十七 鷲宮悠介 5 彼女の瞳孔
鷲宮悠介 5 彼女の瞳孔
警察からの尋問は、僕が予想し得るだけの受け応えの数に対して、あまりにも簡潔で、この人達は、真面目に仕事をしているのだろうか? と思う程、体たらくだった。
初めて夏妃の件でその人達が訪れた時、インターフォン越しに愛想良く振る舞った。
「鷲宮悠介さんですか?」
「そうです。どちら様でしょうか?」
「戸塚警察署の者です。衛藤夏妃さんの件でお話しを伺いたいのですが」
「そうですか、少々お待ち下さい」
オートロックを解除し、玄関を開けて、その二人を部屋の中まで招き入れようとしたのだが、玄関口で大丈夫だと頑なに断るので、仕様が無く、ドアを閉めてもらい、そのまま話しを聞く事になった。
四十手前程の男の警官が喋るばかりで、少し後ろの、僕と同い年くらいの女は、ガルニチュールの様に息を潜めていた。何度も視線を送ってみたのだけれど、その伏し目がちな目と交わる事は無かった。
「言い辛い事なのですが、お隣の衛藤さんからですね、ストーカーの被害を受けているという話しを伺いまして、こうしてお宅までお邪魔させてもらいました」
基本的に、ストーカー行為をしている人に対して、その行為を罪だと指摘する時が一番厄介なのだろう。本人にはその自覚が無いから、激昂して、何をしでかすか分からない。だから、多すぎる白髪を染める事にさえ気が回らない程忙しいのであろうこの男は、僕に対して最大限の気を使って話しをしている。後ろのガルニチュールにも、部屋を訪ねる前に散々忠告しているのだろう。僕の視線が男に向いている時には、刺す様な眼を剥いて見ている様に感じた。
「そっか、そう思われてしまってるんですね」
「そりゃあ誰だって怖いと思いますよ。見ず知らずの人に付きまとわれて、気付けばその人が隣に住んでいるとなったら」
この男は、僕の受け応えが穏やかなものだと分かると、すかさず強い口調で問い詰めた。
「見ず知らずの人?」
「はい。あなたの事ですよ」
「僕と、夏妃がですか?」
「そうですよ」
「すいません。頭が追いつかなくて。僕と夏妃は、一カ月程前まで付き合っていたんです」
「そうですか」
「これを見て下さい」
多分この男は、僕の言葉を妄言だと思っている。イカれた思考回路の末路が、付きまとっている女と付き合っていると錯覚している、頭の弱い人間だと思っているのだろう。
僕は、似て非なるものだった。
付きまとっているという点でいうと、僕はストーカーなのだろう。その人達との違いは、自覚があるか、備えがあるかの違いだと思う。
僕は、自分の行為を、しっかりと正当化する事が出来る。客観視して、自分の立ち位置を守る事が出来る。
同じマンションに引っ越して来た事を、気付かれた後の夏妃からのアプローチを、幾つも想定していたのだけれど、考えていた中でも、かなりの悪手だと思った。交際の事実を隠し、僕をストーカーに仕立て上げたとしても、今までの連絡のやり取りを見せれば、さすがに警官も嘘に気付くだろう。何故そんな事まで頭が回らないのか? 自身が嘘をついた事で、被害者という立ち位置を崩してしまう。そういう思考に至らなかったのか?
僕は、衛藤夏妃という人物を買い被っていたのかもしれない。その本質は、弱くて、恐怖にただ怯えている凡人に過ぎないのかもしれない。ベランダに居ると、隣の部屋の話し声が微かに聞こえてくる。僕の存在を認知してからは、毎日あの男を部屋に招いているようだった。
少し、悪い事をしたなと思った。もう彼女からは、怒りで醜く変わりゆく様を見れ無いのだと思い、僕は失望した。
大学生の時に付き合った、二人目の女の時もそうだった。別れた後、隣は空いていなかったので、同じ階の空家になっていた所に移り住んで、たまたま顔を見合わせると、目を見開き震えて、すぐさま部屋へと逃げて行った。それからは、帰宅の時間を合わせて一緒にマンションに入る様にしたり、家を出た後の動向をチェックして、よく立ち寄るコンビニなどで待ち伏せをしてその表情を伺った。その女は、何処へ行くのにも周りを伺い、挙動不審な態度を取るようになっていった。
大学の中でも、その表情が見れるのかと思っていたのに、その女が大学へ通学する事は減り、早々に中退して、部屋を引き払い消えてしまった。
もっと、僕の心を埋めていて欲しかったのに、多少の悪評だけを広めて、僕のその後の大学生活を無下にした対価を、その女は払わずに逃げていった。
もっと、楽しい事は無いものだろうか?
