0-8.そうして勝負は決着した
闘士武勲伝 第九章 十節
満たされぬ飢えより、満ち足りた虚しさを畏れよ
張りつめた糸のような緊張感だった。
私と師匠は互いに間合いを少しずつ詰め、今や手と手が触れようという距離まで近づいていた。
お互いに寸分の隙も無い。
先に一撃入れるか、それに対して後の先を取るか。
体力的にも限界が近い。
「師匠、闘士武勲伝は何章まで読みましたか」
「最後まで読みましたとも、お嬢様が早く読めと急かすものですから」
不思議な感覚だった。
これから僅かの隙を突こうとするこの空間、この時間、私は三年間で最も師匠と対話をしているような気持ちになっていた。
「最終章はいつ読んでも、舞台の感動が蘇って泣けます」
「いずれ見てみたいものですな、舞台の方も」
「師匠は何章が好みでしたか?」
師匠は少し思案すると、答えた。
「やはり八大魔人のくだりでしょうな、最後の連戦は手に汗握りました」
「私と同じですね」
なんだか、それだけのことでも嬉しくなってしまう。
そう、私は師匠に勝つことを考えて三年間鍛えてきたが、気付けば師匠を尊敬していたのだ。
父も母も、そして兄も私は好きだ。
だが、共に過ごした時間はそれほど多くはない。
公務に追われる父と母、そして兄もカーレン家の跡取りとして学ぶことが多く、家族は皆が留守にしがちだった。
そんな私と家族を繋ぐものでもあったのが、実は闘士武勲伝だったのだ。
そして、そんな繋がりを師匠とも持つことが出来た。
私は師匠を、もう一人の父――いや、祖父のように思っていたのだった。
「不思議なものですな」
「師匠にもそんな感情があるんですね」
師匠は私の軽口に苦笑した。
「最初はなんと跳ねっ返りの、じゃじゃ馬かと思ったものです」
「それは、言い返せません」
「それがどうです、手ほどきしてみたらば、実に素直な弟子でした」
多分に師匠の教え方が上手かったからだろう、と思う。
師匠はいつも私に考えさせた。
そして、考え無しの答えを戒めることはあっても、私が考えた末の答えを否定することは無かった。
そうやって私は、自分で考えることを教えて貰ったのだ。
「師匠、どうして私の師匠になってくれたのですか」
「世の為、人の為と申しますか……このまま世に解き放ってはいけないと思いましてな」
「はぐらかさないでください」
師匠は観念したように、こう零した。
「ひとつは、見どころがあると思うたからですな」
見どころ、と聞いても腑に落ちない。
思いあがった小娘に、どれほどの見どころがあったというのだろう。
「実際、七つそこそこの、ましてや女子があれだけ打たれ投げられてもまだ向かってくることには驚かされました」
「母に似て負けず嫌いなもので」
「負けず嫌い以上のものをお持ちですとも。気を取り戻された時に某を見て、睨み付けましたでしょう」
それは良く覚えている。
とにかく憎い相手でしかなかったからだ。
「完膚なきまで倒された相手をまだ睨める。これは中々出来ることではありませんて」
「そうでしょうか……」
「しかもその相手に学び、素直に教えられる。並みの者では出来ないことですとも」
師匠が手放しに私を褒めるなんて、なんだかこそばゆい気分だった。
「それもこれも、師匠に出会えたからこそです」
「嬉しいことを言ってくださる。師匠冥利に尽きますな」
そう語る師匠の顔は、本当に嬉しそうだった。
これで、ひとつの理由は分かった。
「ひとつ、と仰いましたが、もうひとつ理由があったんですか?」
「それは、お嬢様の成長を見届けてからですな」
「ならば、今から聞けるということですね」
師匠は答えなかった。
語るべきは拳で、ということだ。
まだまだ語り足りないし、もっとこの空間を共有していたかった。
だが、私はこの大きな壁を乗り越えなければならない。
師匠を倒すという思いから始まった師弟関係だったが、今思い浮かぶのは楽しかった記憶ばかりなことに気付く。
「では、いきましょうぞ」
「いつでも……!!」
勝負は、一瞬だった。
師匠の突き出された右拳。
それが私の顔を捉える刹那、今までにない感覚があった。
力の流れが分かったのだ。
師匠の右拳に、私の左腕が絡みつく。
まるでそこに来ることが決まっていたかのように、師匠の右手首を私の左手が掴んでいた。
引き込まれるように、師匠の体が前に流れる。
掴んだ左手で、師匠を引っ張ったのだ。
完全に体の崩れた師匠。
その顎に、まったく無駄のない形で私の右掌が吸い込まれていく。
最後の師匠の顔は、満たされたような笑顔だった。
「師匠っ……!!」
師匠の顎が打ち上げられ、次の瞬間、膝から崩れ落ちるように力が抜ける。
私は師匠を抱きかかえた。
三年で一尺近く伸びた身長は、今では師匠とそう変わらないくらいだ。
「掴みましたな」
焦点の合わない目で、師匠はうわごとのように呟いた。
「はい、掴みました」
「流石、お嬢様です」
終わったのだ。
特別な秘伝や、奥義の無い師匠の教え。
しかし最後の一合、私は確かに掴んでいた。
これが心技体から生まれる正しい力。
師匠の奥義だった。
だが、胸に去来したのは――意外にも寂しさだった。
「これで、伝えるべきことは全て伝えました」
「分かりましたから、少し休んでください」
私の右手に残る手ごたえは、師匠に伝えた威力を物語っている。
「嬉しいものですな、弟子にやられるというのは……」
「っ……弟子冥利に尽きます」
気を失った師匠は、丸一日目覚めることはなかった。