝から仕事なのに、支障を来すと思い、彼女のアドレナリンを下げる事に徹底した。
僕には、意識を変えて、苦痛を快楽に持っていく術さえ許されない。夏妃と一緒に居たいのであれば、苦痛を覚悟して付き合っていかなければいけない。
それか、Mへとシフトするのを前提として、僕はMへシフトしてないと、彼女を騙し切れるだけの演技力を身につけるしか無い。ただ、その演技を見破られた暁には、この身に、未曾有の暴虐が待っている事を覚悟しないといけなかった。
彼女は、この身体どころか、心までも支配して、虐げていく。それでも、平日の夜、二人で食事をして、お酒を飲み、過去を語らう時間は、僕にとって、かけがえの無い空間になっていたのだった。
今日は、憂鬱な金曜日だ。明日まで乗り切れば、日曜日の夜には、優しい笑顔の彼女が待っている。
乗り換える駅の近くに、大人の玩具屋さんがあって、彼女に指定された太い×××拡張グッズを買って、最寄りの駅まで走る電車に乗った。
ちらほらと席が空いていたので、座り、僕は、考える事を止めようと思った。何かを考えた所で、僕には今日、逃げ場が無い。彼女の好きな様に遊べばいいんだ。
改札を抜け、いつもと同じ出口に向かう。外に出ると、朝出勤する時とは別のルートで家路に向かう。抜け道の様な、木々に囲まれて、曲がりくねってはいるけれども、田舎道の様な、車も入れ無い狭い道を僕はいつも通って帰る。
誰も寄り付かない、普通じゃ通らない道、僕と似ている。人とは違うから、誰も気味が悪くて近寄らない。舗装を充分に施されていないその道は、力強い大樹が生い茂っていた。
その通り道で、一人きりだと思い込み、口笛を吹いて歩いていると、後ろから誰かがぶつかって来た。
あれ? こんな、誰も通らない道で、何でぶつかる事があるのかな? あれ?
あれぇぇぇぇぇぇぇぇぇええ?
「いっ、イタァァア、えっ、へっ? イタァイ、傷ぁぁぁぁぁぁぁあ」
大きな声など出なくて、唸る様な形で言葉を発した。予想では鋭利な、ナイフの様な物で、背中から刺された様だった。
アァ、アァと、情けない声が漏れてしまっている。僕は、死ぬのだろうか? コイツは、誰なんだ? 今まで、恨みを買う様な事をちょこちょこしてきた。でも、ここまですんのか? 思い当たる節はいくつかあって、それでも、ここまでやるか? という疑念が思考を支配した。
「イタイ? イタイよねぇ? あの子の心はさぁ、もっと傷ついてるからね? 地獄でさぁ、永遠に謝れよ」
喋った。聞いた事のある声だ。記憶を呼び返してみる。でも、殺されるかも程の嫌がらせをした人の中に、その声の主が居ないのは明白だった。ならば、僕を殺そうとしている、この女は誰だ? 僕は、手掛かりを探ろうとしたのだけれど、気の利いた言葉など思い浮かばなくて、単純に聞いてみた。
「だっ、誰ぇぇぇぇえ?」
もう、僕には、考えて喋る余裕なんて無くなっていた。
「お前がさ、もしも、生まれ変われるとしたらさ、虫だと思うんだよね? 虫ってめっちゃ居るじゃん? それでもさぁ、私は、転生したお前を見つけて、縊り殺してやるよ」
そう言うと、刺した鋭利な物を、シュカシュカと、シャケかマグロを解体する様に身体を捌いてきた。腑をクチャクチャにされ、僕はその場に膝をついた。
その子の脅しに、返す言葉を発せれる筈などなく、流れる血の夥しい量を見て、助からない事を確信した。
女は、鋭利な物から手を離して、その場を離れて行った様だった。
まだ、少しだけ時間がある様だ。死ぬまでには、ほんの少しだけ、時間があるみたいだ。
真っ先に、母の事が頭に浮かんだ。成人式の帰りに、実家に立ち寄ると、首を吊って死んでいた母の姿が脳裏に貼り付いて来た。
こんな、人生の最後に、そんな姿を思い出したく無いのに、剥がれ無くて、僕は、一度しか読んでいないのに覚えてしまっている、母から僕に宛てた、遺書の内容を黙読していた。
悠介へ
せめて、最後に、手紙を書こうと思ったんです。その気持ちの中に、悪意などありません。ある筈がありません。
でも、死ぬ前に書く手紙の中に、わざわざ嘘を書く人など居るでしょうか? 私は、私の心の内をぶつけて、気持ち良くなりたいのではありません。ただ、何も残さず逝くのは、あまりにも薄情過ぎる気がして、こうして手紙を残す事にしました。
