4-9.そうして泣いた
オル=ウェルク国で一般に飲まれる酒は、葡萄酒である。香り高く飲みやすい割に度数は高く、調子に乗って飲み過ぎれば手痛い反撃を受けることになる。
――『世界の酒を飲み歩く』より抜粋――
いつもの練習場に、今は円卓と色とりどりの料理、そして飲み物が並んでいる。
ハルが気合を入れて飾り付けてくれたおかげで、華やかな宴の様相となっていた。
「みなさん、一年お疲れさまでした!」
乾杯の音頭を取ったのはジュディス先生だ。仕事納めはもう少し先らしいが、大方の授業は終わったので気楽だという。
「お嬢様、今年は大変な年でしたな」
「いえ、師匠と再び稽古が出来て嬉しかったです」
と言っても学園に入る前まではずっと師匠と一緒だったので、あまり離れてもいなかったのだが。
「クロッサ……は、食べるのに夢中ね」
「ん」
ハルが呆れた様子で見つめる先には、一所懸命に食事をほおばるクロッサの姿があった。
「あの、クロッサ。貴女にも随分……」
「あほひひへ」
近づいてみたが、今は食べるのに集中したいようだった。彼女には、もうしばらく経ってから話しかけることにしよう。
それにしても、こんなに食べる方だとは知らなかった。皿の上の料理が見る間に消えていく。
「お前らも無くなる前に食った方がいいぞ。特にこれ、香草焼きっての? むちゃくちゃ美味いから」
セルバンも用意された食事に舌鼓をうっている。呑気というか、なんというか。
「あの、それ……作ったのワタシ」
「本当かよ!?」
おずおずとハルが手を上げる。私も思わず料理と彼女を二度見した。
「商人たるもの、扱う商品のことを良く知っておけって……それで香辛料の勉強がてら、料理もちょっとね」
「凄いな! 本当に美味い。もしかして他のもか?」
「そこの鍋物と、そっちのスープもそう」
口にしてみると、確かに美味しかった。ハルがここまで料理ができるなんて、普通の貴族の子女では考えられないことだ。
「ハールウェンさん、先生ところにお嫁に来ませんか!?」
「ジュディス先生?」
こちらにやって来たジュディス先生は、赤ら顔だった。葡萄酒の類は準備していなかったはずだが、明らかに酔っている。
「申し訳ございません、お嬢様」
師匠が気まずそうに歩み出る。その手には空になった酒瓶が握られていた。
「少しだけ、と、思ったのですが」
「師匠……」
「悪いようにはしませんから!」
「ちょっ……助けてミナ!」
ジュディス先生はハルに抱きついて離れない。酒癖が悪いとはこのことだ。
「ハル、わたしのために毎日スープを作って欲しい」
「クロッサまで!?」
クロッサは素面だが、表情があまり動かないので冗談も本気に聞こえる。
「あーもう、みんな落ち着いて!」
そうして楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。
◆ ◆ ◆
祭りの後の何とやら――少しの寂しさを紛らわすように、後片付けをしながらハルはおかしそうに笑った。
「ジュディス先生、すぐに寝ちゃったね」
「うん、あんな風になるとは思わなかった」
当の本人はというと、師匠とクロッサに担がれて行った。家まで送ってくれるとのことだ。
「ところで……その、ミナ」
「分かってる。ちゃんと、覚えているから」
おあつらえ向きの状況だった。言ってみれば当事者だけが残っていて、邪魔の入らない絶好の機会だ。
「他にごみは残ってないよな?」
セルバンが戻ってくる。私たちは腹を決めて、彼の方へ向き合った。
「「あ、あの!」」
震えた声が揃う。ハルもまた緊張しているのだと思うと、少しは気が楽になった。
「な、なんだよ? 二人揃って」
戸惑う様子のセルバン。私たちは各々が用意していた贈り物を取り出す。
「これを」
「受け取って欲しい」
心臓が跳ね上がり、喉がからからに乾く。
私が選んだのは、青の襟巻きだ。昨日寒そうにしていたし――何よりセルバンの青みがかった黒髪に似合うと思ったから。
