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醜い得体 (R 15版)  作者: 藤沢凪
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二 樋口楓 1 猫

 樋口楓 1 猫


 悠介と私は、大学の同級生だった。会社の同僚の夏妃と付き合う事になったみたいだけれど、話しを聞いていると違和感しか無かった。

 私が参加した合コンの場に悠介が居た時は、何か少し嫌な予感がしていた。それが出会いという事もあり、夏妃に、会社の昼休みや、仕事終わりに悠介の話しを聞いていた。付き合った経緯なんかを聞くと、「僕だって、夏妃さんと離れたく無いです、とか言うんだよ? 私笑いそうになっちゃってさ、ヒールであそこ弄ってやろうかと思ったもん」なんて言っていた。

 ヒールで男の人の、大事なものを弄ぶなんてどうかとも思ったけど、そんな事より、私の知っている悠介の話しをしているとは思えなかった。大学時代、悠介は少し浮いた存在だった。

 猫に、首輪を付けて散歩している姿が度々目撃されており、よく見かけるという子に聞いてみると、毎回違う猫を連れて歩いているらしかった。私も、一度だけその場面を目撃した事があった。

 悠介は、連れている猫の不機嫌な歩幅に足並みを合わせながら、ぶつぶつと何か呟いていた。気味が悪くなり、声など掛ける筈も無く、反対側の歩道を歩く彼とすれ違った。しばらくして振り返ってみると、彼はこちらに首を曲げて、私を凝視している様に感じた。

 大学では、偶に話しをする事もあった。その時の話題が出る事は勿論無かったのだけれど、夏妃の言うような純朴な面など持ち合わせている様には感じなかった。

 だからと言って、よく知りもしない彼の事を悪く言う権利など無いと思う。もしかしたら、彼は保健所で殺処分される筈だった猫を引き取っていたのかもしれない。ぶつぶつ呟いていたのは、ハンズフリーで誰かと電話していたのかもしれない。彼の家の中はきっと助けた猫だらけで、その電話も、抱えきれなくなった猫達の引き取り先を必死に探していたのかもしれない。

 私も犬よりも猫派だ。でも彼の様に殺されていく猫達を保護しようと思った事は無かった。私は実家暮らしなのだけれど、おばあちゃんが猫アレルギーだった。

 子供の頃、必死に猫が飼いたいと乞う私を母は叱り、おばあちゃんはその目に涙を浮かべながら、「ごめんねぇ、おばあちゃんが猫ちゃんが居ると苦しくなっちゃうから、ごめんねぇ」と私に許しを乞うのだ。今になって、その当時のおばあちゃんの気持ちが分かる。

 大好きである筈の孫の、大好きな猫を、自分のアレルギーのせいで飼えないというジレンマに苛まれていたんだ。

 私は幼かったから、無知で、アレルギーだと聞いても、意味も分からず、そんなものは、本人の気の持ちようなんじゃないか? と思っていた。もしかすると、そんな思いを、涙を浮かべるおばあちゃんに投げかけてしまっていたのかもしれない。

 今更ではあるけれども、アレルギーの事で思い出した。中学二年生の時、私は初めて蟹を食べた。それは父に届いたお中元で、家族でその立派な蟹を茹でて剥いて食べる事にしたのだった。

 そこから先の記憶が曖昧なのだけれど、私は全身が震え、トイレに行こうと思ったのだけれど間に合わずその場で嘔吐し、しばらく床に伏せてしまった。腹を下し、そして吐いてを繰り返し、憔悴しきって暗い部屋の中で布団にくるまっていると、ドアが開き、リビングの蛍光灯の灯りが射し込んできた。私は眩しくて目を閉じたのだけれど、声で母だと気付いた。「ごめんね、実は私も蟹アレルギーなの。普通はあなたくらいの歳までには蟹を経ている筈なのに、私がアレルギーだから食事に出た事が無かったの。もしかしたらとも思ったけど、きっと大丈夫な筈って自分に言い聞かせてしまってたんだ」母の声はとても暗く、沈み込んでいた。