どれだけ足掻いてみても、心が満たされ無い。それか、少しずつ麻痺してしまっているのだろうか? 生きていても、快楽を見出せる手段が、人を陥れて追い詰める手段しかない。繰り返す度に、慣れてしまって、人が嫌がる事をいつまでも考えている僕がいる。そんな事ばかり考えてしまう僕は、どうすれば、幸せになれるのだろうか?
僕と夏妃のメールを見た後、「また来ます」と言って、二人は出ていった。二度目の訪問はその一時間後で、隣に行ってそのままこちらに来たのだろうと分かった。
「度々すいません。こちらに引っ越して来られたのはいつ頃でしょうか?」
「ゴールデンウィークの少し前からです」
「そう、ですか。また、お伺いします」
多分この警官は、事実確認をしてから問い詰め様と思ったのだろう。その日から、警察から連絡が来る事は無かった。
僕は、今はもう社会人だ。犯罪を犯して捕まってしまえば、全てが狂ってしまう。だから、嫌がらせをしても、捕まらない程度の所で留めている。決められた法の中で、どれだけ相手を追い詰められるかに一喜一憂するのだ。
僕は、夏妃の部屋に初めて行った次の日から、そのマンションの空き部屋を探していた。たまたま、隣の部屋が空室で、すぐにその部屋に引っ越す手続きを取った。傍から見ると、付き合っていて、隣の部屋に引っ越す事に何の違和感も無いだろう。それが合意の上だったらの話しだが、その時期は、出来るだけ多く夏妃と連絡を取り合う様にした。
多分夏妃は、別れた後に僕が隣に引っ越して来たと思っているのだろう。始めはストーカーとして警察に訴えて、それが無理だと悟ると、別れた後にストーカーになったという話しにシフトしたようだけれど、別れる前からこちらに住んでいると知れれば、これ以上警察の役目は無いだろう。警察側の目線では、ただの愛憎の縺れで、ストーカーに仕立て上げられた被害者の様に、僕は映っているかもしれない。
夏妃にはさすがに連絡はあったと思う。きっと、僕の部屋を借りた経緯を調べて、僕の発言が証明されれば、警察からすると、僕らにもう用は無い。何かしらの犯罪行為があったら、また連絡して下さい。とでも伝えて、この件からは身を引くのだろう。
これからは、多少の行き過ぎた素行をしても、警察は動かないだろう。始めに嘘をついて、自らを窮地に追いやったのは彼女自身だ。彼女が壊れるまで、僕はただ楽しむだけだった。
警官が来た日から一週間が経ち、そろそろ何かしら仕掛けてみようかと思っていた。
ベランダに出ると、隣の部屋からの声が微かに聞こえてきて、誰かしらの来訪者が居るかどうかは自明の理であった。
備えあれば憂いなし。僕は、夏妃との×行為を、携帯のボイスレコーダーで録音していたので、ベランダで携帯からその音声を流してみた。ボリュームは最大にしたのだけれど、携帯から鳴る音などはたかが知れていて、彼女の部屋には微かに聞こえる程度だろう。でも、その程度でも充分だった。
僕は、ベランダに立ちっぱなしは辛いなと思い、この為に今日の昼間、背もたれのある椅子を買って来ていた。新しい椅子に座り、彼女の部屋の隣で、彼女の喘ぎ声を再生していると、次第に僕の××は硬くなっていき、パンツの中へ右手を入れて、力を込めて握り締めた。
五分程で絶頂に達した。それでも、まだ僕の××は熱り×っていて、右手を××で汚しながら、次の絶頂を迎えるために、××を優しくマッサージしていた。
