4-7.そうして揺れ動いた
十四翼の創造神は、右背の七翼で世界を創り、左背の七翼で生命を創った。
一方を立てれば、もう一方が立たぬ――かような天秤の上にしか生きられぬことこそ、我々の原罪であろう。
――ライアス・ブラウン『創世記批判』より抜粋――
息遣いの他には何も聞こえない、静かな夜が明ける。眩しいばかりの朝日に、クロッサは目を覚ました。
「また、負けた」
「よく言う」
最初から私を倒してしまうつもりだったら、こうはならなかった。事実、あれは負けだという瞬間が何度もある。
「クロッサ、その」
「言わなくていい」
クロッサは身体を起こすと、私の肩をぽんと叩く。
彼女との闘いは、私に力を取り戻した。あるいは、見失っていたものを見つけたのかもしれない。
いずれにせよ、私が私であることをクロッサは気付かせてくれたのだと思う。そして、私が何のために闘うのかということも。
「あの男のことは、私に任せて欲しい」
今なら何となく分かる。これまではエンデの怖さしか見えていなかったが、それを取っ払ってしまえば――隙はある。
あの男が突きつけた恐怖は、言いかえれば私自身の弱さでもあった。私はもう、自分にだけは絶対に負けない。
「ん、任せた」
本当は自分自身で決着をつけたいだろうに、クロッサは私に託してくれた。
「ただし、負けたら許さない」
「大丈夫、負けないから」
拳と拳を突き合わせる。少し痛かった。
陽光に目を細め、空を眺める。今日はよく晴れそうだ。
◆ ◆ ◆
打つ気だけで、相手の反応を引き出す。そんな芸当が出来るとは思っていなかった。
屋内運動場で、私はハルと向かい合っている。
「わっ」
ハルが顔面を庇う。しかし私は動いていない。
「……あれ?」
構えを解いたハルは、不思議そうに自分の手と私を見比べた。
「もう一度っ」
“打たれる”――そう思わされたハルは、またも受け手の動きを取る。
動きを取るということは、そこに有るか無しかの硬直が生じるということである。
「……なんで!?」
触る程度の拳を、彼女の腹に止める。顔を庇う動きによって生じた隙への攻撃だ。
「くっ」
ハルの拳が出た時には、すでに私の体は無い。
次々に、面前から面前へと拳を止める。
「どうですかなハル殿、感想は」
「もう全然! ワタシが動きたい方にミナがいるのに、ワタシの動きたいようには動けませんでした」
師匠に向かってハルは愚痴のようにこぼす。息を乱している彼女に対し、私は汗一つかいていない。
「お嬢様、ひとつ段階をのぼられましたな」
「はい、クロッサの――皆のおかげです」
視線をクロッサの方へ向ける。
彼女はセルバンを相手に対練を行っていた。
(速い、な)
セルバンの突き――ジュディス先生に散々仕込まれたそれは、クロッサの頬を掠る。
拳に隠れて蹴りの体勢に入った。クロッサはそれを踏み込んで出させない。
「ちっ」
セルバンの裏拳は、クロッサの頭上を通り抜けた。股関節の動きで腰を低く落としたのである。
身を沈めたところから、そのまま起き上がる動作が突きへと繋がる。流れるような動きだ。
「おわっ」
「!」
セルバンはたたらを踏みながらも、上体を反らして顎への突きを躱す。
(足元が甘い)
私が思うと同時に、クロッサは足を払った。綺麗に決まり、セルバンは尻もちをつく。
(あ、上手くなっている)
尻もちをつきながらも、セルバンは後方へ受け身を取って間合いを離していた。クロッサの追撃は届かない。
「あー……惜しい」
せっかく間合いを離したのに、体勢を整えるのが一歩遅れた。クロッサには遠い距離を一気に詰める歩法がある。
「ま、参った……」
眼前で拳を止められ、セルバンは白旗を揚げた。
「最後まで油断するでない!」
