悪戯
オレンジ色。それも、押しつけがましく自己主張してくるせいで、目が痛くなるような。
それが僕の抱く、この場所に対するイメージだ。
「次はりんご飴にしようぜ」
「その前に焼きそばだろ」
浴衣姿でいつも以上にテンションの高い部員たちの背中を見ているうちに、思い出したくもない過去の夏まつりが甦り、小さく頭を振った。
クソ。全部、オレンジ色で目がチカチカするせいだ。
声には出さない不満をぶつけたくて、足元に落ちていた小石を力任せに踏み潰した。草履の裏に嫌な感触が残り、ますます気が滅入る。
俺の夏まつりは、苦い思い出ばかりだ。
保育園児だった頃、握っていたはずの母親の手からいつの間にか離れ、大声で泣き叫びながら猛ダッシュする憐れな迷子になった。
小学三年、大切に育てようと思って買った赤い金魚が、翌朝水槽の水面に浮かんでいた。
中学一年、おまつり用にもらったお小遣いをすべて落とし、一緒にいた友人にバカにされた。
そして極めつけが高校一年、去年のこと。人生で初めてできた彼女とのおまつりデート真っ最中に、突然フラれるという悲劇に襲われた。
我ながら泣きなくなるほど情けない過去の数々。これだけ嫌な思い出が揃えば、誰だって夏まつりが苦手になるってものだろう。
……まあ、去年のことは俺自身にも原因はあったのだけれど。
前カノのことはさておき、そもそも暑いさなかにこんな田舎のどこに隠れていたのかと呆れるほどの人混みの中へ出かけること自体が、俺には理解できない。ベタベタする肌を感じるだけで気分が悪くなるのは、まさか俺だけなのか? 汗をかくのはサッカーだけにしておきたいところだってのに。
はあ。やっぱり来るんじゃなかったな。
そんな気持ちを込めてついたため息のおかげかどうかは定かではないけれど、トンと俺の背中を叩く奇特な誰かが現れた。
「あれれ? 楽しくないの、おまつり」
ついさっきまで前の集団で囲まれていた淡い紫色の浴衣がいつの間にか隣に並んでいて、俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
「いえ、ちょっと嫌なことを思い出していただけで……」
言い訳をしてから、しまった! と激しい後悔。
「あ、もしかして去年のこと?」
曇った表情がさらに傷口を抉ってくるということに気付いていないであろうこの人は、我が弱小サッカー部で唯一の、そして引退間近のマネージャー、ナツキ先輩だ。
来週に迫った夏の大会で敗退すれば、全二十四人の部員のうちマネージャーを含む三年生十人が引退を迎えることになる。残るのは俺たち二年生が八人、一年生が六人。
紅白戦ができなくなる寂しさもさることながら、マネージャーという役割のいわば男臭い部に咲く一輪の花のような存在がいなくなるのは、正直なところかなりのダメージだ。
「すっごく美人さんだったもんね。やっぱり、引きずっちゃうよね。ごめん」
俺がフラれた本当の原因も知らないで、この人は……。
何も言わない俺が深く傷ついているとでも思ったのか、マネージャーが慌てて「あ、でも!」と慰めの言葉をくれる。
「ショウタくんかっこいいから、すぐに新しい彼女できるって。前の子よりずっと美人の!」
力のこもったマネージャーのセリフに、「そうですかね」と苦笑いを浮かべて見せた。
本当は前カノも次の彼女も、美人かどうかなんてどうだっていい。
俺たちの間にふっと沈黙が入り込み、ふたりで少し俯いた。周囲の音がやけに遠くに聞こえる。なんだろう。苦しい。
