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松永久秀(1508?-1577)

従四位下、弾正忠・山城守・弾正少弼。別名に道意、霜台。俗に戦国三大梟雄の一人とされている。


歴史小説などでは松永弾正と書かれることが圧倒的に多い。上杉謙信や黒田如水というような書き方で言えば、松永道意と記されていてもおかしくないのだが、なぜかほとんど最初から最後まで松永弾正表記で書かれている。というよりも「マツナガダンジョウ」で一個の固有名詞化している感さえある。


室町末期の過渡期に存在した実力者であるがゆえに、色々微妙な評価を受けてしまった人物である。


文化人、あるいは茶人として書かれることの多い松永久秀であるが、茶人としての評価のほうが正しい。というよりも、文化人とするには久秀が詠んだ和歌というのを探すのは実は大変に難しい。武田信虎とか織田信長とか、和歌にさほど縁のなさそうな人物のものさえ見つけることはさほど手間がかからなかったのに、である。筆者も随分探した。


室町末期、久秀が活躍全盛期の頃、どちらかといえば歌会と茶会は参加者層が別れていた。端的に言うと歌会は政界の首脳陣が開催する場であり、茶会というのは商人等の参加する会合である。現代風に言うと歌会は大名・公家・有力僧侶などによる首脳会議・サミットであり、茶会というのは奉行・商人などの実務者協議の場と言ってもいいだろう。


この観点から見ると松永久秀の茶会参加率はかなり高い。それは久秀が優秀な実務者であったことを示すと同時に、あくまでも久秀自身の立場は実務者でしかなかったことの間接的な証拠とも言える。逆にいえば、松永久秀は歌会に参加できるような立場ではなかったのだ。


織田信長が上洛後には茶狂いの信長の影響もあいまって、茶会の場がサミット代わりになることもしばしば発生したが、それでもなお久秀は歌会に参加することは殆どなかった。武将として出陣前に連歌を行うことがあるが、それに参加しているのがせいぜいである。


思い出すのは豊臣秀吉が晩年に下手な和歌を毎日大量に詠んで側近たちを困らせたという逸話である。久秀同様、本来なら歌会に参加できるような立場ではなかった秀吉は、歌会に参加できる立場になったことを誇る意味もあって毎日和歌を詠んでいたのではなかったか。久秀も信長に評価され、大和半国の実務支配者となった晩年には、意外と下手な和歌を嗜んでいたりしたかもしれない。


一方で久秀が優秀な実務者であった証拠は無数にある。ルイス・フロイスが「彼が命令したこと以外には何事も行われない」と記しているのは、当時の京都周辺では利害関係が入り組みすぎていて、むしろ久秀が調整し指導しないと何事も進められなかったのだろう。現場担当者としての能力の高さが逆説的に彼を有力者へと押し上げていった一面がある。


その観点で見ると久秀の評価は色々面白い。よく言われる足利義輝殺害、東大寺焼き討ち、主家一族暗殺の三大悪事だが、これらは現在ではほぼ否定されている。しかし、義輝暗殺に関して言えば「将軍殺害なんてことを完璧に遂行できる能力を持つのは久秀ぐらいしかいない」という、ある意味で実務における評価の高さが災いしたように思える。


また、足利義輝、主家三好一族はいずれも首脳会議側の人物だ。加えてこの当時、僧侶には公家の血族が大勢いた。つまり東大寺を含む、大寺院の僧侶もサミット側の人間なのだ。


サミット側有力者に対し、実務者として現場を取り仕切っていた久秀との階級闘争的な捉え方が当時からされていたのだとすると、双方の確執は永禄の変(義輝殺害事件)より前から噂になっていた可能性もある。前例尊重主義的な将軍や僧侶相手に、現場実務者である久秀は普段から愚痴をこぼしていて、その愚痴が彼らに対する悪意や殺意として広まっていたのではないだろうか。


さらに言えば、どれだけ評価されていたとしても織田信長も首脳側の人間である。久秀は最後に信長にも反旗を翻すことになるが、その根底にあったのは、出身階層がその地位を変えることが許されなかったという一種の時代に対する失望感にあったのかもしれない。久秀がその才能を十分に発揮するには、秀吉が中国方面軍司令官に抜擢される以前の、室町末期の淀んだ空気が濃すぎたと言えるだろう。久秀最後の場面、灸をすえてから腹を切ったという逸話も、どこか現実という失望からの逃避に近いものを感じさせる。


よく伊達政宗が十年遅く生まれてきた戦国大名とかいう言われ方をするが、同じように評するのであれば、松永久秀は十年早く生まれてきた戦国の申し子であったと言えるかもしれない。実力が評価されても実力だけでは越えられない壁が存在していた時代、茶人としての久秀の名声は、地位に関係なく主客という立場だけが存在する茶室だけが彼にとっての慰めと安らぎの場であった結果ではなかっただろうか。


結果論になるが、松永久秀にもっとも助けられた人物の名を上げるとしたらそれは三好一族の誰でもない。羽柴秀吉こと後の豊臣秀吉である。


前例尊重主義の室町幕府や朝廷にあって、出自が定かではない松永久秀は、「あのような氏素性もわからない人間に実務者としてかかわらせるなど前例がない」という抵抗勢力と戦い続けてあの地位に上ったのであろう。一方の秀吉は「松永久秀という前例があるではないか」という一言で実務に関わり、サミット側に提案もできたのだ。秀吉と久秀の間に悪い逸話が伝わっていないのは、氏素性のわからない者同士が持つ、秀吉の好意のあらわれであったのかもしれない。


乱世であったがゆえに久秀はあの立場まで出世することができた。だが、室町末期という微妙な時間軸の上では、最初から最後まで久秀は実務者の立場から変わることは許されなかった。これは久秀にとって幸運だったのか不幸だったのか。案外、もっと遅れて生まれてきて、武将を必要としない時代であったら優秀な実務者として大商人にでもなっていたとも考えられる。


だがその一方で、松永久秀という人物の生き様は面白い。真面目すぎる人物は面白みがないがゆえに歴史に埋没してしまうのだが、久秀には埋没する余地がまったくない。室町末期を体現した人物の一人として、松永弾正久秀という人物は魅力的な人物として物語の中で描かれてきたし、今後もおそらくそうであろう。欠くべからざるべき人物として、初代・狸親父としての「松永弾正」は、今後も小説や大河ドラマで活躍してくれるにちがいないと思っている。

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