日本刀夜話
最近忙しくてあまり見ていないのだが、専門家が鑑定を行う番組がある。
放送中に視聴者やゲストが持ち込んだお宝を鑑定してもらい、その結果を見て楽しむ番組なわけだが、たまに日本刀が登場する。
もちろん本物が混じったり贋作があったりするわけだが、番組中、本物の説明はあるが贋作に関する話と言うのはあまり語られない。そこでちょっと趣向を変えて、どちらかと言うとマイナーな逸話とかを書いてみたいと思う。
贋作の中でも妙に有名、と言うかやたら数が多い物の一つなのは『国光』である。
国光と言う刀には二種類あり、「来国光」(らい・くにみつ)と「新藤五国光」(しんとうご・くにみつ)だ。どちらも国光と通称されるのだが、ここではどちらがどうとかは問題ではなく、その銘である。
なにせ“国”が”光”り輝くという名だ。縁起がいい。そのため、贈答品として多く用いられていた。特に江戸時代、将軍家に男子が生まれたり、将軍嫡子が成人した時などに贈答品として珍重される。
しかし、国光はどちらも鎌倉時代から室町時代にかけての刀匠である。元々の絶対数が少ない。江戸時代にそんなに数があるはずもない。一方でその名前の縁起の良さは非常に惜しい。結果どうなるか。
縁起物として、それぞれの大名家が国光を作ってしまう事になる。自分の領内にいる刀鍛冶にうたせた刀に贈答品用として「国光」と銘を掘り込んでしまうのだ。
もちろん幕府側もそんなことは承知の上だ。言ってしまえば今日の正月飾りにあるプラスチック製のエビみたいなものである。縁起物として贈呈し、受け取る側も承知の上で受け取る。
大名:「嫡子誕生、おめでとうございます。これで将軍家も安泰でございます。つきましては、若君様にお祝いとして我が大名家より国光の刀をお贈りいたしたく」(縁起物なんで新品ですけどね)
幕府:「遠方からご苦労であった。ナントカの守の忠誠心しかと了解した、ありがたく頂戴しよう」(縁起物だからちゃんと贈ってきたかだけが問題だ。リスト化して後は蔵の奥に突っ込んでおこう)
こんな感じである。中にはとても国光とは似ても似つかぬ数打ちの刀もあるが、当時は特に問題にならなかった。別に売り出すわけでもなく、ちゃんと礼儀を守って贈ってきたかの確認証拠でしかなかったからだ。
これらの刀、仮にここでは縁起物国光と呼ぶが、日本中の大名から送られてきた大量の縁起物国光は江戸城の蔵の中で死蔵されたまま何十年、何百年を経過した。
時は下って明治時代。明治維新を成功させたのはいいが、明治政府は金がなかった。とにかく貧乏だった。
はて無血開城した江戸城の蔵の中に、全国の有名大名から贈られてきた刀が大量に保管されているじゃないですか。
かくして。
売り手:「これはかの大大名である伊達氏から江戸幕府に贈られた国光でございます」
好事家:「買った」
売り手:「この国光は何とあの加賀の前田中将から江戸幕府に贈られた本物でございます」
好事家:「よし言い値で買おう」
という訳で、贈った方も贈られた方も贋作だとは思っていなかった、礼儀としての贈答品、縁起物国光が好事家に買い取られ、大量に市場に出回ることになってしまう。贈り物としては本物なので嘘はついていないし。
明治政府はこれが全部本物だと思っていたのか、と問われれば否だろう。なんせ見ただけで江戸後期の新々刀(明和年間以降の物)にまで国光と彫られていたりするのだから。数も質もとても国光とは思えないはずである。
これは贋作と言うべきではないかもしれない。作った方も受け取った方も贋作としていないのだから。例えて言えば博物館の売店に売られている土産物を本物と称して転売した人間が罪に問われるべきだろう。
問題となるのはこれが明治政府の財政担当者による独断なのか、それとも政府が主導したのか、である。これはもうわからない。ただ、すべてを追跡調査できたわけではないが、この市場に出回る縁起物国光、薩摩島津氏や長州毛利氏からの物は見当たらない。