酸素の薄さから逃れたい衝動に駆られ、思考は停止寸前だ。
「あの、俺――」
「マネージャー!」
前を歩いていた部長と副部長が小走りでやってきて、薄紫色の浴衣から伸びた細い手首を引いた。
「一緒に射的やろうぜ」
「マネージャーの好きなぬいぐるみ、取ってやるから」
ふたりに引っ張られていく後姿を見送りながら、ドクドクと激しく打ち始めた心臓に手を当てた。
俺は一体、何を口走ろうと……。
これもこの神社の悪戯なのだろうか。まったく、俺は夏まつりでどれだけ余計な不快感と緊張感を味わえばいいのだろう。
だいぶ落ち着いてきた鼓動を確かめて、露店が並ぶまっすぐな石畳の道を踏みしめながら歩く。
草履の鼻緒が痛い。
結局、何のために来たのだろう。
こっそりと人混みを抜け出そうとしたとき、「ショウタ!」と名前を呼ばれた。
「今、帰ろうとしたでしょ?」
女に間違われそうな可愛い顔で意地悪そうに笑っているのは、いわゆる幼馴染、もとい、腐れ縁のヒロキだ。
女顔だけあってそれなりにきれいな顔立ちをしているから、あと少し背が高かったら女子が放っておかないということもあり得たのかもしれないけれど、残念ながら現状ヒロキのポジションは弟止まり。ざまあみろ。
「一緒に帰るか?」
どうせ引き留められるのだからと、やけっぱちで誘ってみる。
「まさか。それより、抜け駆けはいけませんね、ショウタくん」
さっきよりもニヤついた笑顔を向けられて、さて何の話かと首を捻った。
「とぼけちゃって。マネージャーのことだよ。さっきふたりで話してたでしょ」
肘で腕をつつかれ、急に頬が熱を持った。
「バカ。違うって。あれは向こうから話しかけられて……」
「はい、はい。そういうことにしておいてやるよ。それより、みんなでヨーヨー釣りやるから行こう。お金がなくて帰ろうとしてたなら、また貸してやってもいいし?」
中一の頃の出来事を一生からかわれ続けるのかと思うと、友人は選ぶべきだとつくづく考えさせられる。
「おまえが財布落としても、俺は一円たりとも貸してやらないからな」
精いっぱいの反発も、きっと負け犬の遠吠えにしか聞こえない。
「僕はそんな間抜けじゃないからね」
満足気に笑ってから先を行くヒロキを追いかけている時点で、結局のところこいつには敵わないのだ。
「お待たせ」と言いながらヒロキが駆け寄った先には、同じ学年の八人全員がヨーヨーの浮いているケースを囲んでいて、そのうちの何人かが「ショウタもはやく!」と手招きをしている。
いかにも暑苦しそうな輪の中に入るのは気が引けたけれど、どうやらそれ以外の選択肢は用意されていないらしい。
「一番多く取れたやつの勝ちだからな」
そんな声が聞こえてきて、「仕方ないな」とこぼしながらも、自分の歩幅が大きくなっていることには気付いていないことにした。
四人ずつの二グループに分かれ、露店のおじちゃんからお金と交換でこよりを受け取る。白く細いこよりはかなり心もとないけれど、条件はみんな同じだ。
「よーい、ドン!」
ヒロキの掛け声で、ヨーヨーへと一斉に四本の手が伸びた。
俺が最初に狙いを定めたのは、薄紫色のヨーヨー。
他より少し小さく見えたこと、そしてなぜかそのひとつだけが広いスペースでプカプカと浮いていてどこか寂しそうに、いや、取りやすそうに見えたこと。
それが選んだ理由だ。決して、マネージャーの浴衣が頭をよぎったせいではない、と自分に強く言い聞かせる。