「すみませんっ!」
師匠の檄が飛ぶ。私に対するよりも、セルバンへの指導は心なしか厳しいように思える。
「でも、見違えるようになったと思わない?」
隣で同じように対練を眺めていたハルが、息をついて言う。
「うん、進歩していると思う」
「あの低いところからの反撃、先週までは避けられなかったのよ」
ハルの言葉がやけに熱っぽく感じる。
「もう一本!」
「ん、いくらでも」
再びセルバンはクロッサに掛かっていく。
「ほら、頑張りなさいよ!」
「おう!」
声援をおくり、彼を見つめるハルの目は――過去を感じさせないものだった。
「あの、ハル。ちょっと教えて欲しい」
「え、なに?」
視線が眩しい。まさか、そういうことなのだろうか。
いやでも、実際二人の間にはわだかまりがあったことは確かなわけで。
セルバンのしたことは、いくら彼が改心したといってもなくなることは無いわけで。
「ハルは、セルバンをずっと見ていたの?」
「ばっ……なっ……なんでそんな」
あっけにとられた。同時に、胸がちくりと痛む。
「どういうところが、その、そうなの?」
「それは……いや、ワタシは別にそんなんじゃないけどさ……」
歯切れの悪い質問に、歯切れの悪い回答。
「意外と、優しく笑うのよね」
長い耳を真っ赤にして、ハルは消え入るように言った。
喜ぶべきことなのか、そうではないのか。私には判断が付かない。
「クロッサ、交代を」
じっとしていられなくなった私は、クロッサと入れ替わりにセルバンの前に立った。
「久しぶりな感じだな」
「そう、ですね」
「ちょっとは強くなったって見せてやるよ」
気合を入れて構えを取るセルバン。対する私は自然体だが――少しぎこちない。
「行くぞっ!」
素早い踏み込みから、ニ発、三発とセルバンの突きが迫る。
(やっぱり良くなっている)
起こりの見えにくい、良い突きだった。威力も申し分ないだろう。
「こちらからも行きますよ」
一歩踏み込み、意識の上ではセルバンの腹を打ちに行く。
「なにっ!?」
来ると思ったものが来ない。その逆もまた然りである。
踏み込みに合わせて膝を出していたセルバンだったが、そこに私の姿は無い。
「あだっ」
軸足を払い、セルバンを転倒させる。あまりに綺麗に決まったからか、受け身も取れていなかった。
「不用意な膝蹴りでしたね」
「くそっ、上手く合わせたと思ったのにな」
手を差し伸べて、セルバンを立ち上がらせた――ところで、自然に手を握っていることに気付く。
急に気恥ずかしくなった私は、慌てて手を離した。
「悪い、汚れてたか?」
「……何でもありません」
セルバンは申し訳なさそうに、自分の手を服で拭う。
そんな何でもないような態度に、無性に腹が立った。これでは私ばかりが意識しているみたいではないか。
「もう一本、頼めるか?」
「え、ええ。どうぞ」
そうして何本か対練を行い、私は改めてセルバンの進歩を確認した。
同時に、自分の中に芽生えていた感情にも気付かされる。
(でも)
ハルの顔が頭にちらつく。経緯はどうであれ、あんな表情を見せられるとは思わなかった。
私はどうしたらいいのだろう? まさか、こんな悩みを抱えることになるとは思わなかった。
「最後、動きが固かった」
対練を終えた私に、クロッサが話し掛けてくる。やっぱり彼女の目は誤魔化せない。
セルバンに手ぬぐいを渡すハルが、視界にうつる。こうして眺めると、お似合いのように思えた。
ハルは美人だし、気が利くし、私より優しい。
そんな彼女のことが私は好きだし、ハルだって私のことを友達だと思ってくれている。
「セルバンが気になる?」
「……ちょっと、違う」
私自身は“どうしたい”のだろう。今までにあったどんなことよりも、この問いは難問に思えた。