島津氏がこんな偽物を国光としていたのですか? と好事家からいちゃもんを付けられそうな、あらかじめ問題になりそうなものを外して流通させた気がして仕方がない。正直財政担当者の独断にしては手が込んでいるとは思う。
疑えばいくらでも疑えるのだが、証拠は何もない。贋作を知らんふりして売りつけてもおかしくないぐらい明治政府が金に困っていたことは確かである。
事実はどうであれ、現在も国光と銘打たれている刀は大量に市場に出回っている。だが、大名家から江戸幕府に贈呈された国光、との由来があればまずこの縁起物国光を疑う必要がある。少なくとも現在の刀剣業界で鑑定されるとほとんどが贋作扱いだ。
だが、そもそも縁起物だったのにいつの間にか市場流通させられてしまった、不幸な刀たちを贋作と言うべきかどうか。これはなかなかに難問であると思うのだがどうだろう。
国光は縁起のよさで贋作モドキが作られてしまった。では逆の例はあるのか。
江戸幕府末期に討幕派が縁起担ぎで安物にまで名を掘り込んだ「村正」あたりが有名であろうか。徳川家に祟るという伝説が広まっていた証拠ではあるが、実際は徳川家康本人が村正の刀を所持していたので全くアテにならない。
そんなものにまで頼りたかった討幕派の心情を思うと切ないものもあるが、とりあえずこれは置く。その他にはあまり有名ではないが、坂木刀などもそれにあたるかもしれない。
坂木、あるいは坂本、たまにそれ以外のもある。これらの銘が刻まれた刀はもともと別の銘だった。「坂下刀」である。
坂下氏は越前国(福井県あたり)に居を構えていた刀匠一門の事を指す。源流は近江「下坂」派で、名前をひっくり返して名乗ったようだ。なお下坂派も越前で刀匠として、特に再刃の名門として令名が高い。
坂下一門は親子孫の三代ぐらい確認できるようだが、知名度は一流とは言い難い。それでも越前の刀鍛冶なので質は悪くない。悪くないだけに扱いに困ったらしい。
なにせ“坂”が“下”るのである。縁起が悪い。運が下り坂とか、人生下り坂とか、お世辞にも縁起の良い印象は持てない。贈答品として贈り付けたら嫌みかと言われるかもしれない。
戦国時代の人たちは意外と気にしなかったようだが、平和な江戸時代、縁起も気にするようになる。
しかし捨てるにはもったいない。刀としての質そのものは悪くないのである。兜の試し切りなどで使いつぶした例はあるようだが、越前鍛冶の面目躍如と言うか、捨てる人はあまりいなかった。ではどうするか。
どこかの誰かが鏨を持ち出し、坂下の下の字に鏨と金鎚を振り下ろした。数回繰り返し彫り画数を増やせばあら不思議。「下」が「木」に早変わり、である。
誰かがこれをやると我も我もと真似されるようになった。その結果、逆に「坂下」銘の刀の方が少なくなってしまうという妙な結果に。また中には銘をごっそり削り落とされ、無銘刀にされてしまったものもあるようだ。現存する坂下銘の刀は数本しかないらしい。
こうなるとどれが坂下刀なのか、と言う観点に立つと何とも言えず厄介な存在だ。贋作ではないにしても妙な手を入れられてしまい、本物か偽物かとは別の意味でも微妙な扱いになる。
本家の下坂を名乗っていればこんなことにならなかっただろうに、分家となって名前をひっくり返した結果、自分たちの打ったはず刀が、存在しない刀匠の刀になってしまった。
坂下一門の刀匠からすれば、武士がこんなに縁起を気にするようになるとは想像もしなかっただろう。職人としては泉下で嘆いているかもしれない。
こういった刀の逸話は大体が平和になった江戸時代の事になる。平和になったがゆえに刀を刀以外の視点、美術品とかの観点で見るようになった結果と言えるだろう。
平和な時代の笑い話と笑って済ませるか、はたまた品物を扱う観点に立って嘆くべきか。人によってスタンスは異なる。
ただ、歴史上有名な偉人もいれば無名の人物もいるように、有名な刀もあればここに挙げたような不幸な刀もあるんだな、と言うのもまた日本刀剣史の一面であることは間違いない。