幸い、ヨーヨーから伸びた輪ゴムは水面ギリギリのところまで上がってきている。絶好のチャンス。勢い勇んでこよりを輪っかに引っ掛けると、先っぽについていた針金があっけなく水底へと沈んだ。
「サッカー以外は下手くそかよ」とからかう声が聞こえてきたけれど、いつものようにおどけて言い返す気は起きない。
「おっちゃん、もう一回」
ほとんど無意識のうちにそう言って、手が財布から小銭を取り出していた。
「あ、反則禁止。レッドカード」
ケラケラと笑うヒロキに「うるせー」と一言放ってから、「これは勝負のカウント外だから」とみんなに言い訳した。
そうしてこよりを破ること計三回、四本目のこよりでようやく薄紫色のヨーヨーは俺の手に収まった。
「よくやった!」
「さすが負けず嫌い!」
褒められているのか貶されているのか微妙な言葉とともに拍手を送られ、肩をすくめながら後ろに立つやつらに場所を譲った。
すぐさま開始された後半組の戦いをぼんやり眺めていると、突然右腕に鬱陶しさを感じ、思わず眉間に皺が寄る。
振り向くのも癪だから、顔は動かさずに視界だけをこっそり右へずらすと、案の定、俺の腕を抱きかかえるかのように体を密着させているレナの姿があった。
とりあえず、盛大なため息をついておく。これはもうお約束みたいなものだ。
けれどそんなことでめげるはずもないレナは、抱き着く力をさらに強めた。
「おまつりに来るなら、私を誘ってくれればよかったのに」
甘ったるい声とほのかな香水の匂いが鼻につく。
「部活のみんなで行くっていうから、仕方なく来たんだよ」
ヨーヨー釣りに勤しむ四人を眺めながらそう答えて、チラリと整った横顔を盗み見ようとわずかに首を動かすと、レナはとびきりの笑顔を俺に向けていた。
「でもこうやって会えたから、それだけでいいや。ショウタ、緑の浴衣がすごく似合うね」
ほんの少し、鼓動が乱れた。
同級生のレナは、一般的に見て可愛い部類だと思う。大人びて見えるくせにやけに愛らしい笑い方とか、制服でも今日みたいなカジュアルな私服でも分かるスタイルの良さとか、猫を被っているのか知らないけれど鈴が鳴るような声とか。
実際、サッカー部の中でもレナを狙っているやつは何人かいて、ほら、視線が痛い。
「ショウタが浴衣なら、私も浴衣を着てくればよかったな」
こいつが浴衣なんて着ていたら、さぞかしたくさんの男たちに振り向かれたのだろう。その隣に自分がいることを想像すると、俺だって悪い気はしない。誰もが羨むような女子と付き合うのはこの上ない優越感に浸れるはずで、高校生男子の夢といっても過言じゃないはずだから。
一年前、前カノと付き合うより先にレナから告白されていたら、確実にOKの返事をしていたのにな。
そんなことを考えながら、わずかに残る未練を断ち切るようにレナに抱き締められている右手を力任せに引き抜いた。
寂しそうに目を伏せたレナに、思わず声をかけたくなる。
けれどダメだ。もう同じ過ちは繰り返さない。
ヨーヨー釣り大会の結果を見届けることなくその場を後にしようとレナに背を向けたそのとき、数メートル先で立ち尽くしているマネージャーと目が合った。
賑やかな夏まつりに相応しくない冷めた表情からは、マネージャーにしては珍しく感情が読み取れない。
視線が重なっていたのは、たぶんほんの数秒のこと。我に返ったマネージャーは、踵を返して駆け出した。
一体、何だったんだ?
