十四 樋口楓 4 大切な人
樋口楓 4 大切な人
悠介からの電話が掛かって来たのは、丁度眠りにつく頃だったので曖昧だ。
多分十時か、十一時だろう。
「起きてた?」
「何の電話? 掛けて来ないで欲しいんだけど」
「嫌われてるの? 俺が何したの?」
「したよ。猫達に、殺された猫達がお前の喉を掻っ切ればいいんだ」
「ちょっとマジ何言ってんの? ってかさ、猫の事言うなら声掛けてって言ったよね?」
「だって、怖いじゃん。一回さ、目が合ったの覚えてる?」
「あっ、うん。やっぱ気付いてたか」
「怖かったよ」
「怖かった? 何が?」
「その後の、猫が腑を引き摺り出される姿を想像したら胸が痛むんだよ」
「何それ? ヤバいね。想像もしたくないわ」
「はっ? よく言うよ。そんな事して何が楽しいの?」
「確かに、分かんないね、意味が。そんな事して何が楽しいのか」
「もうさ、お願いだからそんな事しないで。約束してくれる?」
「何の話し? お前さ、意味分かんない事ばっか言ってんじゃねぇよ」
「何それ? 脅しだよね?」
「はっ? 俺はさ、ただ、あの時の猫の事みんながどう捉えてんのかなとは思ったんだよ。でもまぁ悪い方に伝わっても仕様が無いとも思った。だから何て夏妃に伝えたか聞いてんじゃん」
「そのまま、貴方が前に言ったまま伝えたよ」
「そんなにお前と猫の話ししたっけ?」
「したよ、許される事じゃ無いんだよ」
「マジなんなの? 俺はさ、その時の俺が出来る限りの事したよ。お前に何か言われる筋合いねぇんだけど」
「出来る限り? 手当たり次第って事?」
「お前いい加減にしろよ。目に見える猫達だけでも思いやって何が悪いんだよ」
「殺って? 手当たり次第殺っちゃったんだ?」
「はっ? ってかさ、お前結構ヤバいよね?」
「何それ? 私のメンタルでも削ろうとしてるの? ってか知ってるからね、夏妃からメール来て、お前と別れたって聞いてるからね」
「そうか、もう別れてる事になってるのか。残酷だなぁ、女の子は」
「振られた理由を私に押し付け様としてるんだよね? そういうの、みっともないと思うんだけど?」
「いや、ってか、振られたのはもういいんだよ、ただ、どういう経緯だったのかをおさらいしときたかっただけだから」
「どういう事? 経緯? だから原因が私にあるとか言って、私の事追い詰め様とするんだよね?」
「追い詰める? お前関係ないよね?」
「そういう人間だろうがお前は! 何するの? 私の家族にまで危害加えるつもりじゃ無いよね?」
「何の為に俺がお前の家族を傷つけるんだよ」
「お前の様な異常犯罪者の気持ちなんて、私に分かる筈無いんだよ!」
「犯罪者?」
「もう、電話して来ないで」
そのまま、電話を切って、耳障りな虫の声をシャットアウトした。夏妃とは別れたのだし、これ以上奴が関わり合ってくる事は無い。私ももうこれ以上話す事など無い。
私は、いつまでも頭にこびりついている記憶を思い返した。
小学六年生のとある日、私は初めて家出をしたのだ。理由は、父が、私が塾をサボった事を咎めた事から始まった喧嘩が原因だった。
「楓、何で塾をサボったりしたんだ?」
父の声は威圧的で、母に助けを求める目線を送ったのだけれど、母はその視線を逸らした。
「あのね、友達が出来たの。その子と、もっと遊んでいたくて、ゴメンなさい」
「それで、嘘をついたのか」
重々しい雰囲気を感じて、弟は自分の部屋へと帰っていった。
「だって、今までこんな事一度も無いじゃん。ずっと真面目にやって来たのに、そんなに怒られないといけない事なの?」
「違う。何で帰って来て、俺が何処に行っていたのかを聞いた時、今日は塾の日だよと、いつも塾の日はこのくらいの時間になるものだよと言ったんだ?」
「それは」
その話しを聞いてから、援護する事は出来ないと踏んだのか、祖父母も自室へ帰っていった。
「怒られると思ったから」
「何故?」
「塾を、休んだから」
「楓が行きたいと言ったから通わせてる塾を、楓が自分の意思で休んだからといって、何故俺が怒るんだ?」
「分からないよ。分からない。もういい!」
誰も私の味方になってくれない。大好きだった家族が、全て敵の様に思えてきて、きっと、それが一番私の心を追い詰めたのだった。
部屋を出ようとした時に、ドアの横にジョンが、おすわりの様な格好で佇んでいた。ジョンは、伏し目がちに私を見つめていた。
「あんたまで、そんな顔するんだ」
ジョンにそう言い放った後、家を出た。行くあてなどなく、暗い夜道を全速力で駆けていた。心の奥底に少しだけ、犬に何言ってんだとは思いながら、当てもなく走ったんだ。
公園があった。今日はここで夜を過ごそう。家からそれ程離れていない筈だけれど、私が、今まで訪れた事の無い公園であった事は確かだった。
公園の中心部にすべり台があり、その中央に、かまくらの形をした、まさに寝床に相応しい遊具があった。その中に入ると、同い年程の女の子の先客が居た。
「わっ、ゴメンなさい!」
私は咄嗟に謝り、外に出ようとして、狭い出入口の角に頭をぶつけてしまった。
「大丈夫?」
彼女は幼い容姿には似合わない、落ち着いた雰囲気で、声で、私を気遣ってくれた。
「人が居るって思わなくて、ゴメンなさい」
「何で謝るの? 公園はみんなの物なんだよ。一緒に遊ぼう」