 母に自分を責めて欲しくは無かった。でも声が出せなかった。今声を出すと、これからも毎日私が眠る筈の布団に吐き出してしまいそうで、返事をする事が出来なかった。

 そんな私を、母はどう捉えたのだろう? 母はドアを閉じ、そしてもう一度ドアを開いた。きっと大事な事を言い忘れたのだ。

「おばあちゃん、泣いてるよ」

 その時、私はその言葉の本質に気付いていなかった。ただ、私が苦しんでいるのが悲しくて泣いていると伝えたのだと思った。でもきっと、母が言いたかった事はそんな事じゃない。私は猫が飼いたいと駄々をこね、おばあちゃんがアレルギーだと言われても意志を曲げなかった。そして、アレルギーなんて気の持ちようじゃないのかとの賜ったのかもしれない。違った、私が間違っていた。この歳になってやっと母の言葉の意味が分かった。

 おばあちゃんは私が不貞腐れると、「おばあちゃんも猫ちゃん達と仲良しになりたいんだけどねぇ、どうしても身体がねぇ」と言った。あの当時は分からなかったけど、私もあの大きくて立派な蟹を食べたいと思っても、身体が受け付けないんだ。心だけではどうしようも無い事があるんだ。

 私は今更だけど、こんな想いに気付けた事を伝えたくて、部屋から出て、おばあちゃんの部屋まで数メートルの距離を走り、襖をノックもせずに開けた。

 おばあちゃんは丁度、好物の栗羊羹を口に運ぶ寸前だった。私の真剣な面持ちを見て、何かを感じ取ったのかもしれない。爪楊枝を刺した栗羊羹を皿に戻し、私の方に向き直った。

「おばあちゃんごめん。私、わたし」

 涙が溢れてくるのを堪えて、座っているおばあちゃんの目線と重なるように、畳に正座をして言った。

「猫アレルギーとか、子供の頃全然分かってなくて、無理なのに、猫と一緒に居れないのに、わがままで悪い事いっぱい言った」

 こんな出来損ないの孫の目を、おばあちゃんは真剣に見つめてくれた。

「私が蟹アレルギーで苦しんでた時、おばあちゃんは泣いて心配してくれた。なのに私は、その時にもおばあちゃんが猫の事で苦しんでいた事に気付かなかったんだよ」

 おばあちゃんは私の話しを聞き終えると、皿に戻した好物の栗羊羹を口に運び、小さく齧った後に言った。

「なんで楓ちゃんが謝るの?」

「えっ? だって、おばあちゃん私がそんな事を言った時、泣いてたから、私はおばあちゃんを泣かした悪い子だよ」

 おばあちゃんは私から目線を外し、食べかけの栗羊羹を見つめながら言った。

「泣いてないし、悲しかったのはあるよ、でもね、それはおばあちゃんが猫ちゃんと仲良くなれないのが悲しかっただけだよ」

「でも、私が猫を飼いたいなんて言わなかったら、おばあちゃんがそんな悲しい思いをする事なんて無かった。私はあの時、おばあちゃんを悲しませた当事者なんだよ」

 おばあちゃんの視線は、食べかけの栗羊羹から動かなくなった。

「楓ちゃん? 楓ちゃんは蟹さんを受け付け無いでしょう? おばあちゃんは蟹さんとは仲良しなんだよ。猫ちゃんとは仲良くなれないけど、蟹さんとは仲良くなれるの。もしもアレルギーが無かったら、蟹さんと仲良くなれない楓ちゃんの気持ちが分からなかった。猫ちゃんと仲良くなれない分、蟹さんと仲良くなれない楓ちゃんの気持ちに気付けるから、おばあちゃんは何にも不幸な事なんて無いんだよ」

 その言葉は、私の事を大事に想ってくれているというのが心から伝わってきた。

「おばあちゃん、ありがとう」

 大切な事を教えてくれた祖母に、心からの感謝を伝えた。

「楓ちゃんはこれからも、猫ちゃんを愛してあげてね、おばあちゃんが仲良くなれない分も愛してあげてね。おばあちゃんも楓ちゃんが蟹さんと仲良くなれない分、お寿司屋さんで蟹さんを頼むからね」

 残っていた栗羊羹を二切れ貰い、部屋を後にした。食べかけのものもくれようとしていたのだけれど断った。

 自分の部屋に戻り、大切な想いに気付かせてくれた悠介に感謝をした。きっと彼は、夏妃の言う様に優しい人なのだ。

 私が初めて彼と話しをする前の大学三年生までに、二人の同級生と交際をしていたと聞いていた。その二人は、悠介と別れたしばらく後に、二人共大学を中退していた。

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