石でも飲み込んだみたいに、胸と胃のあたりが重苦しい。気になりつつもゆっくりと歩き出すと、通りすがりの三年生の会話が耳に届いた。
「全学年参加の浴衣で夏まつりって、マネージャーの発案なんだろ?」
「らしいな。今までこんなことなかったけど、いい思い出作りになったよ。さすがマネージャー」
足が止まる。
もしかしたら――。
いや、そんなはずはない。
そんなはずはないけど、それでも一年前のやりとりが何度も頭の中を駆け巡る。
気が付くと、俺の体はマネージャーを追いかけていた。
人混みが邪魔だ。
マネージャーに追いつけないかもしれないという焦燥感と着慣れない浴衣のせいで、足が上手く動かない。
それでも必死に、人の隙間を縫って走った。
遠くに見え隠れするマネージャーの背中を見ながら、一年前の前カノの言葉が脳裏をよぎる。
『ごめんね、今日でお別れしよう』
*********
前カノのカオリが告白してきたのは、夏の足音が近づき始めた五月のことだった。
正直に言えば、高校に入ってから告白されたのはそれが初めてではない。それでも誰とも付き合うことがなかったのは、なんとなく気が乗らなかったから、なんだと思う。告白してくる女子はに心が揺れなかったし、男なんてみんな同性同士で騒いでいた方が楽しいと思っていると信じていた。
それが勘違いだと悟ったのは、周囲の友人たちに次々と彼女ができていることを知った五月中旬。
俺は突然焦りだした。もしかしたら裏切られた気分を勝手に抱いていたかもしれない。
とにかくそんなタイミングで付き合ってほしいと言ってきたカオリは、レナほどではないけれどそこそこの美人で、当時の俺には断る理由が見つからなかった。
決してカオリだけが特別に感じた訳でも、いよいよ心揺さぶられる相手に出会えたと思えた訳でもなかった。失礼な話だけれど。
今思えば、付き合い始めてから突然フラれるまでのわずかな期間で、恋人らしいことをした記憶はひとつもない。だから、たぶん夏まつりが初めてのちゃんとしたデートだったのだ。
部活を言い訳にして週末はほとんど会おうとせず、平日も部活が終わるのをひとり待ってくれたカオリを教室まで迎えに行き、駅までの道のりを並んで歩く。その程度しか、ふたり一緒の時間を過ごしてあげなかったのに、俺の前のカオリはいつだって幸せそうに笑っていた。
そして訪れた一年前の今日。
待ち合わせ場所に着くと、そこにはすでに浴衣姿のカオリがいた。紺色の落ち着いた浴衣を纏ったカオリは、それまで見てきたどの表情よりも生き生きとしていて、ほんのりと上気した頬がどれだけその日を楽しみにしてきたのかを雄弁に語っていた。
照れくさくなって、周りを見渡した。浴衣姿の男女が肩を並べている様子が目に入り、俺も浴衣で来るべきだったか、と考えたのも一瞬。すぐに面倒くささが打ち勝って、動きやすい私服で正解だったとひとり心の中で頷いた。
「行こうか」とだけ声をかけて向かった神社の境内は、今日と同じように人で溢れかえっていた。会話の糸口を見つけられないまま無言で本殿へと近づいていく途中、カオリの手が俺の手に触れた気がした。
記憶が曖昧なのは、そのタイミングで誰かとぶつかって石段でよろけるマネージャーの姿が目に飛び込んできたから。
体が勝手に動いていた。
きっと俺が駆け寄らなくてもマネージャーは転んだりしなかったのだと思う。それでも、掴まれた右手首を目を丸くして見つめた後ではにかんだように笑うマネージャーを見たら、自分は今ここでマネージャーを助けるためにまつりに来たような気さえした。
「ジーンズにスニーカーなんて身軽な格好でも転ぶなんて、私には絶対に浴衣でおまつりは無理だなあ」
おどけたようにそう言ったマネージャーの視線は、少し離れた場所からこちらを見ているカオリに向けられていた。視線が合わないことが妙に悔しくて、どうしてもこっちを向かせたくて。
「俺はマネージャーの浴衣姿、見てみたいです。そのときは俺も浴衣で来るんで」
