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奥平信昌(1555-1615)

奥平九八郎信昌。のち従五位下・美作守。世間一般には旧名奥平貞昌の方が有名かも。

俗称、長篠の戦で徳川方長篠城の城主として活躍。織田徳川連合軍による武田軍に対しての勝利に貢献した。


のだが。地味である。とにかく地味。長篠の戦いではもちろん主役は織田信長と徳川家康、敗者役の武田勝頼。長篠城攻防戦はあくまでも前哨戦に過ぎない。

しかも長篠城攻防戦では信昌の家臣で決死の脱出劇を成功させた鳥居強右衛門の方がたぶん目立つ。信昌自身も苦労はあったのだろうが物語上ではとにかく地味でなんか防衛戦を指揮したぐらいしか印象に残らない。

むしろ印象に残るのは武田軍敗退後に信長に一字をもらい信昌と名残ることを許されたことと、その場でべた褒めされて激励されたことだろうか。戦功という意味では全く影が薄い。


そして大体歴史小説ではすぱっと姿を消す。



織田信長が主役の小説ならこれ以上出番がないのは仕方がない。だが徳川家康が主人公でも本多忠勝、榊原康政辺りと比較すると出番はほとんどない。ますます地味である。


ただ出番がないのもある意味仕方がないともいえる。奥平信昌、実は安土桃山時代から明治以降になっても長篠での評判が悪い。むしろ(判官びいきもあるだろうが)武田勝頼の方が評判がよかったのだから。

何故評判が悪いのかと言うと、民政がおろそかだったのだ。それもほとんど悪徳領主レベルで。


長篠近辺での記録を丹念に拾うと、天正三年(1575年)に対武田戦に備え新城城を新しく築城。それと同時に長篠城も大規模に改築した。これが大体二月から四月にかけてである。

四月と言うとほぼ田植えの時期である。この時期に築城・改築と立て続けに農民を動員すれば当然ながら農耕には多大な負担が強いられる。

そして五月に長篠城籠城戦が勃発。この時、農民たちも兵士として長篠城に立てこもり、防衛戦に参加した。これが大体五月末までの間である。

当然ながら籠城中は農作業もできない。しかも戦場になったのだから農地も村も荒れる荒れる。酷い状態だったらしい。


戦後処理もまずかった。奥平の重臣に対しては家康が慰労した。しかし農民には家康本人は対応しなかった。領主の仕事だからだ。

そして領主である信昌はと言うと……


新妻に浮かれていた。


新妻は徳川家康の長女・亀姫。輿入れは翌年の天正四年というのが通説である。

だがこの新妻を迎え入れるため、新しい館を建築したり中破状態だった長篠城を再建したりと、信昌は戦争被害地の農民にますます労働を強いていた。


もちろん主君の娘を迎え入れるので飾るのはやむを得ないところはある。だが労働を強いる一方、民政面で何か配慮したのかと言うとどうもそんな記録がほとんどない。税収も例年通り取ったらしい。

その結果、農民たちは亀姫ではなく”金姫”と陰口をたたいたそうである。領主の結婚を祝う様子などほとんどない。


この時代、兵農分離なんてごく一部で行われていたにすぎない。当然ながら奥平信昌は長篠衆を率いて戦場に赴くわけだが……結果は言うまでもないだろう。兵の士気は全く上がらない。こんな領主のもとで働けるかと思っても無理はない。

やる気なんかこれっぽっちもないような兵を率いているのでは活躍しようもない。この後の対武田氏戦などにも何度も参戦はしているのだが戦功はほとんどない。小説で登場させようにも活躍していないのだ。


なお主君の娘である亀姫は信昌に側室を置くことを許さなかった。尻に敷かれている。



流石に本人も堪えるところがあったのだろうか。天正十八年(1590年)に関東へ国替えとなった家康と一緒に関東に移転した後は別人のように民政に力を注ぎ、名領主と呼ばれるようになっている。

ただしその頃にはもういい年になっているためか、軍事的な活躍はほとんどない。関ヶ原の戦いに至っては徳川氏の資料では家康本隊に同行と記されている一方、奥平氏の記録では秀忠軍に参加していたと、どっちにいたのかすらわからない。

なんかもう奥平軍なんかいてもいなくても変わらんと言う扱いである。


一時京都所司代を務めたりと、家康の娘婿としてそれなりに重要な役職を任されてはいる。ただし地味。そして大坂冬の陣には息子が参戦したのでやはり出番はない。

大阪夏の陣の前に病没したので豊臣家の滅亡を知ることもなく死んだことになる。



筆者は奥平信昌は頑張った凡人、と言う印象を持つ。


凡人だけに当時の権力者である信長・家康に褒められて有頂天になった挙句、領民・軍の信頼を失い、武将として全盛期の年齢の頃に活躍の機会を逸した。

これに関しては国家権力者が大学生をべた褒めしたようなものなので褒めすぎた信長や家康にも問題はあったかもしれないが、やはりそこは信昌にも有頂天になってバランスを失う凡人っぽさがある。

凡人なりに失敗を顧みて晩年には名領主と称えられるようになったので、努力家ではあったのだろう。


現在でも家康とともに関東に移転したのちに領主となった群馬県小幡では名君として称えられている。

一方、長篠近辺では長篠の戦いの跡地付近で長篠合戦のぼりまつりが開催されているが、合戦場でのお祭りなので奥平信昌の名前はほぼ登場せず半ば意図的にスルーされている。

また金姫と呼ぶ陰口は驚いたことに昭和の頃まであったらしい。長篠の領民にとっては間違いなく思い出したくない領主だったようだ。



歴史の徒花、と言うと言い過ぎかもしれないが、天正三年の一瞬だけ輝いてその他大勢にフェードアウトした凡人武将の奥平信昌。

著名な武将ばかりではなくこういう人物もまた確かにこの時代を生きている。

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