4-1.そうして動揺した
闘士武勲伝 第五章 一節
己の頭で考え、己の心に従う
新学期も始まり、暑さも幾分かやわらいできた頃。私はいまだ霧の中にいる。
あの日から、私はおかしくなってしまった。
あれだけ打ち込んでいた武術に、正面から取り組むことが出来ない。誰を前にしてもあの男の顔がちらつき、身体が動かなくなってしまう。
(私は、強くなどなかった)
今までにない状態の自分と、どのように向き合えばいいのか。その術が私には分からない。
分からない中でもこうして毎朝走っているし、武術の鍛練だってやめていない。
「だりゃああっ!」
「甘い」
屋内運動場に着くと、師匠とセルバンが対練をしていた。少し前からセルバンへの指南は、正式な弟子に対するそれに変わっている。
師匠は対練の相手を出来るくらいまで回復していた。あの時は本当に死んでしまうような気がしただけに、ほっとする。
かなり鋭くなった突きをそれでもいなされ、セルバンは投げられる――が、すぐに立ち上がり果敢に向かっていく。
「おはよう、ミナ」
「おはよう」
ハルの姿を見つけ、隣に座り込む。
この頃、私は屋内運動場へ一番最後に到着していた。
「どのくらい……」
どのくらい、セルバンはああしているのか。聞こうとした言葉を飲み込む。
「どうだろう、ワタシが来たときにはもう始めてたよ」
ハルが部屋を出た時間から考えれば、半時以上はああやって対練を続けているのだろう。
「同じ手ばかりになっていますよ!」
「っす!」
ジュディス先生の喝がセルバンに飛ぶ。セルバンは前蹴りを繰り出したが、軸足を払われ尻餅をついた。
「考え無し」
「痛っ!」
クロッサがセルバンの頭を叩く。師匠と交代して、次は彼女が相手を務めるようだ。
少し前まで私がやっていたような対練。あの内容はまるで――
(続くわけがない)
もやもやした“何か”が、心の中で渦を巻く。
結局、学園の朝礼ぎりぎりまでセルバンは師匠とクロッサにしごかれていた。
予想に反して、毎日セルバンの頑張りは続いていた。朝はもちろんのこと、授業の合間も、昼も、おそらくは夜も。
師匠とクロッサによる対練の他に自主的な鍛練も含めると、一日のほぼ全ての時間を武術に捧げているのだろう。
何が彼をそこまで駆り立てるのか分からない。だが、またも私の心はざわついた。
(どうしてだろう)
気を落ち着け、武術の型を行う。力の通り、重心、確かめるように身体を動かしていく。
エンデの顔が脳裏に浮かぶ。手足から体温が引き、動きが止まった。
もう一度あの前に立ち、今度は余興ではなく“闘う”――それを考えると、呪いのように刻まれた恐怖を実感する。
今度こそ、言い訳の出来ないほどに敗れ去ったら? 私はどうなってしまうのだろうか。
◆ ◆ ◆
「エンデローグじゃない。俺が先約だからな」
その言葉は、まったく異質な動揺を私に与えた。セルバンは真っ直ぐな目でこちらを見ている。
底知れ無さを思い知らされたのは同じ。彼自身も、自分がエンデに敵わないことなんて重々承知しているはず。なのに迷いは無かった。
「ど、どういう意味ですか」
「『闘士武勲伝』にもあるだろ、己の頭で――」
すらすらと、続く一節が頭に浮かぶ。
「“己の頭で考え、己の心に従う”――第五章の一節ですね」
「それだ。俺は、俺に出来ることをする。そう決めたんだ」
セルバンは真剣な面持ちで言葉を続ける。
「次はこんな形じゃなく、ちゃんとお前から一本取る。それまでは――」
俺が守ってやる――今どき舞台俳優でも言わないような台詞は、しかし私の心を軽くした。
「……そういえば、私をミナと呼びましたね」
「わ、悪いか?」
私は黙って首を横に振った。
