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醜い得体 (R 15版)  作者: 藤沢凪
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十六 齋藤裕也 2 粘着

 齋藤裕也 2 粘着


 衛藤夏妃の住んでいるマンションのエントランスで、初めて会ったその男は僕に声を掛けて来た。

「待ち合わせですか?」

 僕は考え事をしていて、彼女以外の人物は見えない様になっていたため、驚いて変な声を出してしまった。

「ハァッ、あっ、はいそうです」

「コンビニに行く時にここで見て、帰って来てもまだ居るんですもん。もう三十分くらいは経ってるのに」

「そんなに経ってたのか、気付きませんでした」

 僕は、この男がコンビニに出掛ける時に、すれ違った事さえ気付いていなかった。

「こんな狭いエントランスで長時間待っていると、不審者だと思われてしまいますよ」

 僕はいつも、夏妃と待ち合わせをする時は、仕事終わりにそのまま来るので、いつも一時間程はこのエントランスで待ち惚ける事が通例となっていた。

「そうなんですか、何かすいません」

 僕は何だか、このマンションの住民に、知らない内に気味の悪い思いをさせていたのだと思うと、次第に罪悪感が湧き上がってきてしまった。

「こんな事を言うのは失礼になるかもしれませんが、普通は、エントランスの狭いマンションで待ち合わせをするのであれば、時間の少し前に来るか、早く着き過ぎたのであれば、近くの喫茶店などに入って時間を潰すのが常識ではないですかね? 最近では、聞くに耐え無いストーカーの被害も耳にしますし、気を付けないと疑われてしまいますよ」

「すいません。以後気を付けます」

 僕は、とても悪い事をしていた気持ちになった。先程まで昂揚していた心は落ち込み、エントランスから出ようとすると、その男は僕に提案をした。

「良かったら、僕の部屋で待ちませんか?」

 その男の意図が分からなかったので聞いてみた。

「何故ですか?」

「僕は別に、貴方が不審者の様だと思ったから言った訳じゃ無いんですよ。そういう人には見えないから。人の見た目というのは、その人の内面を映す鏡だと思っています。だから、僕は貴方が悪い人だとは思って無かった。ただ、勿体無いと思ったんですよね。分からない人には、悪い印象を持たれてしまう。それで良くない噂が立てば、貴方はこのマンションに来づらくなるでしょう? だから、僕が言う必要の無い事を言ってしまったんです」

 この人は、僕の為を思って忠告をしてくれたんだなと思った。その言葉を聞くと、罪悪感に埋もれていきそうになっていた心が、次第に晴れていく感覚がした。

 そして、僕の事を分かってくれた。僕は、誰かを尾け回して、異常な愛で喜びを得る様な人間じゃ無い。そんな僕の人間性を、初めて会ったこの人は分かってくれた。

「ありがとうございます。でも、何故貴方の部屋に誘ってくれるのですか?」

「ああいう事を言ってしまったから、貴方が傷付いてしまったと思ったんです」

 ああいう事とは、僕が不審者と疑われるという話しの事だろう。

「確かに辛かったです。でも、もう大丈夫ですよ」

「僕は、貴方を傷付けたまま見送りたく無かった。だから部屋に誘ったんです。部屋に誘うというのは、この世で一番、信用しているというのを示す事の出来るモノだと思います。僕は、貴方に信用されたかったのかもしれません」

「何でそこまで?」

「取り繕うのであれば、このマンションでまた貴方と会う事があるかもしれないからと言うのでしょう。でも、違うかな? 貴方は人を惹きつける魅力を持っている。貴方と、お話しをさせて欲しい。実際は、そう思ったからって理由でした」

