0-4.そうして師弟は結ばれた
闘士武勲伝 第八章 一節
敗者を笑う者、敗者に泣く
その後、何度ハガード老人に投げられただろうか。
両頬が腫れ上がるくらいには、顔もぶたれた。
しばらく食欲が湧かないほどには、腹も打たれた。
私は気絶するまで向かって行き、そしてことごとく打ちのめされたのである。
「……おほうはま?」
「旦那様は公務に出かけられました」
目を覚ますと私は、自室の寝台に寝かされていた。
隣には側仕えのシンシアがいて、額の濡れ手ぬぐいを取り換えているところだった。
シンシアは両親以外で唯一、私を恐れない人間である。
身分の差はあるが、年の離れた姉のような存在だ。
「あつっ……」
「まだ起き上がらない方がよろしいかと」
身体を起こそうとすると、まるでばらばらになったかのように力が入らず、激しい痛みを生じた。
「はのほうひんは?」
「奥様と話されています」
「ほはあはまはほかへひにはっはほ?」
確か、明後日まで視察――と称した遠征で帰らない筈だった。
「ええ、お嬢様が気を失ってもう丸二日経っております」
「はふふふは!?」
生まれてこの方、そこまで眠ったことは無い。
あるとすればジェイル王子の記憶の中、素手で大王クラーケンを吊り上げた時くらいだろう。
三日三晩、洋上で大王クラーケンと格闘した後は、流石に二日ほど眠ったそうだ。
ちなみに舟も使っておらず、ジェイル王子は荒れ狂う海原に身一つで飛び込み、悪魔と恐れられた体長百尺に迫る大王クラーケンを討伐したのである。
彼の記憶を受け継いでいる身からしても、信じられない話である。
「どこまで覚えられているのですか?」
「……はへはへは」
「鏡を見ますか?」
「ひはふはい」
さっきから言葉を発しにくいのは、両頬が腫れ上がっているからだ。
「客人の用意していた特効薬が効いたようで、内臓や骨は問題ないそうですよ」
「ほうはは」
思い返す程に、悔しさがにじみ出てくる。
私の拳は当たらず、相手の掌だけが当たる。
力いっぱい打ち込んだかと思えば、そっくりそのまま跳ね返ってくる。
手も足も出ないのは、初めての経験だった。
「あら、起きたのね」
「ほはあはま」
ノックもそこそこに、部屋に入って来たのは母――ナイーダ・フィナ・カーレンだった。
ブロンドの癖毛を頭の後ろでまとめており、平均的な女性よりもずっと高い上背は、立っているだけでも威圧感を与えてくる。
そんな母は、そっくりだとよく言われる、青い猫目で私の顔を捉えるなり――
「面白い顔になったわね」
声を上げて笑った。
「はひはほほひほいほへふは」
「これが笑わずにいられる? とっくに私を追い越してしまった貴女が、ここまでコテンパンにされたのだから」
我が母ながらいい性格をしているものだ。
娘が喋るのに苦労する程顔をぶたれたら、普通の母親は怒り狂うだろう。
母娘の戯れにと組手をした時、顔に一手入れたことを未だに根に持っているのだろうか。
負けず嫌いにも程があるというものだ。
「ほうひふほうへん はひはっひょうひっへふ」
「敗者を笑う者、敗者に泣く」
母は「しまった」と言わんばかりに、口元に手をやった。
「そ、そんなに怖い顔で睨まないでちょうだい」
「お、目を覚ましましたか」
その時、母の後ろから現れたのは、ハガード老人である。
私は思わず、殺気を隠そうともせず睨み付けた。
「ほう、そこまでやられてまだ心が折れぬか」
「へっはひひゆふははい」
拳を握りしめ、今にも飛び掛からんばかりの私を見て、ハガード老人は相貌を崩した。
「いやぁ、見上げた根性よな。娘さんは良い武人になりましょうて」
「自慢の娘です。是非に鍛えなおしてください」
意気を外された私の前に、ハガード老人はよたよたと進み出た。
「不肖ながらこのハガード・ミズリジル。お嬢様の武術指南役を仰せつかりました」
そうして、実に美しい所作で頭を垂れたのだった。
「試し合いとはいえ、年頃の女子のお顔をひっぱたき失礼いたした」
頭を上げたハガード老人は、好々爺といった笑顔であった。
「三年もすれば、某の掌はお嬢様にかすりもしなくなるでしょうよ」
「……ほうへんははふ」
「何とでも」
私は痛む身体に鞭を打ち、寝台から降りて己の足で立って、ハガード老人と向き合った。
「はんへんほ、ほうひひほはははっへふははい」
三年後、今度は私が手も足も出ないほどに叩きのめしてやる。
それまでは、師弟関係も甘んじて受け入れよう。
「喜んでいたしましょうぞ」
「ほほひふほへはいひはふ、ひほう」
こうして私は、ハガード老人を師匠と仰ぎ、武術を学ぶことになったのである。
が、この師弟関係、三年間どころか私が王立学園に入学を許される十四歳になっても、継続されることになる。
それほどまでに師匠の教えは学び甲斐があるものだったし、また師匠も私に寄り添い、心技体を正しく育ててくれたのである。