夏妃の部屋の、ベランダへ通じるドアが開いた。あの男と、二人で来るのが可能性が高いと思っていたのだが、彼女はサンダルを履いて、ドアを閉め、眉間に皺を寄せてこちらを睨んだ。
暫しの沈黙が流れ、僕は、右手を××から、反り返った××に握り替え、押さえつけながら彼女を見つめた。
「何やってんの?」
彼女は僕に聞いてきた。
「×××ーだよ」
彼女に分かりやすい様に、パンツの中の右手を、縦横無尽に動かしてアピールした。
「何でベランダでしてんの? ってかそのオカズ何なの?」
「何って、君との営みだよ」
「ヤバいなお前。ってかそういう事するって事は、完全に、私に悪意を持って接してるって事だよね?」
「悪意なんて無いよ。自分が、こうしなくちゃ楽しくないだけなんだ」
「理解出来ないよ」
「理解してもらわない方が、良いオカズになるかもしれないね」
「ずっとお前のオカズでいろって事?」
「そんな事無いさ、きっといつかは君にも飽きて、違う刺激を求めるかもしれないよ」
「そっか、勝手だね。それまで私は、お前のオカズとして嫌がらせの様な事を受け続けないといけないんだ?」
「そうなるね。お連れさんは? 気付いているかな?」
「残念だろうけど、今日は彼氏じゃ無くて、楓なんだ。あの子、鈍感だから全く気付いて無いよ。こっちの部屋からの喘ぎ声だと思ってるから」
そう言うと夏妃は、反対の方向のベランダを指差した。何だろうか? この、違和感の様なものは、彼女から、微かな畏怖すら感じ取れない。僕が怖くて、警察を使ったのでは無いのか? ボディガードの様に毎日、誰かを連れて部屋に帰るのは、防衛では無いのか?
夏妃の言動に、辻褄の合わない違和感を感じ、警戒の態勢に入った。
すると僕の××は、「それでは、僕に用は無いよね」と言わんばかりに、熱りを無くしてしまった。興奮する素材が無ければ、我関せずと、そっぽを向く愚息なのだ。そのままグッタリとヘソの下に、仰向けに寝そべってしまった。僕は、夏妃との貴重な会話の最中だったにも関わらず、その××の方を気にしてしまった。
「何言ってんだよ。お前が×ってないと、夏妃に、俺が物怖じしたと思われるじゃないか」勿論、声は出していない。右の手首で、パンツを広げ、そいつと顔を見合わせた。「そんな事を言われたって、僕だって、自由自在に如何なる状況でも×ったり、萎えたり出来る訳じゃ無いんだよ」とでも言いたいのか? ××を広げて僕を見ていた。
沈黙を割いて、彼女は言った。
「何、×××見てぶつぶつ言ってんの?」
僕は、狼狽えた。声に出さずとも、少し感情的になってしまったせいか、萎えた××に向かって、睨みつけ、口をパクパク動かしてしまったようだった。
「何の事? 分かんないな」
「分からないんだ? 喋ってたじゃん? 其れに」
彼女は僕の、萎えてしまった××に目線を送り言った。でも、僕が視線を送った時には、×を被って、引き込もってしまっていて、僕は、誰にも助けを求める事が出来無くなっていた。
「おやすみ」
そう夏妃に言って、逃げる様に部屋に戻った。
暫くは、頭の中が空っぽになって、ベッドに腰を掛けて佇んでいた。でも、「また明日から頑張ろう」と思う事にして、考える事さえ拒否して眠りについた。
朝はいつも六時頃に起きるのだが、今日は四時に目が覚めてしまった。それでも頭は冴えきっていて、いつも夏妃が、目の前のコンビニに寄る、七時十分にそのコンビニで待ち伏せしようと試みた。
それにしても時間があるので、録りためていたドラマを見ていたのだけれど、全く内容が頭に入って来なくて、そこでやっと、緊張しているのだと確信を得た。
