十二 齋藤裕也 1 変わらぬ想い
齋藤裕也 1 変わらぬ想い
東京での生活は、僕の中に、強く印象を残す出来事などまるで無かった。
何故僕はこんな所に来てしまったのだろう?
答えは、衛藤夏妃が東京に居るからだ。
高校時代、二年程付き合っていた夏妃に感化され、上京した。感化され? 違う。追い掛けたんだ。もう、どうしようも無い事なのに。
東京での生活が落ち着いたら、連絡をしてみようと思っていた。でも、携帯のアドレスを開いてみても、発信をする勇気が持て無かった。きっと、気持ちが悪いと思われると思ってしまった。
高校三年生の冬に、夏妃から別れを切り出された。僕は、せめて夏妃が東京に行く三月まで、恋人のままでいさせて欲しいと頼んだのだけれど、色々と手続きとかあって大変だから、これ以上は勘弁して欲しいという、僕にはもう、全くの関心が無いのだという事が分かる台詞を頂き、別れる事となった。
でも、いつまでも変われない、今でも夏妃の事が、心の真ん中にあるままで、ズルズルとこの歳まで生きてしまった。
僕ももう、新しい恋を見つけなければいけないと思いながら、人通りのやたらと多い道の中で、その子の面影を探している自分に気が付いたのだった。
ゴールデンウィークに、同窓会の誘いが来た。僕は、いつもは参加する様にしていたのだけれど、いつも、求めている人の姿は見れなくて、わざわざ同窓会の為に長崎に帰るのを断った。
その同窓会に限って、夏妃が参加する事を知り、参加しようかとも思ったけれど、もしかすると、彼女は僕を避けているんじゃないかと思った。だから、僕が参加しないのを彼女が知り、今回に限り同窓会に参加する旨を伝えたのだと思った。
僕は、良くない思想を巡らせながら、休みが空ければ仕事にでも没頭して、少しでも彼女の事を忘れていく努力をしようと考えていた。
でも、連休に入ると、どうしても気に掛けてしまう。長崎に帰っていれば、今でも想いを募らせる、彼女に会う事が出来たのに、僕は意気地が無くて、彼女の居ない東京で、意気を沈ませ頭を掲げている。
誰にも何も知らせず、長崎に帰り、同窓会に参加しても良かったのではないか? 馬鹿の振りをして、彼女との邂逅を果たせば、こんなにも心は、波を打つ事は無かったのでは無いか? そんな仕様の無い事を考えてしまっていた。
連休も明日で終わるのだなと、その連休を何の糧にも出来無かった自分を恥に思いながら、パスタを茹で、ペペロンチーノを作り食べると、虚しさが込み上げてきて、無性に酒に頼りたくなった。
家の中には、アルコールの類は一つも無い。家で一人で飲む事も無ければ、誰かを家に招き入れる事も無い。普段、僕の家の中で、酒というものは必要の無い物なのだ。
近くのスーパーに行き、千円しない程の赤ワインを買って帰った。これで足りないという事は無いだろう。部屋に着き、ワイングラス等無いので、細長いグラスに氷を入れて、ワインを注ぎ、飲み始めた。
僕にとってそれは、虚無感しか無かった。楽しいという感情など微塵も無い。僕は、アルコールを使って、自棄しようと試みているのだと思った。そして、言い聞かせている。人間というのは、辛い事があった時に、こうやって自我を解放させようとするものだよと。
でも、そこに快楽など無いのに、どうすれば心は解放するというのか? 僕は、六年前に別れた彼女への想いを、狂ってでも吐き出したいのに、その手段が分からない。だから、いつまでも彼女の事が忘れられないでいるのだろう。
いつもは、こんなに思い返す事など無く暮らしていけるのに、年に三回程の同窓会の誘いを受ける度に、忘れかけていた想いを蘇えらせる。それは、今でも恋心というものなのだろうか? この胸を熱く掻き撫でるモノは、あの頃と変わらぬモノなのだろうか? 僕にはもう、分からなかった。
グラスの中の氷は、グリンピース程の大きさになり浮かんでしまって、暫くは、薄くなってしまったワインの朱色を眺めていた。
携帯電話が着信を知らせる音を鳴らした時、僕は十秒程、意味の無い思考を巡らせた。僕は、東京に来て、あまり人と関わりを持たず過ごしてきた。休みの日に連絡が来る事など無くて、家族からの他愛の無い電話だろうと思った。でも、もしかすると、一昨日の夏妃が参加した同窓会で、僕の話題になり、同級生が連絡をくれたのかもしれないと思い、あらぬ期待を持ちつつ、携帯を手に取り画面を見てみた。
僕は心臓が止まったのかと錯覚さえした。画面には、「衛藤夏妃」という文字が映し出されていた。
いつまでも、連絡など出来る筈も無く、それでも、アドレスから消す事の出来無かった、予期出来る筈も無い人からの着信だった。
