十三 鷲宮悠介 4 別れ
鷲宮悠介 4 別れ
ゴールデンウィークが明けた頃には、僕の心は落ち着きを取り戻していた。
我が事なのだが、とても誇りに思う。嫌な事があっても、全てを自分の良い方向に捉えていこうと思える。そこから逃げるのではなく、嫌な事を自分の中で良い事に変換する事が出来るのだ。
それは心か、頭か、どちらなのか分からないけれど、いつの間にか勝手に処理してくれている。だから、衛藤夏妃から別れの言葉をメールで送られても、僕は傷付く事などまるで無かった。
「ごめん、急だけどさ、別れよう」
そのメールの文面を見て、何故か心が高鳴っている様に感じた。
「どうしたの? 僕は、何か悪いことをしたのかな?」
僕は、堪える事すらせず、笑いながらそんな文章を作成し、彼女に送った。
「ちょっと色々と、付き合っていけないなと思う所があって」
「会って話そうよ」
「もう会いたく無いんだ。電話もしたくない。分かってくれないかな?」
「分からないよ。何でそうなるの?」
「猫の話しを聞いたんだ」
猫の話し? 楓か。喋ったのか。それならそうと、夏妃に言うのであれば言ってくれというのは、理解してもらえなかったのだろう。
「そうか、気味が悪かったかな?」
「いや、気味悪いとかじゃ無くて、人間としてどうかと思うもん」
「えっ? 人間として? そんなに軽蔑される事なのかな?」
「それが分からない時点で、人として終わってるよ」
そこまで彼女達の癪に障る事なのだろうか?
僕は、十八歳の時に家を出た。理由は、母が僕の事を求めていないから。そして、これ以上、壊れていく母を見たく無かったから。
一人暮らしというのは、実家で暮らしている時と然程変わりもなく、不便だと思う事など何も無かった。掃除も洗濯も食事も、自分の分は自分でやっていたので、そう思うのは当たり前の事だった。
でも、寂しさが込み上げてしまう時があった。あの、自由気ままに、空間を支配してくれる母が居ないと、心細くなってしまう時があった。僕は、もう本当に一人なんだと、家族として居れたあの空間を失って、嫌われていたとしても、近くに居てくれるだけで、母に、僕は救われていたんだと思った。
母に縋り寄る事など出来無かった。母はもう、僕や父の居ない世界を生きていこうとしているのだから。
新しい家の近くは、車の通りが少なく、そのせいなのか猫が多く居た。
いつも、その猫達を眺めるばかりだったけれど、僕の顔を見慣れたのか、近くに寄ってくる奴も居た。仕様が無いので、コンビニで猫用の缶詰を買って、食べさせる日々が続いた。
でも、こんなものは人間のエゴだ。毎日そんな事を続けていれば、やがて、その猫は自分で食い扶持を探す事をやめてしまう。でも、僕は、自分の寂しさを紛らわす為、自分の欲の為だけに、毎日、飼ってもいない猫に餌をやり続けた。気付けば、僕の帰る時間帯に猫は十六匹集まっていた。
僕ももう、限界だった。バイトのシフトを増やしたのだけれど、猫達の食欲は、僕の想像を超えていた。当たり前だ。ずっと外に居て、気紛れな天候にさらされて、一日一度の食事が、缶詰一つずつで足りる訳が無い。
僕は、諦めた。そして、この猫達を引き取ってくれる飼い主達を探す事にした。ブログを開設して、日々、猫達の可愛い姿をアップする様に心掛けた。一応、一匹一匹に名前を付けていたのだが、引き取り先の人が、名前は付けたいだろうなと思い、その旨もしっかり伝えて、アルファベットで表記する様にした。少し、心が痛かった。別に、僕の付けたままの名前で良かったんじゃ無いか? でも、きっと、自分で名前を付けた方が愛着が湧くと思う。出来れば、引き取られた先では、幸せになって欲しかった。
でもそれは、簡単なものでは無かった。引き取り手が、「病気などは大丈夫ですか?」と聞いて来た。当たり前の質問だと思った。僕は、返信を遅らせて、動物病院に行き、検査をしてもらった。その証明書の写真を送り、引き渡す時にそれを渡した。費用は、一万八千七百円だった。
正直、とても辛かった。でも、日課になっている餌やりをしている時に、餌をやらずとも近付いてくる猫達を見て、もう、見捨てる事など出来無いと思った。自分の蒔いた種だ。自分の寂しさを紛らわす為に使った猫だ。仕様が無い。人から与えられる餌でしか生きられない様にしたのは自分なのだから、責任を持ってあげたい、いや、責任があるのだと思った。
引き渡す時にトラブルがあった。どうしても、その地から離れたく無いのか? 引き取り手に渡すまでに駄々をこねるような奴が居た。抱き抱えて連れて行こうとしても、暴れて手が付けられなかった。それが破談になったのは、仕様が無いけれど、みんなには、外の世界を慣れさせておく必要があると思った。多分この子達は、この界隈でしか行動していない、外の世界を見せてあげなければいけないと思った。
車道に飛び出したりしたら危ないので、首輪を付けて散歩する事が日課になった。気紛れな猫の行動も、友達の様に話し掛けながら歩けば、何の苦痛も無かった。でも、知り合いにこんな姿を見られるのは御免だ。
出来るだけ、目立つ事の無く過ごして来たつもりだけど、少し噂になってしまっているのを聞いた。でも、僕は、丁度良かったと思った。その時は、悪い噂が蔓延して欲しかった時期でもあった。
その当時は、大学で二人目に付き合った子との、別れの瀬戸際だった。僕は、もう、その彼女では絶頂に達せなくなっていた。ただ、知りたかった。僕という存在が大学内で貶されても、彼女として、庇ってくれるのか、揺らぐ事の無い愛が、その子の中にあるのか?
その女は、あろう事か被害者面して、「しつこく誘われて」お台場に行った。ディズニーに行った。横浜の中華街に行った。デートで我が行きたいと言って行った場所も、全て僕が、強制の様に連れて行ったのだとの賜ったのだと知った。
何か、糸が、千切れた感覚だった。
あの顔が、もう一度見たいと思った。
純愛、から大きく逸れてしまった、足を引きずり、振り向いた、あの顔。僕は、抑えきれなくて、髪を引っ張りあげて、剥けたあの眼。
忘れられなくて、僕は多分、あの時、この世の中で一番発情していた。
そうか、僕は、待っていたんだ。心が傷まなくて済む、そんな恋人を待っていたんだ。
でも、その子は心がとても弱くて、僕と別れてから二ヶ月で消えた。せっかく親が苦労して貯めた貯金を吐き出し入った大学を、簡単に辞めて地元に帰った。
次は、もっと強い子じゃないといけない。見れなかったから、悲痛で歪むあの顔が見たかっただけなのに。
衛藤夏妃は、強い。見てみたい。それが、憎悪と恐怖に狂う様を、きっとそれが僕の、求めているモノだと思う。
僕にはもう、守る人がいないから、きっと、僕の好きな様に生きればいいんだ。