 僕と、話しがしたい? そんな言葉、誰にだって言われた事は無かった。

「勿体無いです。そんな言葉。僕で良ければいつでも駆けつけます」

 そう言って、その方が開けてくれたエントランスのオートロックを二人で通った。エレベーターに乗って、ボタン側に立ち、階数を聞いた。

「何階ですか? あっ、あとすいません。お名前聞いてもいいですか?」

「北野です。四階お願いします」

「北野さんですね。すいません、僕言って無かったですね。齋藤です。四階ですか? 凄い、僕も彼女の家が四階なんですよ」

「そうでしたか」

 エレベーターが目的の階で止まり、二人で出て部屋まで歩くまでに、時計を見てみると、七時まであと二分程しか無かった。

「あっ、気を使って頂いてばかりなのに、申し訳無いですけど、僕ここで待ってます」

「そう、ですか。家の前で?」

「はい。あとちょっとで来るので」

「遅れる可能性は無いんですか? 凄い遅れたら、また貴方は不審者扱いされますけど?」

「大丈夫です。絶対来るんで。遅れたって僕は、何時間でも待てます」

「うん、だから、その何時間でも待てるっていうのがよろしく無いんだよね。部屋の前で何時間も待たれてたら、四階の住民の不安が募るばかりだから」

「それでも、もうすぐ彼女は来る筈なんで」

「そっか、来たとしても家の前で待たれてたら彼女引くと思うよ」

「そうですかね? でも北野さんの人間性を知ってもらえれば絶対大丈夫です」

「そっか、それ俺ここに居なきゃいけない前提だよね? じゃないと成立しないよね?」

「帰るんですか?」

「いや、家もうここなんだよ、あとドア開けて入るだけなんだよ」

「じゃあまた今度、招待して下さい」

「今来ないんだ? 頑なだね。そうだ、連絡先を教えてもらってもいいかな?」

「はい。勿論」

 僕が携帯の電話番号を北野さんに教えようとした時、後ろから彼女の声がした。

「ちょっと、何やってんの?」

 振り返ると、僕の天使がそこに居た。

「いや、この方が、エントランスからここまで連れて来てくれたんだ」

 天使の顔は歪み、暫しの沈黙の後、自室の鍵を開けて、一人で中に入って行こうとした。

「待ってよ夏妃ちゃん!」

 僕は、閉まる寸前の所でドアに手を掛けた。しかし、彼女は僕の指ごとドアを閉めて、ギリギリと力を加えるのであった。

「ウワァァァァァァァァァァァァァァァア」

「煩い。入るなら早く入って」

 そう言うと、彼女はドアを少し開いて、僕はその間に身体を滑り込ませた。

「どうしたの? 夏妃ちゃんらしくないよ」

 彼女は僕の言葉には応えず、鍵を閉めてチェーンを掛けた。激しい運動をした後かの様に、彼女は息を切らしていた。

「悪い人じゃ無いんだ。とても僕の事を理解してくれて、だからお言葉に甘えちゃったんだよ」

「はっ? まずさぁ、あんたの事理解してる事が、私に何の関係あるの?」

「いや、だから、夏妃ちゃんとも良い関係になれるかなって」

「お前マジで言ってんのかよ? 良い関係って、私の家なんだよ。あんたの判断で、何で私が近所と交流持たないといけない訳? まぁ、多分最初から分かってたんだろうけど」

「どういう事?」

「いや、とりあえず考える時間頂戴? 頭が追いつかないんだよ。そうだ、聞かせてよ、何でアレと仲良く喋ってたのか」

 彼女がここまで取り乱す姿を初めて見た。そして、彼女に「お前」と言われたのも初めてだった。僕の意気は消沈したまま、事の経緯を彼女に伝えた。

「北野?」

 彼女は、その時初めて僕の話しを遮った。

「うん。北野さんっていうらしいよ。引っ越して来たばっかりだって。そして彼の部屋の前まで行って、部屋に上げてくれようとしていたのだけど断ってて、そしたら夏妃ちゃんが来たんだよ」

「そっか」

 そう言うと彼女は押し黙り、何かを考え込んでいた様だったので、そっと抱き寄せようとしてみると、怒りに満ちた顔でその手を跳ね除けて、一瞬だけ僕を睨み付けた後、目を伏せて言った。

「いや、裕也だけのせいじゃ無いよ。ゴメン。指、痛かったよね」

 僕は、彼女が何をそこまで考え込んでいるのかは分からなかったけれど、いつもの、優しい彼女に戻って来てくれたのが嬉しかった。

「痛くなんか、無かったよ」

 暫しの沈黙が二人の間を流れた。虚勢を張ってしまった手前、僕は、腫れ出した指を氷か何かで冷やす事さえ出来ず、痛みを散らす為に、右手でその指を握り締めていた。

 その時、部屋のチャイムが鳴った。彼女は驚いて後退りながら言った。

「あいつだよね? あいつだよ。何なんだよもう!」

 僕は彼女に近寄って肩を掴んだ。

「違うよ。今のはオートロックの方からのチャイムだよ。あの人だったら直接部屋のチャイムを鳴らす筈でしょ?」

 彼女の、強過ぎる被害妄想は、普段の何事にも動じない姿からは、想像の出来ないものだった。その肩の揺らぎが収まったタイミングで、二度目のチャイムの音が部屋に響いた。

「イヤッ」

「大丈夫だから、夏妃ちゃんは僕が守るから。僕が出てくるよ」

 僕は彼女から離れ、受話器を取って話し始めた。

「はい。はい、そうです。大丈夫です。分かりました」

 僕は受話器を置いて、オートロックを開けるボタンを押した。

「何してんの?」

「大丈夫だから」

 暫くすると、部屋の前のチャイムが鳴った。彼女はグリーンのカーテンを掴んで、震えていた。彼女の不安を少しでも早く取り除きたくて、玄関を開けて、挨拶もそこそこにサインを簡単に済ませ、その場でダンボールから商品を取り出してもらい、それを持って寝室に向かった。