咄嗟に口をついて出た言葉があまりに思いがけないもので、顔どころか体中が熱を持つのが分かった。
俺、何言っちゃってるの。
時間が経つほど恥ずかしくなって慌てて弁明しようとしたけれど、ようやく目を合わせてくれたマネージャーが嬉しそうに笑ったから、俺は何も言わないことにした。
「あそこにいるの、彼女だよね。待たせちゃってごめん。もう大丈夫だから」
ひらひらと手を振って人混みへと消えていくマネージャーに後ろ髪を引かれつつも、カオリの元へ戻った。
「悪かったな」
自分でも珍しいと思うほど素直に謝った俺に、カオリは清々しい表情を見せた。
「なんか、分かっちゃった。ショウタが部活を大事にする理由。ごめんね、今日でお別れしよう」
あまりに突然すぎて何も言い返せない俺を残して、カオリは来た道を引き返していった。
ひとり取り残されたとき、妙な安堵感に包まれている自分がいることに気付いて、そしてその背景にある気持ちに初めて意識を向けて、自分に嫌気がさした。
まつりの翌日の部活は、俺にとって針の筵だった。どれだけ楽しいデートをしたかで張り合う部員たちからそっと距離を取り、俺を巻き込むなと険しいオーラを漂わせていたにもかかわらず、先輩のひとりが楽しそうに俺の肩を叩いた。
「ショウタはどうだったのよ、昨日の夜。あの可愛い彼女と」
期待と妬みが入り混じった視線を受け止めながら、俺は頭を掻いた。
「カオリとは別れました」
バカ正直に答えた俺の背後にマネージャーがいたことを知ったのは、「え?」と罪悪感に満ちた小さな声が聞こえてからのこと。
部活終わりに心底申し訳なさそうな顔で謝るマネージャーを宥めながらふたりで歩いた帰り道は、別れを切り出してくれたカオリに顔向けできないほど柔らかな光で満ちていた。
**********
「捕まえた」
一年前と同じように、右手首を握る。
「なんで逃げるんですか?」
問い詰めた俺に、マネージャーは気まずそうな顔を向けた。
「えっと……、追いかけられたから逃げたくなった、のかな」
しどろもどろのマネージャを、見逃す気はない。
「マネージャーが逃げたから追いかけたんですよ。まったく、逃げ足が速いんだから。浴衣でも全然転ばないじゃないですか」
目の前にある少しだけ驚いた表情の理由は、一年前の会話を連想させる言葉を口にしたからだろうか。そうであってくれ、と心の中で祈る。どうかマネージャーも、去年のことを特別な思い出だと感じていてくれ、と。
オレンジ色が眩しくて、上手く頭が働かない。また何かを口走りかけているのに、制御できない。
「でも、浴衣、似合ってます。来年はふたりきりで来たいです」
訥々と俺の口からこぼれ落ちる言葉に、マネージャーが息を呑んだ。
見つめ合ったまま、俺たち以外の時間が止まっているような錯覚に陥った。
けれどマネージャーがふっと小さく息を吐くと、わずかに空気が揺れ、あっという間にいつもの神社に戻ってしまう。
「そんなこと、簡単に言っちゃダメだよ? その気になったらどうするの」
寂しそうに笑う、その顔の理由が分からない。
「ショウタくんって、本当にモテるよね。ま、知ってたけど」
「なんでそんなこと、言うんですか?」
ふたりでまつりに来たいという願いを口にしてはいけなくて、さらにモテるだって?
湧き上がる怒りにも似た感情に任せたまま、俺の口はますます勝手に動く。
「俺は本心を言葉にしただけです。マネージャーとふたりで来たい。浴衣姿のマネージャーを独り占めしたい。それを口にすることも許されないんですか?」
マネージャーの視線が、地面へと落ちた。もしかして、泣いている……?
一瞬よぎった不安。
大きく息を吸って顔を上げたマネージャーの目が潤んでいて、不安が的中したことを知る。
「あ、あの。すみません……」
力なく謝ることしかできない俺は、なんて無様なのだろう。
マネージャーはゆっくりと首を振った。
「彼女ができてたなら、早く教えてくれればいいのに」
カノジョ?