僕自身も仕事があるので、スーツを着て、少し早めに部屋を出て、コンビニの中の雑誌コーナーを眺めつつ待っていると、いつもと同じ時間に夏妃は入って来た。
僕の姿を視界に捉えると、怪訝な表情を浮かべて、その後は自分の用を済まし、目線もくれず店を後にした。
僕は、優越感に浸った。そして、もっと、彼女の前に姿を現して、精神的に追い詰めていきたいと思った。
夜は、昨日押し負けてしまったので、次こそは、夏妃の新しい彼氏が居る時に、ベランダで音声を届け様と思っていたのだけれど、今日は、誰も呼んでいない様だった。
次の日も、朝、同じ時間に顔を合わせ、夜はスタンバイしているのだけれど、誰とも居ない。試しに、音声を流してみるのだが、反応が無くて、虚しい気持ちになり、興奮などもする筈が無く、部屋に戻った。
次の日も、その次の日も、同じ様に過ごしたけれど、彼女の対応は変わらなかった。
僕は、彼女が遠い所へ離れてしまった感覚に襲われた。隣の部屋に住んでいるのに、毎日コンビニで顔を見合わすのに、彼女は、僕に何の反応も示してくれない。
次は、どうすればいい? どんな気を引く事をすればいい? 僕の妄想は、次第にエスカレートしていって、気付けば、道理に反した事さえ考えだしている自分がいた。
二週間が経つと、毎朝コンビニで顔を見合わす事も日課になってくる。僕は読む雑誌すら無くなり、入口を眺めていると、いつもの様に夏妃が訪れ、いつもは立ち寄らない、僕の居る雑誌コーナーに進んで、僕の目の前で止まった。
「ねぇ?」
僕は、後ろを振り向いて、誰も居ない事を確認して、自分に問い掛けているのだという確信を得て向き直った。
「あんたは、生きてて楽しい事とかある?」
何故僕にそんな質問を、こんな眩しい朝日の射し込むコンビニで、問い掛けてくるのかと些か疑問に思った。
「何、急に」
自分でも、とてもつまらない応えを返してしまった事は分かっていた。でも、彼女が何を求めているのか分からない僕には、それが精一杯の返事だったのだと思う。
「仕事場の上司に不満持って、彼氏はクソつまんなくて、元カレに嫌がらせされて、生きててさ、つまんないんだよ」
僕は、少しだけ、良心が痛む感覚がした。ここまで僕に、面と向かって本心の様なものを曝け出してくれた人は居なかった。
「何で、そんな事僕に言うの?」
癖になってしまっているのか、夏妃には、僕という一人称を使ってしまう。
「お前が原因の一つだからだろうが」
「じゃあ、僕はどうすればいいの?」
僕は、彼女の言葉に、自分でも抑えきれない、憤りを感じてしまった。
「僕は、分からない。××××をしてイけない。だから、愛を育めない。君に分からない事が、僕に分かる筈無いだろ!」
「何それ? 自分は特別とか思ってんの? 人を愛せ無くて、苦しんでる人なんて、多分だけどゴマンとおるわ」
僕は、人を愛せ無い訳では無いのだけども、という想いは口には出さず、話しを進める事にした。そして、彼女を慮ってみた。
「でも、大変だよね」
「はっ?」
「いや、何でも無い」
意識をし過ぎると、言葉が浮かんで来ない。そして、ありきたりな事を言っている。だから、全く響いていない。
「お前は今、楽しいんだよね?」
「何が?」
「私に悪意持って接してる事がだよ。そうする事が楽しいんだよね?」
こんな、面と向かって確認される事だとは思って無かった。
「そうだよ」
「そうなんだ、楽しかったんだね?」