僕は、頭が正常に回らなくて、その着信音が鳴り終わるまで、多分、瞬きさえ出来ず、頭は空っぽになっていた。どれだけの時間、そうなったのかは分からないけれど、着信音が鳴り止み、「着信一件」という文字を見て、そのまま眠りに着きたいと思った。
きっと僕は、頭がおかしくなってしまって、家族の名前を脳に伝える時、衛藤夏妃と誤変換してしまったんだ。以前にもあった、街を歩いていて、ふっと目に付いた衛生士という単語を見て、夏妃の事だと思ってしまった。よくその張り紙を見ると、歯科衛生士の募集要項だった。
いつまでも、過去の彼女に依存して、情け無いなと思いながら着信を見てみると、また僕の目には、「衛藤夏妃」という文字が映った。
僕は、とうとう引き返せない所まで、壊れてしまったのだと思った。だから、何の心の準備も無く、すぐに折り返して電話をかけた。着信音さえ聞こえ無い程の速さで、相手は電話を取り、話し掛けて来た。
「もしもし」
「もしもし」
「裕也君だよね?」
「そうだよ」
ここで、確実に衛藤夏妃なのだと分かった。やはり、頭の中には、生で聴いた声の方が残っている。でも、二言目を聴き終わるまでに、いつも電話で、化学の力で劣化して伝わる彼女の声を思い出し、確信を得た。
「今、東京に居るの?」
「うん。君も、まだ東京なのかな?」
彼女が東京で働いている事は、以前参加した同窓会で知っていた。僕は、彼女の事がきっかけで、上京した事を悟られたく無かったのかもしれない。
「東京に居るよ。下落合って所。何処住んでるの?」
「沼袋だよ。西武新宿線沿いだね」
これは、元から知っている事だった。勿論、下落合という駅の周辺の、何処に住んでいるとまでは知らなかったけれど、同窓会で情報収集して、その駅の路線沿いに部屋を借りようと思っていた。
「じゃあ下落合分かるよね? ってか、今池袋居るんだけど、来ない?」
僕は、今何が起きているのか、しっかりと把握出来ていなかった。まるで、夢の中に居る様な気分で、何と返事をしたのかも覚えておらず、タクシーで池袋まで向かっていた。
待ち合わせをした場所で、タクシーを降り、東口にあるドン・キホーテの前で携帯を弄る彼女を見つけて駆け寄った。
「ゴメン、待たせたかな?」
彼女は携帯の画面を暗くして、顔を上げて言った。
「久しぶり、全然待ってないよ、換金所混んでたし」
天使かと思った。久しぶりに見た彼女はやはり綺麗で、いや、高校生の時よりも、美しくなっていると思った。換金所というのはよく分からなかったけれど、それより、この後何処に行くかというのが僕にとっては一番の課題だった。
「サンシャインシティ行こうよ」
僕は、家の近くのコンビニで十万円を下ろしてきていた。こんな日の為に僕は、嗜好品には目もくれず過ごして来たのかもしれない。
「サンシャインシティにある店なんて大体終わってるよ。ここら辺なら、遅くまでやってる居酒屋結構あるから適当に入ろう」
僕は、いきなり恥ずかしい姿を晒してしまった。あまり外に遊びに行く事の無い僕は、何処が何時に閉まるのかなんて分かる筈無かった。なのに、タクシーの中で調べられた筈なのに、舞い上がって、やれるべき事、考えるべき事を、やらず、考えもせず、この場に来てしまった。池袋といえばサンシャインシティだろう。その稼働時間を考えずに、十二時手前のこんな時間に、其れを推してしまった。
彼女に、東京の遊び方を知っている。あの時、高校生の時とは違うのだという事を示したかった。だけど、僕は出来無かった。
彼女と街を歩きながら、店頭に置かれているメニューの書かれた看板を吟味しながら、「ここは焼き鳥安いけど、サイドメニューイマイチだよね」とか、「フードはいいけど、ドリンク六百円からってどんだけなん?」とか、「めちゃ良いけどラストオーダーまであと十分」とか、文句を言っていたのは全て彼女だけれど、池袋の東口を、当てもないまま、いつまでも練り歩いて、彼女は僕に、愛想を尽かしているんじゃないかと思った。
でも僕は、本当はとても楽しかった。一つ一つ、行き当たりばったりのお店を評価して、自分の意見を交わし合う。僕はあまり何も言えなかったけど、でも、彼女の居酒屋あるあるには好感が持てた。そんな彼女が選んだお店は、外見だけ見ると、デート等で行く様な所では無いとはっきりと言える、串焼きをメインにした古びた店舗だった。
僕は普段、あまり飲まないビールを彼女に合わせて頼み、乾杯をして、頼んだ食べ物が来る前の場繋ぎのつもりで話した。
「なんか、ゴメンね、もっとお洒落な所連れて行きたかったんだけど」
「どういう事? 最終的に私が連れて来た店じゃん?」