きっと、同じ様な理由でその場に居る筈の彼女は、一緒に遊ぼうと言ってきた。私は、その子とお話しをしたいと思った。
「何で、こんな所に居たの?」
狭い半円状の遊具の中で、二人共体育座りをしながら彼女に問い掛けた。
「こんな所? 失礼な人だな。私はここに三カ月住んでいるんだよ? 居心地がいいんだ」
「三カ月? 凄い! お腹は空かないの?」
「お腹は空くよ? お腹が空いたらご飯を食べるよ。当たり前じゃないかな?」
「ご飯も食べられるんだ。でも、学校は?」
「学校には行っていないよ。意味が無いからね」
「学校が嫌いなの?」
「嫌いだよ。好きな人も居るんだろうね。でも、私は嫌いだから行かないんだ。学校は、学校が好きな人が行くものなんだよ。行きたくなければ行かなければいい。君は、どうだい?」
「私は、嫌いだよ。でも、友達に会えなくなるのは寂しいな。友達に会いたいから、学校に行きたいと思うよ」
「それで、良いと思うよ」
彼女は何故か笑ってみせた。その時に見せた笑顔が、とても可愛いくて、私は、多分とうの昔にそうだったのかもしれないけど、彼女の事を好きになった。
「君は、明日も学校があるだろう? 帰らなくていいのかな?」
「帰りたくないの。聞いてくれるかな?」
私は、家出した経緯を彼女に話した。彼女は、一言ですら、口を挟む事も無く、私の稚拙な語りを聞いてくれた。
「そうか、それは、傷付いただろうね」
「分かってくれるの? ありがとう」
私は、家族が分かってくれなくても、この子に分かってもらえただけで、全てが報われた気がした。もしかすると、この子じゃなくてもいい、誰でも良くて、私の話しを聞いてくれて、分かるよと言ってくれれば良かったんだ。その子は、その事が分かっている、だから、そういう受け応えをしたのだとさえ思えた。
「でも、君はきっと、謝りたいんだろ?」
「謝りたい?」
「そうだと思うんだ」
その通りだった。私は、素直になれなくて、家を出てしまったのだけれど、本当は、父に謝りたかったんだ。
「君の気持ちも、分かるんだよ。新しい友達が出来て、その子と遊んだせいで塾を休んでしまった。その子は、君の素性を知らない。君が今日塾だという事を知らない。本来、友達であれば分かっている事なのかもしれない、でも、新しい友達にはその事が分からない。君は庇ったんだよ、その友達を。無意識だと思う、でも、君の中で、その友達のせいになんかしたく無かったんだ。だから、お父さんに盾を突いた。その友達を悪く言うのが嫌だったんだ。君は、とても友達想いで、素晴らしい人間だと思うよ」
私は、固まって声が出せなかった。この心は、奥底まで見透かされていた。
「どうしたら、どうしたらいいのかな?」
彼女は即答した。
「伝えればいいんだよ。きっと、君のお父さんならちゃんと分かってくれるよ。それに、何にお父さんが怒っているのか、今の君なら分かっているよね? いや、始めから分かっていた筈だよ」
「……分かってた。私帰るよ。また、ここに来てもいいかな?」
「最初に言った筈だよ。公園は、みんなの物なんだ」
「ありがとう」
私は、その公園を出るまでは走ったのだけれど、道に迷ってはいけない、車に轢かれてもいけないと思い、出来るだけ冷静に、見覚えの無い道を、ゆっくりと歩きながら、記憶を辿り、家路に着いた。
雰囲気というモノは、人の脳髄にいつまでも貼り付けられて、仕様が無いモノなのだろうか?
いや違う
玄関を開けて、靴を脱ぎ捨てて、リビングまで走った。その扉を開けると、父が立ち尽くしていた。そして、慈しむような目を私に向けてくれた。
「待ってたんだぞ」
「どうして?」
「ずっと、帰ってくるのを待ってたんだよ」
いつもは、すぐに自分の部屋に入る父が、私が帰るのを待ってくれていて、優しい目をして私を迎えてくれた。
「お父さん、ごめんなさい。塾に行ってたって、嘘をついてごめんなさい。友達は何も悪く無いの。私が、塾に通ってるって知らなかったから、だから遊ぼうって言ってくれたの。私が、その子と遊びたかったから、みんなに嘘をついて、私は、どうしようも無い子なんだよ」
父は、ゆっくりと近付いて、優しく私の頭を撫でて言った。
「よく言ったね。楓は、どうしようも無い子なんかじゃないよ。お父さんの、みんなの自慢の家族だよ。今度、その友達を家に招待するといい。美味しいお菓子を用意しておくからね」
「お父さん。ありがとう」
そうすると、何処に隠れて居たのか、母が後ろから駆け寄り私を抱き締めてくれた。祖父母が扉を開けて、笑顔で近寄った。無愛想な弟がソファーの後ろから顔を出し、両手を上げて大きく背伸びした。ジョンが尻尾を振りながら近寄って来て、私のあげた、赤い玩具を噛みながら擦り寄ってきた。
この家に産まれて良かった。きっと、この家族に支えられて、私は生きていくんだと思ったんだ。
あいつは、悠介は、もしかすると、私にまで危害を加えて来ようとするかもしれない。夏妃に猫の話しをした私に、厭悪感を抱いているかもしれない。異常犯罪者の思考回路など私に分かる筈などない。異常者に、言葉なんか通じない。もしかすると、大切な、私の家族にまで手を下そうとするのかもしれない。守らないと、夏妃を、家族を、私が守っていかないといけない。
もう、大切な人を失うのは嫌なんだよ。
あれ?
その大切な人って、誰の事だっけ?