「楽しかったんだと思う」
僕は、ここまで来ると、楽しいとか何も無いと思っていた。
「ねぇ?」
「はい?」
「幸せにしてくれるって、言ったよね?」
「言った。かな? どうだろ?」
「言ってたよ。初めてヤッた日に」
「覚えてないな」
「今日の夜、私の部屋に来て」
「えっ? いいよ……」
「じゃあ八時過ぎに来て」
「いやっ、そういう肯定的ないいよじゃ無いよ。喋ったイントネーションで、分からなかったかな?」
「嫌なの? もうこんな機会無いよ?」
「でも」
「じゃあおいでよ。ちゃんと、おもてなしするからさ」
「おもてなし? ……行って、みようかな」
その結論に至ったまでの思考回路は、とても単純なものだった。
いつの間にか、攻守が入れ替わっている感覚がして、このままでは駄目だと思った。
何の為に彼女が僕を家に招くのか、そこにどんな思惑があるのかなんて考える事もせず、差し出されたものが糸では無く藁だったとしても、それを掴む事しか僕の頭の中には無かった。
そうだ、見つけよう。せっかく彼女の家に誘われたのだから探そう。彼女のウィークポイントを。
僕は、自身が悪意に満ちた人間にも関わらず、相手の悪意を感じ取る能力に欠けていた。
午後六時、僕は、夏妃の部屋のインターフォンを鳴らした。
ドアを開けると彼女は、エプロンを纏っていた。こんな良からぬ事を考えている僕の為に、何かしらの料理を作ってくれていたのだと思うと、心が傷んだ。僕が靴を脱いで、彼女を追い越した後に、頭に激しい鈍痛が走った。
僕の呻きは声にならなくて、何かが割れた様な音がしたのだけれど、それが何かなんてどうでも良くて、僕はその場に倒れ込み、揺れる視界を正常に戻そうとしたのだけれど、その術が分からなくて、彼女の手に襟首を掴まれ、引っ張られて、拷問器具の様な、立派な椅子に座らされた。
「あっ、うわぁぁあアアアアア」
やっと声が出せる様になった。まだ意識が虚で、その椅子から逃れようとしたのだが、身体には、とても丈夫な網目の、縄なのか? 巻き付けられていて、身動きが出来なかった。
「動ける? ねぇ? 動ける?」
この部屋に来て、初めて聞いた彼女の声がそれだった。
「いや、動けないよ。ってか、頭が痛くて、ねぇ? 何したの?」
「アハハ、分かんないんだね? 今さ、意識朦朧としてる?」
「してるよ、それで、何で縛るの?」
「何で縛るのって? そういうのがさ、苛つくんだよ。自分は誰かを傷付けるのに、自分は誰にも傷付けられないと思ってんの?」
「いや、何なの? なにするつもりなの?」
「それさぁ、私もあんたに思ってたから」
「はっ? 僕はそんなつもり、あったか、あったけど、そんな、こんな、イっちゃってる発想無かったからさ」
「お前が隣に引っ越して来たって知って、私がどんだけ病んだか知ってんの?」
「分かんなかった。ごめんなさい。それよりさ、何するの? いや、何もしないでよ」
「何もしないよ。何だと思ったの? たださぁ、話しがしたかっただけ、お前の様なイカれた奴にはさ、こうでもしないと話しを聞いて貰えないと思って」
「僕がイカれてるって? こんな事までしてる君に言われたく無いなぁ」
彼女は、僕の言葉を聞き終わると、眉間に深い皺を寄せ、辺りを見渡した。部屋の隅にある、あれは、ぶら下がり健康法というやつの器具だろうか? それを荒々しく分解し始め、一メートル弱程の棒を手に持って戻って来た。
「丁度良い棒があったわ」
何をするのに、丁度良い棒なの?