投げかけられた言葉が飲み込めなくて、頭の中をカタカナが泳いでいく。
「さすがショウタくんだよね。またあんなに可愛い彼女ができちゃうなんてさ」
ああ、“彼女”。
――って、ちょっと待て。完全に誤解されているじゃないか。
「それ、勘違いです。俺、今は彼女いないっす」
彼女になってほしい人ならいるけど、という一文は、既のところで飲み込んだ。
「へ?」
マネージャーの顔から表情が消えた。けれど同時に、寂しさの影もどこかへ吹き飛び、そのことにほっと胸をなでおろす。
「だって、ショウタくんと腕組んで……」
「レナのことですよね? さっき、ヨーヨー釣りのところにいた。あれは勝手に纏わりつかれただけですから」
一歩、マネージャーとの距離を詰める。
「という訳で、今フリーな俺は、マネージャーとふたりで出かけたいって伝える権利はあるはずです」
もう一歩。
手を伸ばせばすぐに触れられそうな距離感に、心臓が嫌でも反応する。
見つめ合っていたのは何秒間のことだろう。唇を噛み締めたマネージャーが、静かに視線を外した。
「……キ」
喧騒に紛れた、か弱い声。俺の耳に届けてほしくて、「え?」と聞き返していた。
「だから……、ナツキ! 私の名前はマネージャーじゃなくて、ナツキって言うの!」
そんなことは、入部したての頃から知っている。
訝しげに眉を寄せた俺に、マネージャーの顔が真っ赤になった。そして再び俯く。
「私以外の女子はみんな名前呼びしてるのに、どうして私は名前で呼んでくれないの?」
消え入りそうでも、今度は確かに聞こえた。震える声が、俺の心に届いた。
――ああ、もう限界。
ふたりの間の距離をゼロまで縮め、俺は目の前の華奢な体を抱きしめた。
「ナツキ先輩」
これで勘違いだったら、ぶっ飛ばされるかな。ま、それでもいいや。それくらいされなきゃ、諦められないだろうから。
ぎこちなさを残したまま、少しずつ腕に力を込める。
けれど先輩は動こうとはしなかった。小さく、見逃してしまいそうなほど小さく、肩を震わせるだけ。
「ナツキ先輩」
もう一度名前を呼んだ。さっきよりはいくらか熱を含んで。俺の想いを乗せて。
「うん……」と先輩の声が聞こえた。普段よりも温かみを増しているように感じて、ますます胸が苦しくなる。
「俺、先輩のこと、好きです。本当はたぶん、サッカー部に入ったときから好きでした。でもガキすぎて自分でも全然分からなくて、先輩といると苦しくなる理由も、気が付くと先輩の姿を見つけてしまう理由も、考えないようにしてた」
胸にすっぽりと収まってる先輩が夢じゃないことを確かめたくて、言葉を止めた。意識しなくても体中の神経が腕に集中していく。そこにまだ先輩のぬくもりがあることに安堵して、俺は先輩の体を離した。
うっすらと潤んでいる、丸い瞳を見つめる。自分の姿が映り込んでいるのを見て、幸福感が沸き起こる。
「去年の夏まつりでカオリと別れて、ようやく俺は自分の気持ちに気付いたんです。このヨーヨーだって……」
右手に繋がれたままのヨーヨーを差し出すと、感動するぐらい先輩の浴衣と同じ色をしていた。
「先輩の浴衣が薄紫色だったから、もしかしたらこの色が好きなのかと思って。渡したいと思って。俺はいつも、先輩のことを考えていて。だから――」
鼻をくすぐるシャンプーの香り。
近づく熱。
ふわりと唇に触れる柔らかさ。
「……!」
今度は俺が動けなくなる番だった。
不思議とオレンジ色が柔らかく感じる。まるで明日を期待する夕陽みたいだ。そして彼女の浴衣は、夕焼けの中に咲くスミレのように愛らしい。
緑の浴衣の俺が、彼女の花を支える茎と葉になれればいいな。
柄にもなくロマンチックなことが頭をよぎったのも、きっとこの神社の悪戯のせいにちがいない。