 彼女は、とても驚いていた様に見えた。

「はっ? なにそれ?」

 僕は、彼女の不安を取り除きたくて、大きな声で言った。

「全自動マッサージチェアだよ」

 彼女は、強張ったままの表情で言った。

「ここまでくると笑えるわ」

 今日は、何も持って来ていないと思わせておいて、配達という時間差で驚かせる戦法を僕は取っていたのだ。

「最近、体調が悪いって言っていたから、これを使えばきっと良くなると思うよ」

「あー、そっか、ありがとね」

 彼女はそう言って、玄関まで行って鍵とチェーンを掛けた。

 それから毎日、彼女の家に呼ばれる様になった。きっと、あのマッサージチェアを気に入ってくれたのだ。僕だって、毎日でも夏妃に会いたい。でも、彼女には彼女の恋の進め方がある。だから、こちらからは会いたいなどと懇願する事を避けてきた。

 ただ、会う度にプレゼントを持って行っていたのだけれども、それはもう、出来なくなってしまった。何故なら、ぶら下がり健康器は五千円、ハンモックが八千円、マッサージチェアは一気に跳ね上がり、七万円もしたのだ。

 マッサージチェアを買う時、正直悩んだ。何故なら、自分の買い物でもそんなに高価な物を買った事が無い。七万円? 辛かった。でも、体調が悪いというのは、昔からの彼女の悩みだ。それでいつも会えなくなってしまう。そう考えれば、マッサージチェアで体調が良くなり、会える機会が増えるのであれば、お釣りが来る程では無いか? それでいうと、久しぶりに会って食事に行く事になって、十万を使い切ろうと思っていた僕にしてみれば、全て合わせても、二万円程のお釣りが来る。

 買おう。元から無かったお金だと思えば、心はすっと軽くなった。そして、それから彼女は、毎日僕を部屋に誘った。マッサージチェアを買う決断をして、本当に良かったと思った。

 ただ、毎日部屋に誘われると、どうしても買ってあげられる物が無くて困ってしまう。その時に、もしかすると僕は、何かを買って与えてくれるから呼ばれるんじゃないかと思ってしまった。そんな筈は無いと信じたい。でも、何も持って行く物が無い時は、どうしても彼女の顔色を伺ってしまう。四日連続で、手ぶらで彼女の部屋に来ているけれど、彼女の表情は、どこか虚ろな気がした。

 何か持って行かなければと、六日連続で、彼女の家まで向かう道中に、花屋さんを見つけた。僕は、毎回この道を通っていた筈なのだけれど、その花屋さんに気が付いたのは、今日が初めてだった。

 僕は、周りが見えていなくなっていたのだなと思い、自省した。そして、彼女の為を想い、見渡しながら歩く道の中で、花屋さんを見つける事が出来た。その事を、とても誇らしく思えた。