彼女は、何の躊躇いすら見せず、その棒で僕の左の頬骨の辺りを殴った。
「イッタァ、あぁ、あぁ、こんなの、犯罪だよ? 分かってるの? ねぇ、僕が何したって言うんだよ」
その棒は、逃げ場の無い僕を三度襲った。もう、逃れたくて、痛くて、大量の汗が顔を濡らした。
「アハッ、アハッ」
「アッ、アアッ、何が、何がそんなに楽しいの?」
「分かんない。でもね、どうしても、笑いが止まらないの」
「君は、何がしたかったの?」
「もう分かんない。ねぇ、お前が私を追い詰めて得た快楽ってさ、これなのかな? 今さ、私が感じてるモノはさ、お前がいつも感じてた快感なのかな?」
「僕は、君じゃないから分からない。でも、そうだとしたら、君は正常な人間じゃ無いんだよ」
彼女は、殴るのに丁度良い棒を大きく振りかぶって、今度は僕の左のこめかみにその棒を打ち込んだ。
「アハ、アハハハハハハハ、アヘ、アハハ、アハハハハハハハ」
狂ったのだと思った。夏妃は、左手で腹を抱えながら、何度も僕を殴打した。笑っていたのが不幸中の幸いで、途中からは力が込もっておらず、打つ度に、その威力は軽減されていった。
でも、彼女のその笑いが収まった時、僕に訪れるのは、死なのではないかと思った。
僕は、少しでも生き長らえようと、道化でも演じる覚悟でいた。でも、僕が彼女を笑わせ様と思った所で、きっとそんなものは、彼女のツボには入らない。
そんな事で彼女は止まらない。僕は、彼女の沸いた頭が冷めるまでに、彼女の衝動を抑える言葉を見つけて、投げかけなければ先は無いのだと思った。
「僕が、悪かったから。謝るよ」
「お前が悪いのは当たり前だからさぁ、謝るのは大前提の話しだろうが」
火に油を注いだ様だった。でも、きっと必ず、未来を勝ち得る言葉があるはず。
「どうしたら、許してくれるのかな? そんなには無いけど、お金を出すよ? 今まで貯めて来た分が百万程あるんだ。それで、どうかな?」
「キャハハハハ、遂に金に頼り出したよ。滅茶苦茶面白いじゃん、お前の処世術が窺えて良いよ」
意図せず彼女の笑いを誘う事が出来た。でも、彼女の癪に障った事は確かだった。彼女は、持っていた棒を振りかぶり、僕の脳天を叩いたのであった。
「ウェッ、ガハッ」
「ねぇ? 痛い? 痛いの?」
痛いなんてものじゃ無い。殺される。そう思った。
別に、僕が死んでも、悲しむ人など居ない。もう、いいのかもしれない。これが、幾人かの人を傷付けて来た報いなのかもしれない。
でも、母から最後にもらった手紙の一文が、どうしても頭から離れない。
最後の行に記された言葉、「どうか、あなたは、幸せになって下さい」それは、母がどう足掻いても、自身では叶える事の出来なかった願いだった。
「僕を、殺すの?」
母の人生は、きっと、愛する父と別れた時に、終わってしまっていた。
「はっ? 殺す? 何言ってんの?」
僕に自身を投影したかった筈なのに、僕は、母の気持ちに寄り添わなかった。もし、僕を自分の分身の様なものだと感じれたのなら、母は僕に依存する事によって、生きる意味を見出せたのかもしれない。
「死んでしまうよ。分からないの? 君は、狂ってるよ。きっと、そういう性分を持ち合わせてるんだろうね」
「なにそれ?」
僕は、母が好きだったから、強がってしまったんだ。僕が守るから、お母さんを守って行くからって、伝えたかったんだ。
不器用で、言葉には出来なくて、だから、幸せだった三人の食卓なんかより、あなたと過ごして行く、二人で生きていく人生の方が楽しいんだよと、本当は伝えたかったんだ。
「見境いが無くなってしまうんだよ。きっと。知らなかっただろう? そんな自分の衝動に、その欲に身を任せれば、今日君は、僕を殺してしまうよ」
「何を的外れな事言ってんの? 私が、欲に溺れてるっていう事? ただ、殴られたくないだけだろうが」
でもきっと、母は、寂しかったんだと思う。こんな広い世界の中で、僕は、母を一人きりにしてしまった。
「楽しそうだよね? ずっと笑ってたもんね、気付いてる?」
「だから狂ってるって言いたいの?」
「同じなんだよ。嫌かもだけど、僕と同じだよ君は、まっとうな恋愛じゃ満足が出来ない。楽しく無い。違うかな?」
「私は、普通に生きて来た。お前とは違う。違うのに、幸せって、感じる事が出来無い。誰と居ても楽しく無い。普通でいたいのに、普通じゃつまらない。生きてても、どうしても楽しく無いんだよ」
「普通じゃ無くていいんだよ。僕は、そんな君を肯定するよ」
「何様だよ」
彼女は、殴るのに丁度良い棒を、大きく振りかぶった。そして、暫くの間停止していた。それが、どれほどの時間だったのかは分からない。一秒か、数分程の時間を経過していたのかも分からない。
ただ、彼女の、その瞳の中の瞳孔が怖ろしい程縮んでいく様子は、どうしても忘れられる筈が無かった。