私は、あなたのお父さんを恨んでいます。もう、十二年も経っているのに、私の心の中は、あの男への憎悪で埋め尽くされているのです。
幸せになる事を夢みて、勤めていた会社を辞め、主婦業に専念しました。あなたの面倒をみて、毎日洗濯をして、掃除をして、食事を作って、十年の結婚生活を、自分の人生を、家族に捧げて生きていました。
あの男の裏切りは、どうしても許せる筈がありません。多分、事の顛末は、あなたにも説明したと思います。
その後の事をあなたには話してはいないでしょう? その後、あの男は職を失い、慰謝料すら満足に払え無くなりました。私は、仕事を探したのだけれど、十年間家庭にこの身を費やした私に、外の世界でまとまったお金を稼げる術は残されていませんでした。
やりたく無い仕事をやって、それだけでは生きていけないから、身体を使って、端金を貰って。
毎日、死にたくて仕方が無かったのです。あなたが大人になるまで、成人式の日に死のう。そんな目標が生まれて、死ぬ日までは、頑張ってみようと思いました。
あなたに、言い残す事は、ありません。
出来れば、この手紙の封が切られず、あなたの手に渡って欲しい。誰かに見られたとしたら、不憫で仕方がありません。
あなたの気持ちを考えず、先に逝く私を許して下さい。
どうか、あなたは、幸せになって下さい。
……
僕は、身体中の何処かしらにも、力を入れる事が敵わなくなり、うつ伏せに倒れてしまった。土の匂いが、少しだけ心を和らげた。
母は、本当は、僕の事を嫌っていた。父に似ている僕を、憎いと感じていた。母の遺恨が、いつまでも晴れなかったのは、僕が側に居たからだ。母もそれを分かっている。手紙に僕の事を書かなかったのは、嘘を吐きたく無いという想いと、僕を傷付けたく無いという想いが相まった結果だった。
母は、とても立派に、頑張ったと思う。他の、どんな人が、薄情だと罵ったとしても、僕は母を肯定する。憎い筈の僕を、大人になるまで育てあげる為に、本来ならば受け入れ難い事までして、僕を育ててくれた。あと十年だけ、あと八年だけ、あと五年だけ、あと三年だけ、あと一年だけ。そう自分を奮い立たせて、僕の為だけに生きてくれたんだ。
そんな母の気持ちが、嬉しく無い訳が無い。手紙の、最後の一行。母は、憎い筈の僕の幸せを願ってくれた。他の人に見られると、不憫で仕方が無いというのは、知らない人が読むと、愛されなかった子だと思われるからだ。
あの手紙は、僕と母にしか、本当の意味が分からない、僕にとっては、愛に溢れた手紙だったんだ。
ポケットにしまっていた携帯電話が鳴った。そういえば、もう、夏妃との待ち合わせ時間を過ぎている頃かな? 僕に、勤務時間以外に電話をくれる人なんて、彼女しかいない。
彼女は、僕にとって、何だったのだろう?
幸せになりたくて、僕は、自分の楽しい事を優先してきた。誰かと交際していても、僕は、醜い素顔を隠し持っていて、誂えた外面で恋愛をしていた。
今、やっと気付いた。僕の、こんな醜い本性を受け入れてくれて、彼女の、イカれた性癖を僕が受け入れた時に、そこにはきっと、愛があったんだ。
もっと、彼女と一緒に居たかった。過去の話しをしたかった。僕の事を知って欲しかった。彼女は、きっと受け入れてくれた筈だった。
彼女に、感謝を伝えたくて、着信の鳴り止んだ携帯を取ろうと思ったのだけれど、もう、指一本も動かす事は出来ず、そんなささやかな願いすら叶える事が出来無かった。
僕は、父が居なくなった時も、彼女と別れた時も、母が死んだ時も、泣かなかった。今まで、涙を流したという記憶が無かった。だから、暫くは気付いていなかった。自分が、涙を流している事に。どうしても、どうしても止まらなくて、初めての経験に、嗚咽を止める事さえ敵わなかった。
「あぁぁ、あぁぁ、あぁぁ、あぁ」
「お前、生きてて楽しいか?」
最後の最後に、僕と母の、一番憎む男の言葉が、鮮明に蘇った。
悔しかった。お前が、俺達の人生を無茶苦茶にした癖に、お前が、一番長生きすんのかよ。
最後の力を振り絞って、先に逝ってしまった母に伝え様とした。
「おがぁさん、やっばり、ぼくは……」
幸せにはなれ無かった。