毛利隆元(1523-1563)
毛利隆元。従四位下・大膳大夫・備中守。毛利元就の長男。幼名がはっきりわかっていないのは珍しい。ちなみに実は織田信長より年上。
読んだら焼き捨ててほしいと書いてあるダウナーな手紙が後世にまで残ってしまったためとかく評価の低い武将である。最近それでもましになったが。
筆者は一時期の隆元には本気で同情していた。評価が低すぎるのである。試みに某人物とこういう形で比較してみよう。
A)隠居した父親にかなわないと卑屈で自信なさげな手紙や愚痴を書き残しているが、一方面の軍隊を指揮して勝利しているほか絵画の腕前・連歌や俳句も堪能、中国との貿易にも積極的で行政手腕も水準以上、外交でも成果を出した
B)勇将として知られるが相手の本隊ではなく一部隊にも敗北しており、家臣に隠居させられたはずの父親には頭が上がらず、民政面・文化面での功績はほとんど残していない
小説的な評判を含むが、比較してどうだろうか。ちなみにAが毛利隆元、Bは浅井長政である。どう考えても抽出した結果だけ見れば隆元の方が評価が高くなるだろう。
浅井長政も隠居した父・久政に頭が上がってないが父親が悪いですまされてしまっており、実際に結果を残した隆元は父親にかなわないと言われてしまっているのだ。
浅井長政は美人の奥さんと出世した娘のおかげで評判に下駄はかせてもらっている感が否めない。
まあ浅井長政に関してはひとまず置く。
まず父・元就に関わる問題ともなる当時の隠居だが、現在の隠居と言う言葉の印象とは全く異なる。言ってしまえば社長職から会長職になるようなものだ。
こういう隠居は毛利元就だけではなく北条氏康、伊達輝宗(政宗の父)、織田信長なども行っている。これは当時の統治システムの問題がある。
それまで次代当主は一地方の行政経験しかない。それがいきなり支配領域全体の最高統治者になったとしても個別の地域制などは解らないだろうし外交も実際の経験はない。
今日風に言えば一市長が突然内閣総理大臣になるようなものである。いきなりやらされたら無理ゲー。そのため、隠居という名目で実際は後見人の立場で次世代当主に経験を積ませる時間となっている。
逆の方が解りやすいかもしれない。織田信秀(信長の父親)や上杉謙信など、当主が隠居を経ずに急死した家ではお家騒動が起きる率が高い。誰が後継者かはっきりわかってないからだ。正当性主張の結果内乱までがおきたりする。
そういう意味では当主隠居と言うのは次世代育成期間であるとともに後継者告知期間であるともいえる。
元就が隠居したのはむしろこの時代まっとうであるともいえるのだが、隆元だけがあの愚痴を書いた手紙の印象が強いのか、一時は「才能がないので元就が主導権を持ち続けた」とまで言われてしまった。
実際はその頃に隆元が定めた家訓や法度の多くはそのまま後世の長州藩の家訓として残っている。また徴税システムを確立させたほか商業の流通、貿易にも手を出している。
毛利元就の個人的力量に頼る大規模領主だった毛利氏の行政面の制度を整え官僚機構を整備し戦国大名に脱皮させたのは隆元なのだ。地味な内政面は評価されにくいとはいえ不遇としか言いようがない。
では軍事面ではどうか。ウィキペディアでの毛利隆元の項目ではこのように書かれている。
『弘治3年(1557年)に防長経略を行い、大内義長を滅ぼした。しかし旧大内領をめぐって豊後国の大友宗麟が西から、出雲国の尼子晴久が北から侵攻してきたため、元就は北の尼子氏に、隆元は西の大友氏に対応することになった。(中略)隆元は弟の隆景の支援を受けつつ大友氏を撃退することに成功した。』
間違ってはいない。実際、大友氏との門司城攻防戦では永禄四年(1561年)門司城に駆け付け籠城戦の指揮を執った小早川隆景の名声が名高く、隆元の名前は総大将としてしか記されていない。
だが実際はどうか。細かく書くとそれだけで短編~中編小説になってしまうので具体的な地名・人名は避けるが、実は戦場は豊後国東部全域に及んでいた。
ここでの隆元の指揮は素晴らしい。日向国(宮崎県)方面に武将を配置して大友軍が南方から向かってくるのを抑制し、豊後北部にも兵を派遣し門司城攻撃軍の補給線を断つとともに、豊後北西部の大友氏寄りの城を逆に攻め落とすなど、複数の戦場に兵力を巧みに配置するとともに、それらが孤軍とならないように連携させている。その間に大友氏の与力武将を寝返らせたりもしており毛利勢力を拡大させた。現在の福岡県全体を視野に収めた驚きの広域戦略指揮官ぶりである。
つまり隆景が名将ぶりを発揮した門司城攻防戦はあくまでも豊後国(福岡県)全体の一戦場に過ぎない。国力でいえば相手の方が大きい大友氏を右往左往させ、門司城攻略に戦力を集中させず、最終的に大友氏撤退までの指揮を執っていたのは隆元だった。
秀吉に天下席巻の可能性を指摘されたのは弟・隆景であったが、その隆景と同じような戦略指揮を隆景より十年早く、しかも九州の大勢力である大友氏相手に実践していたのが隆元なのである。
同時に、これほど評価させにくい人物も珍しい。個々の戦場で活躍した人物は勇将知将と評価することができるが、適材を適所に配置し補給線を整え相手の援軍を遮断し後方を攪乱させたなんてのはパラメータでは表せない。
客観的に評価するには全体の戦況がどう動き、その中で各軍がどのように移動させられたのかを判断していかなければならない。まして学者のように「歴史史料に書かれていない事は評価しない」という態度では隆元の力量は評価できない。
父・元就が尼子氏との戦いに専念できたのは北九州を隆元に任せて置けば問題ないことがはっきりしていたからだ。むしろ翌年には戦況が一進一退だった戦況を打破するため尼子氏攻めに隆元を呼んでいる。
自身に武功がないので本人も卑下している節もあるが、一戦場だけではなく戦域全体を俯瞰し全軍を統率できる隆元の軍事的功績を評価できる人物の方が少なかったのである。皮肉なことに隆元本人も含めて。
その意味で筆者は隆元毒殺説に加担する。
なまじ自分に自信がない隆元は思いあがることもないので罠に引っ掛けるのも難しい。個々の戦場では勝てても全体で負けかねない。ぶっちゃけ、個々の戦場では元春や隆景も手強いが国と国という観点で敵に回して怖いのは隆元である。
しかも中国地方全体の行政官僚組織を構築しそれを指導できるだけの内政能力まで備えている。内政能力が高いということは長期戦に備えられるということだ。
毛利氏の敵にしてみれば「謀神」元就の後継者が正統派の戦略指揮官、広域戦略軍師型の隆元だと二世代に渡り危機が続くことになる。逆に言えば隆元がいなくなれば戦場単位で勝敗を積み上げればよい。そして実際そのようになってしまった。
誰がやったのかはともかく、毛利氏の敵から見ればある意味理想的な結果となったといえるだろう。
日本での評価はどうしても減点方式になる。武功が少なくダウナーな手紙を残した隆元はどうしても減点対象が多いので凡将扱いされがちだった。
それを助長したのは史料最優先主義の歴史学会だった面もあるだろう。文章に書き残せるような功績ではないのだ。だが加点方式で判断すると欠点をはるかに上回るだけの結果をたたき出しているのが隆元なのである。
毛利隆元はもっと評価されてよい人物だと思う。少なくとも某社のSLGでは軍師系の能力を持たせるべき。