4-2.そうして開かれた
屋内運動場への道を、私達は黙って歩いていた。息遣いの他には、まばらな落ち葉を踏む音だけが聞こえる。
ディングの目的、ルナス白書――いまだ分からないことや、その手掛かりにまつわる問題は目の前にある。
だがそれ以前に、私は闘う力を失ってしまっていた。
気合を入れ直して、基礎と基本を見直して、でも実際に立ち合えないのならば意味が無い。
「セルバンは、どうして強くなったんですか」
悩みのように出た言葉は、セルバンをうろたえさせた。
「強い? 俺が?」
「正直、見違えました。あのまま闘えばディングに勝っていたと思います」
それが分かったから、ディングは大人しく引いたのだ。
例えばあの場でセルバンを打ちのめして、私の感情を喚起するようなやり方もあったはずだ。
それをしなかったのは、セルバンに脅威を抱いたからだろう。
「強くなんかねぇよ。実際、叔父さんを前にしたら逃げ出したくなった」
「では何故」
セルバンはしばらく考えていたが、やがて静かに口を開いた。
「何が何でも、お前には指一本触れさせねえって。それだけが頭にあった」
確信したようにセルバンは続ける。
「あの時、叔父さんが一歩でも入って来たなら……俺の方が速く打てたと思うんだ」
勘違いかもしれねえけどな――と、セルバンはそう付け加えるが、私は驚いていた。
自分の心と技と体が一つになる。セルバンが体得しようとしているのは、まさにその感覚だ。
この短期間にそこまでの成長を見せたことは、感動的ですらある。
「嘘から出たまこと、かもしれませんね」
かつて私が冗談で言ったこと。それが真実味を帯びてきていた。
本当にセルバンは、私に勝つようになるのかもしれない。師匠の言ったように、ひとかどの武人になるのかもしれない。
「どういう意味だよ、それ」
「なんでもありません」
不断の努力が絶対的な条件だが――人は何かのきっかけで大きく伸びる。
絡んだ糸がほどけるように、ずれた歯車がはまるように、ほんの些細なことが思いもよらない成長になることだってあり得るのだ。
「セルバン」
先ほどははぐらかしてしまったが、これだけは真面目に伝えておきたかった。
「ありがとう、助けて貰いました」
「何だよ……調子狂うな」
冷たい風が吹く。耳まで熱くなった今の私には、かえって心地良かった。
◆ ◆ ◆
ルナス白書の写本を前に、私達は考えあぐねていた。
「ディングの目的はあやつとは違う、ですか」
師匠は難しい表情で顎髭を撫でている。クロッサも腕を組んで考え込んでいた。
「ミナスティリアさんは、もう目を通したんですか?」
「いいえ、まだです」
ジュディス先生の問いに答える。私としてもこれをどう扱えばいいものか、分からないでいたのだ。
「でもこれって、建国史をひっくり返すような内容なのよね?」
おずおずとハルが尋ねる。私はうなずいてみせた。
「ディングの言うことが正しければ、ですが」
「叔父さんは嘘は言っていない、と思う」
セルバンは断言に近い形で言った。歴史研究家を名乗る男が、ルナス白書について嘘をつくはずが無い――と。
「とにかく、まずは読んでみようと思うのですが……」
私は一同の顔を見回した。内容が内容だけに、一度知れば後戻りは出来ない。
これをきっかけに、何か大きな陰謀に巻き込まれることだってあるかもしれない。
そう考えると、おいそれと「一緒に読んで欲しい」だなんて言えなかった。
「先生は、できる限りのことをするつもりです」
ジュディス先生は力強く拳を胸に当てた。
「ワタシだって! 怖くないって言ったら、嘘だけど……だけどミナと一緒にいるから」
私の手を握るハル。あたたかな体温が伝わってくる。
「何を今更」
「ですな」
クロッサと師匠は、瞳に強い光を宿してうなずく。
「俺も覚悟は出来ている」
セルバンは言わずもがなだった。
「ありがとう、ございます」
感謝の言葉しか浮かばない。私はつくづく仲間に恵まれたと、そう実感した。
私の居場所は、ここだ。
「その前に、お嬢様」
師匠が真剣な面持ちで切り出す。
「どうしました、師匠」
「これは先に言っておくべきことと思いましてな」
重々しい口調は、師匠の師匠――大師匠についてだった。
「某の師は、当時のディガルシャ王の父――つまりはエンデの祖父にございます」
「ガルシャの技は、ディガルシャ国の王家に伝わっていたのですか?」
師匠は首を縦に振った。
「ディガルシャ王家秘伝の技として伝わっておりました」
「待ってください。ディガルシャ国の血筋は、辿っていけばジェイル王子に行き着くという話では」
ディングが語ったルナス白書の内容に従えば、そうなるはずだ。でなければエンデの描く筋書きは破綻する。
「師匠は昔、この武術は然るべき血筋――ジェイル王子の子孫に受け継ぐべき、オル=ウェルク王家に連なる武術だと仰ったはず」
師匠はそれも肯定した。
ディガルシャ王家がジェイル王子の血脈に根ざしていること、それがエンデの計画には必要である。
しかしそのディガルシャ王家――つまり大師匠自身が“ディガルシャ王家秘伝の武術”を“ジェイル王子の子孫に受け継ぐべき”と語った。
それはつまり、ディガルシャ王家にジェイル王子の血は入っていないことを示すのではないだろうか?
「ルナス白書の内容にも偽りがあると、そういうことなのですか」
禁忌を思わせる口振りで、師匠は居住まいを正す。
「いいえ、某の知る話がそのルナス白書の内容と繋がっておりましたら――エンデの考えることは至極筋の通ったものですな」
「っ……話が混乱してきました。もったいぶらずに教えてください」
つい語気が荒ぶる。師匠はなおも迷っていたようだが、ついに腹を括ったようだった。
「ディングが言ったことには、一つだけやつの想像が混じっておりました。“ジェイル王子の血族を王としてディガルシャ国は建国された”というくだりです」
師匠はそう言うと、懐からなめし革に包まれた一枚の紙片を取り出す。
「エンデは実の父、つまり現国王の兄を弑逆しました。これは限られた者しか知らぬ秘中の秘でございます」
衝撃的な告発に、空気が冷え込む。
「その直前、某に託されたものがこの紙片です。エンデの父とはいわば同門、師兄弟の関係にございましたからな」
そう語る師匠の目は、懐かしさに満ちていた。きっと良い修行相手であり、身分こそ違うが武術を通じた友だったのだろう。
「まさかルナス白書なるものがあるとは知らず、今日までこれが何であるかは分かりませんでした」
師匠は黙って頭を下げる。もっと早く気づいていれば、という謝意だろう。
「ですがここまでの話からするに、某の託されたこれこそが“核心の一頁”だと考えられます」
ディングがルナス白書の写本を私に託した理由も、何となく分かった。彼はディガルシャ王宮に現存していたものが、完全ではないと気付いたのだ。
「この紙片が、ルナス白書の意味合いを変えるということですか」
「はい、これの内容自体はエンデも知っております。しかし、証拠となる現物は某の手に渡った」
そうして師匠は言った。
「これを求めたあやつと闘い、痛み分けに倒れた。それが某のディガルシャ国軍退役の理由でございます」
謎に満ちたルナス白書と、持ち出された核心の一頁。
歴史の裏に隠された禁書を、私達はゆっくりと開いた。
『ルナス白書』
闘士の武勲は語り継がねばならない。
故にわたしの知り得る全てをここに記し、告白しよう。
これから語るは彼の闘士の物語と、それにまつわる真実である。