「いや、なんか、久し振りだし、サンシャインの高層階とか連れて行きたかったんだ」
「いや、洒落た所は大体十二時で閉まるよ? それなら六本木とか歌舞伎町辺りで待ち合わせないと、って言っても私もよく分からんけど」
「そうだったのか」
「なんか私、東京の女、っていうイメージになってたの? 嬉しいな」
「俺は、全く東京に馴染めてないよ」
「安心したよ」
「なんで?」
「変わって無いのが嬉しかった。いいんだよ。逆に引いちゃうよ、夜景の綺麗なレストランでワインとか飲むなんて」
「それを思い浮かべてたんだけど?」
「やめてよ、そういうのはさ、心のやりとりが不自由な奴らがやる事なんだよ。夜景に逃げてるんだよ。窓の外綺麗でさ、料理美味しくてさ、店員の態度も良かったらもうそれだけでいいじゃん」
「何が駄目なの?」
「内容なんて要らなくなっちゃうんだよ。相手と話す事を避けてるんだと思うんだ。心の奥を知られたく無いと思ってる。だから夜景とか料理で飾るんだよ」
「でも、そういう所を知っている人が魅力的だと思うものじゃないの?」
「始めはそう思ったかもしれないな。でも、そういう人達が与えてくれるものって、何か苛つくんだよね」
「苛つく?」
高校生の時、彼女からそんな言葉を聞いた事は無かった。彼女は、何かを溜め込んで過ごしているのだと思った。彼女の事ばかり考えて生きてきたのに、その苛立ちの根源を、僕は分かってあげれなかった。
「なんかさ、お金で買おうとしてるんだよね、身体を、まぁ心もなんだろうけど、私さ、ちょっとおかしいんだよ、別に、それでいいと思うやん? 楽しくないんだよ。何をしてても、お金があっても無くても、彼氏が居ても居なくても、仕事が上手くいっててもいかなくても。楽しくないんだよ」
いつの間にか、店員さんの存在など忘れて、彼女との会話に没頭していた。気難しい話しをしていても、混んでいて右往左往する店員さんに、こちらの話す内容など届いてないだろう。届いていたとしても、全く興味の無いものだろう。あまり入った事が無かったのだが、居酒屋というものは、とても居心地の良いものだと思った。
「夏妃の、楽しい事ってなんだろう?」
「分からない。なんだろう?」
ビールからハイボールに変えて、彼女はもう四杯程飲んでいる。僕はまだ一杯目のビールを飲み終えてさえいない。
「そんなにお酒強かったんだね?」
「強くなんてないよ」
「強いよ、お酒は好きなの?」
「好きだよ。でも二日酔いにはなるから気を付けて飲んでる」
「彼氏にさ、心配されない? 飲み歩いてると」
「普段は会社の下らん飲みばっかりだから、何も言って来んよ」
「そっか」
彼女に今、彼氏がいる事が分かった。だからなのか? もうこのお店を出ようと思った。その後すぐに、彼女がトイレで席を立ったので、店員さんにお会計を頼み、早めに支払っておいた。お会計は五千円を少し越える程で、出番も無く、逆さに財布に入れられた福沢諭吉の束を見ると、虚しい気持ちになった。
トイレから戻った彼女が、ハイボールを飲み干し次を頼むまでは、そう時間は掛からなかった。そこで、お会計を済ませてしまった事を話すと、彼女は激昂した。
「なんなん? 今日私から誘ったんやし、私が奢りたかったのに」
僕は、十万円も下ろして、全て使い切る覚悟をしていたのに、正解は、一円すら使わず居る事が答えだったなんて分かる訳無かった。
「ゴメン。良かれと思って」
「飲み足りない」
「えっ?」
僕には、お酒を飲んでいて、足りないなどと感じる事が無かったから、咄嗟に聞き返してしまった。
「ウチで飲もう?」
彼女のその言葉に、尻が軽くなったのだなという印象を受けた。でも、そうじゃなく、僕だから受け入れてくれているのかもと思った。
僕の中で天秤は、後者に傾いた。
彼女の家の近くのコンビニで、酒とツマミを消費しきれない程買った。会計は一万を超えた。
あれほど憧れていた彼女と、こんなに近くに居れるのに、僕は迷っていた。知らない人の、大切である人を、奪い取った先に未来はあるのか? 幸せになれるのか?
部屋の中でも彼女のペースは変わらず、ワインのボトルをほぼほぼ一人で、一時間程で空っぽにしてしまった。
僕は、正解が分からなかった。彼女は、酒をいつまでも煽るばかりだった。心地よく話しをする彼女に、相槌を打つ事しか出来なくて、でも、自分のずっと秘めていた想いを伝えるのは、今日しか無いと思った。僕は、その左手を取り、ベッドまで連れて行った。彼女は、何かを悟った様な目をこちらに向けていた。
ベッドの上まで優しく誘導して、彼女に跨り、抗えない様に両手を握り、キスをした。そして、「好きだ」と言った。
彼女は小さく頷いて、僕を受け入れた。