「他人から“守ってやる”なんて言われたのも初めてです」
不思議な感覚。でも、悪い気はしない。
セルバンは改めて自分の言葉を思い出したのか、赤面した。
「か、勘違いするなよ。俺の意地が許さないだけだ。俺は、お前に勝つために武術を始めたんだからな」
慌てて御託を並べる様子に、思わず吹き出す。
「まあ、期待していますよ」
「絶対思ってねえだろ!」
本当のところは、言ってやらない。
私は久しぶりに笑えた――そんな気がした。
◆ ◆ ◆
翌日から、私は気合を入れ直した。
屋内運動場へはセルバンと競うように一番乗りし、自分の動きを一から見直していく。
対練にはまだ取り組めないが、代わりに基礎と基本を徹底的に繰り返す。
自分の身体が思い通りに動かないことへの焦りはあるものの、追い立てられるような感覚は無かった。
「己の頭で考え、己の心に従う」
私が根本的に恐れているのは何だろう。
エンデは怖い相手だ。とはいえ、本当にそれだけだろうか。
迷いの中で、一筋の光を掴めそうで掴めない。
そんな時、あの男が再び現れた。
「いよう、お嬢様。ご機嫌いかがかな」
「ディング・サウラ……!」
屋内運動場へ向かう道すがら、またもディングは唐突に姿を見せる。まさに神出鬼没だ。
「武術をやめてしまうかと思ったが、頑張っているようだな」
「何の用ですか」
私の声はかすかに震えていた。
ディングを見ると、どうしてもあの日のことを思い出してしまう。
「そんな強がり、また泣いちまうんじゃないか?」
「くっ……!」
安い挑発で簡単に心を揺さぶられる。
「どれくらい戻ったか、試してやろうか」
両手を顎の辺りで構え、ディングが調子を取り始める。
一度は倒した相手だ。大丈夫、やれる。私は出来る。
「っ……!?」
動けない。足も、腕も、陶器のように固まってしまっていた。
「ほう、こいつは……」
構えを解くと、ディングは無造作に近付いてくる。思わず目をつぶりそうになった時――強烈な気配がした。
「何やってるんだよ」
「……嘘だろ?」
ディングの振り返った先には、セルバンがいた。一端の武術家と呼んでも差し支えなさそうな空気をまとっている。
「どんな魔法を使ったんだ、あのくそじじい」
舌打ち。ディングは動揺し、苛立っていた。
「何かされたのか?」
セルバンは私に向かって問い掛ける。私は何もされていないことを示す。
「そうさセルバン。俺は何もしちゃいない」
「じゃあ何が目的で来たんだ。言っておくが叔父さん。俺はもう二度と、前みたいに黙らされねぇからな」
ディングの気色ばんだ表情は一変していた。気圧されているのは、セルバンが変わったからだけではなさそうだ。
「おっぱじめようってのか? 実の叔父と」
「あんたがその気なら」
闘気が膨らんでいく。私もセルバンがこれほどまでに強くなっているとは思わなかった。
「ちっ、まるでお姫様と騎士だな」
ディングの気配が収まる。やれやれといった風に頭をかくと、ディングは懐に手を入れた。
「やらねぇよ。今日はこれを渡しに来たんだ」
そう言うと、ディングは私に向かって紙の束を投げてよこした。
「これは?」
「ルナス白書の写本。俺のお手製だぞ」
ルナス白書――ジェイル王子の従者が記したとされる書。その中にはオル=ウェルク建国の真実があるという。
「一体、何故これを」
「俺の目的は、王子様とは少し違う」
ディングはまるで意図の読めない目で私を見ている。
「お嬢様には強くいて貰わないと、俺の都合が悪いんだ」
「それとこのルナス白書、何の関係があるというのです」
大仰に両手を広げ、ディングは頭を振る。
「とにかく、読んでみてくれ」
ディングはそれだけ言い残すと、後ろ手に去っていった。