 お店に入り、店員さんを呼んで、「植木鉢に、色鮮やかな、様々な花を刺して下さい」と言った。店員さんからそれを受け取り、意気を上げて彼女の家に向かった。

 今日は、僕の仕事が遅くまであったので、先に部屋に居るとの事だった。オートロックを開けてもらい、ドアが開くと、見覚えの無い、華奢な女が出迎えてくれた。

「お疲れ様でーす。あれ、綺麗なお花、夏妃に買って来たんですか?」

 僕は、訝しい視線を送り、その子に言った。

「そうです。夏妃ちゃんは?」

「夏妃ちゃん? ちゃん付けで呼んでるんですか? 裕也さんですよね? 付き合ってるんじゃ無いんですか?」

 付き合っていても、ちゃん付けで呼ぶのの何が悪いんだと思った。

「その事が何か、貴女の気に触る事がありましたか?」

 僕の話しを聞き終える前に、その子は寝室へと消えて行った。暫くすると夏妃が来て、僕が持っているプレゼントを見て言った。

「それは、何?」

「お花だよ。来る途中に花屋さんを見つけて買って来たんだ」

「そっか、ありがとう。でもね、もう何かを買ってくるの止めて欲しいんだ。裕也君も負担になるでしょ?」

「僕は、負担になんかならないよ。君が、喜んでくれるのが僕の幸せだから」

「そっか、でもね、私が嫌なんだよ。裕也君にばっかお金を使わせて、私も何か返さないとっていう強迫観念に駆られてしまうんだ。もしも裕也君が、自分の使った分だけ、同等の金額分何かで返して欲しいって人間だったらさ、そんな経済力私には無いから、別れなくちゃいけなくなるんだよね、裕也君はそんな人間じゃ無いと思ってる。でもさ、私のそんな不安を募らせ無い為にも、今後プレゼントは控えてもらえるかな?」

 僕は気付かなかった。良かれと思って渡していたプレゼントが、彼女を苦しめていた事を、初めて知ったのだった。

「そうだったんだ。ゴメンなさい。そんなつもりじゃ無かったんだ」

「貴方を見てれば悪い気持ちなんて無いって分かるよ。ただ私が、窮屈になっちゃうって話しだから」

 彼女は、僕が贈るプレゼントの為だけに、僕と付き合っているのでは無いと分かった。嬉しかった。物では無く、僕が求められているんだ。今すぐ抱き締めたかったのだけれど、先程の女が奥に居るのだと思い出し、衝動を抑えた。

「ねぇ、さっきの人は誰?」

「会社の同僚の子だよ。私達と同い年で、楓って言うの。仲良くしてね」

 そう言うと、彼女は寝室に戻った。僕は靴を脱いで、その後を追うと、四角いテーブルに両肘を着いて、イカゲソを頬張る楓と目が合った。

「お花は、喜んでくれた?」

「楓、やめてよ」

 そう言い合うと、夏妃は僕に、テーブルの前に座る様に促した。

「さて、これからどうするか真剣に考えようよ」

 僕はやっとそのテーブルの前に腰を下ろすと、夏妃は冷蔵庫からビールを取り出し、プルタブを空けて、僕に手渡した。

「楓、裕也にはまだあいつの事言って無いからさ、まずそこから」

「そうなんだ」

 あいつの事? 何の事だ? 僕は苦手なアルコールを一口飲んで、二人に質問した。

「あいつって誰の事?」

「鷲宮悠介の事だよ」

「誰? それ」

「北野って名乗ってた隣の住人だよ」

 夏妃がそう言った時、僕は全身に寒気がした。あの男は、北野さんでは無いのか? それは、何の為の嘘なんだ?

「どういう事? あの人はいったい何だっていうの?」

「あいつはさ、私のハードなストーカーなんだよ」

「えっ、ストーカー? どういう事? 隣の住人がストーカーになってしまったの?」

「違うよ、ストーカーだった奴が隣に引っ越して来たんだよ」

「それって、相当ヤバいよね? 警察、警察に言わないと」

「そうだね。だからさ、裕也君にも言わないとと思ったんだ。変な心配させたく無かったけど、証人が多い方が警察の人も信用してくれると思ったから」

「そうか、俺を頼ってくれてありがとう」

「夏妃は今、一人で部屋に入るのも怖がってるんだよ。だから、裕也君がいつも側に居てあげてね」

「楓さんは知ってたの?」

「知ってたよ。アイツは大学の同級生だし」

「楓、それは」

「どういう事? 楓さんと夏妃ちゃんと悠介って人は、大学の同級生なの?」

「違うよ。私が悠介に初めて会ったのは三ヶ月前」

「そこから、ストーカーされる様になったんだ?」

「そう。だから、隣に引っ越して来ているのが怖くて」

「なんで、引っ越して来たの?」

「いや、知らんし」

 僕は、北野と名乗っていた、鷲宮悠介という人物が、とても恐ろしい人間だと感じた。その男が、夏妃に何をしようとしているのかが分からない。取り敢えず、話しは警察に事情を話す事で落ち着いたのだが、それでも、夏妃の不安が払拭されるとは思え無かった。

 僕が、彼女を守らないと。彼女の部屋の、ベッドの辺りにあるアダプターに似た盗聴器を、ネットから取り寄せて、二人きりの日に、彼女がトイレに行っている隙に取り替えた。これでいつでも、彼女を遠隔から見守れる。一緒に居ない時でも、その盗聴器から聞こえてくる彼女の生活音を聞く事でいつも、心は一つだと思う事が出来るのだった。

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