「……ありがとう、二人とも」
この時期の贈り物が何を意味するのかを、彼が知らないはずは無い。
恐る恐るセルバンの顔色を伺う。だがその表情は、難しいものだった。
「だけど、俺には受け取る資格が無い」
ハルが息を呑む。
「ごめん」
それだけだった。セルバンはその一言と同時に、深く頭を下げた。
「どういう、ことですか」
資格が無い――セルバンはそう言った。
資格? 何をもって資格というのか。
「ねぇ、セルバン。もしかして昔のことを言っているんなら」
泣き出しそうな声のハルに、セルバンは首を横に振った。
「……俺は、俺のしてきたことを考えれば、こんなこと許されない」
「っ!」
「ハルっ!」
涙を一粒残して、ハルは出ていってしまった。
「セルバン、貴方は……っ」
「怖いんだよ」
いっそ殴ってやろうかと、握りしめた拳が下がる。
「俺は変わろうと思った。変われた部分もあると思う。けど、俺の性根はあれなんだよ」
それは初めて聞く懺悔だった。セルバンは今も、己の行いを忘れていないのだ。
「今はいいかもしれない。でもいつか、また自分以外に責任を求めて――俺はまた他人を傷付けるかもしれない」
「それは……そうならないために、貴方は変わろうとしたのでは!?」
幻滅、失望――どちらとも違う。これは、共感だ。
私は自分から逃げないと、二度と自分にだけは負けないと誓った。
けれど怖くないわけではない。今だって“本当は弱い私”を恐れている。
セルバンも同じだったのだ。だからこそ弱い私を引き留め――守ると言ってくれた彼が、こうして折れそうなのを見ていられない。
「でもそれでは、それではあんまりにも」
「俺が、まだ俺を許せてないんだ」
「だったらいつ許せるの!?」
気付けば私は、セルバンに詰め寄っていた。
「貴方の頑張りを一番見てきたのは誰? ハルじゃない!」
そう、ハルはセルバンが努力する様を誰よりも見ていた。だからこそセルバンが変わったことを実感して、彼を許して――そして惹かれたのだ。
「俺は……」
「闘士武勲伝 第五章 一節」
セルバンは、はっとしたように目を見開いた。
「……己の頭で考え、己の心に従う」
「貴方が私に言ってくれたこと、でしょう」
私は気付いた。セルバンの心は、きっとハルに向いているのだ。だけど彼女への負い目故に、それを認められなかったのだろう。
「俺は、馬鹿だな」
ぽつりとこぼした言葉は、錠前を開ける鍵のようだった。
「もう、何をすればいいか――何をすべきかは、分かりましたね?」
「……ああ」
力強く頷くと、セルバンは駆け出した。屋内運動場の扉が閉まり、後には私一人だけが残る。
「馬鹿は、私だ」
力なくしゃがみ込む。青い襟巻きは、結局渡せず仕舞いだ。
(あれ……?)
息がつまり、涙が溢れる。抑えようとしても、後から後から。熱い涙がとめどなく溢れた。
(そうか)
私は、セルバンを好きになっていた。あの日、彼から“守ってやる”と言われた時に。
はじめての失恋は、苦い味がした。
◆ ◆ ◆
あの日からハルとセルバンとは、何でもない風に接していた。あるいは意識的にあの話題を避けていたのかもしれない。
表面上だけかもしれないが、二人の様子は何も変わっていないように見えるし、私も驚くほど普通に話すことができている。
そうしてあの夜の出来事が、まるで夢だったのではないかと錯覚した頃――報せが届いた。
「成人の儀の三日後、婚姻を賭けた立ち合いを申し込む」
エンデからの文は、ざっくり言うとそんな内容が書いてあった。
「いよいよ、なのね」
ハルが私の肩に手を置く。その体温が、今は心強い。
「お嬢様!」
その時、運動場に師匠が飛び込んで来た。尋常ではない焦り様だ。
「どうされたんですか、師匠」
「失敬。しかし、まずい事になりましたぞ」
エンデとの立ち合いは、オル=ウェルク国王の御前で行われる――師匠はそう言った。
「本気、ということですね」
身体の芯が燃えるように熱くなる。
決戦を前に、私の闘志は燃え上がっていた。




