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3-10.そうして敗北した

 ガルシャの技は、基本的には師匠と弟子による対練形式の相対稽古で伝えられる。

 もっとも基礎的な――いわゆる型は存在するものの、修行の大半を占めるのは実際の打ち合いなのである。

 そこで攻防一体の拳を学び、立ち関節や武器術を並行して修得していくとされる。

 しかしながらほぼ全ての技が口伝であり、また一般に門戸が開かれていないこともあって、識者の中にはガルシャの技を実態のない怪しげな術と考える者もいる。

 だが記録に残る数少ないガルシャの技の伝承者は、例外なくその強さを証明しており、ある意味では実戦に根差し続けてきた武術と言えるかもしれない。


――『幻の技を追い求めて』より抜粋――

 空を裂く音がした。遅れて、エンデの鼻から血が垂れる。師匠の裏拳打ちが命中したのだ。

 まだ状況を理解していない周囲から、悲鳴ともつかない歓声が上がる。


「油断召されたかな?」


 右手を掛け合わせた状態から、左手で相手の腕を押さえつけながらの右裏拳。もっとも基本的な動作だが、師匠のそれは私のものよりずっと“見えなかった”。


「ふうん」


 エンデは親指で鼻血を拭う。まじまじと己の血を眺めていたその表情が、次第に能面じみた雰囲気へと変貌していく。


「もう一度」

「応」


 静寂――それを破る破裂音。師匠の右こめかみ付近から血が飛ぶ。エンデの拳がかすったのである。


「これ、真剣?」


 会場の誰かが呟いた。途端、周囲の雰囲気が一変する。先ほどまでの享楽的な空気は消え失せ、一同は固唾を呑んで二人の立ち合いに視線を注いだ。


「当てたと思ったが、そうでなくてはな」

「むう……!」


 頬を伝って落ちる血は、今のところ目に入ってはいない。だが何かの拍子にそうなれば、圧倒的に師匠が不利だ。


「ふんっ!」

「はっ!」


 そこからは、私より遥か上の領域で繰り広げられる攻防だった。

 私も師匠とはこの形式の対練を繰り返してきたが、眼前の動きはまるで別物だ。

 上下、左右、虚実を織り交ぜた連撃を、受け、返し、外し、すり抜け、かすらせる。


 接触した右手首で相手の“起こり”を読み取りながら、頭の中では幾千の手を考え、目まぐるしく変化する手を打ち合っているのだ。

 まさしく目にも留まらぬ速さで、断続的に破裂音が会場に響く。


 出した手を受けられ、返し手を受け、反撃の手をまた受けられる。攻防一体の手同士がぶつかると、より疾く、より読み切った者が勝つ。


 しかし、ここにもう一つの要素が生じていた。


「ぜぇっ、ぜぇっ」

「ふっ……」


 息の荒い師匠に対して、エンデは余裕の表情を見せている。もう一つの要素とは、如何ともし難い体力差だった。


 本来、右手を掛け合わせた状態からはじまるこの形式は短期決戦である――が、同程度の技量を持つ者同士ではどちらも決定打を与えにくい。


 さらには手を掛け合わせていることで、間合いという概念が無くなる。互いに近い距離で絶え間なく拳を交錯させるのは、想像以上に体力を消耗するのだ。


「お師匠様、目がっ……」


 短い悲鳴を上げるハル。ここまでの攻防で、師匠の右目に血が入り込んでしまっていた。


「そろそろ、見物客も飽きてきたかな」

「っ……!」


 私は声を上げようとした。なのに、声が出ない。自分の身体が自分の物でなくなってしまったかのような感覚に、愕然とする。


「終わりだ」


 エンデは掛け合わせた状態から右手首を引っ掛けるように師匠の腕を掴むと、力任せに己の側へ引き込んだ。師匠の体勢が大きく流れ、同時にエンデは死角に入り込む。


 右目のことも、体力切れも、すべて計算づくだったかのような動き。

 そうしてエンデの決定的な一打が、師匠を捉えようとした刹那――


「合戦は計略」


 ねじ伏せられたのは、エンデの方だった。


「ぐあっ!」


 流れるような決め技。

 私はその一連の動きを目に焼き付けていた。


(――凄い)


 師匠は右腕を引き込まれる動きに合わせて相手の掴み手を外し、小柄を活かして腕をかい潜り、背後に回った。

 続いて肩を支点にエンデの頭を下げさせ、強烈な蹴り上げを叩き込み――さらには押し伏せながら後頭部へ膝を落とし、床へ顔面を打ち付けたのである。

 着地と同時に腕を極め、エンデは文字通り完封された状態になる。


 自身の不利な状況を逆手に取る、見事な計略だった。右目も、体力も、体格差も、エンデの決め打ちさえも読み切った最上の一手。


「決まっ……た?」


 セルバンは呆気にとられた様子で口にする。

 その時、私は気付いてしまった。


(師匠はここで“終わらせる”気だ)


 腕を極めた姿勢のまま、師匠はエンデの首へ体重をかけていく。腕が折れれば、喉が潰れる。

 止めなければと思う私と、そうでない私がせめぎ合う。が、足は一歩も動かない。

 師匠を怖いと思ったのは、初めてだった。私の前では見せなかった姿――本来のハガード・ミズリジルは、こうなのだろうか?


「お見事っ!!」


 会場中に響くような大声。いつの間にか私の背後にディングが立っていた。背中に冷たい感触――刃を押し当てられている。


「叔父さ……」


 気付いたセルバンを、ディングは目で黙らせた。甥に向ける殺気ではない。

 私に刃物を突き付けているとは思えない朗らかさで、ディングは会場に呼び掛けた。


「流石はハガード殿、当代一の達人らしい実戦の妙技でした。かように見応えある“演武”を披露してくださったお二人に、皆で拍手を贈ろうではありませんか!」


 ぱちぱち、と、誰かが拍手をしたのをきっかけに会場全体が揺れる。

 師匠は身体の力を抜くと、技を解いた。悔しさのにじみ出るような表情だ。


(人質にされたのだ、私は)


 背中から刃が引く。ディングは耳元で粘っこい声を出した。


「悪く思うなよ。これも台本だ」


 いざという時、最初からエンデはこうするつもりだったのだ。徹頭徹尾、私は利用されるだけの存在だったのである。


「お嬢様……申し訳ございませんでした」


 師匠は少しよたつきながら私たちの元へ戻ってきた。いくら体力を消耗しているからとはいえ、違和感がある。


「ふふ、老いてなお冴える技……といったところかな?」


 その背後で、エンデはまるで何事も無かったかのように立ち上がった。多少の傷はあるものの、まだまだ余力を残しているように見える。


「やはり、か」


 師匠は額に汗を浮かべていた。肩を支えると、脇腹に血がにじんでいることに気付く。


「師匠、これは……!」


 兇器――と、口にする前に師匠が制した。


「親指による貫手、でしょうな」


 師匠の顔は苦痛に歪んでいる。

 エンデは腕を引き込んで死角に入った際、こんな置き土産まで残していたのだった。


「あと少し若い頃だったなら、決められたかもしれないな」


 ごきごきと関節を鳴らし、エンデは自分の肉体を確かめる。完全に極まっていたと思われた肩や肘でさえも、平常通りのようだ。


「お嬢様も楽しんでいただけたかな」

「どこがっ……! 卑怯な手を使って、あれは師匠の勝ちだった」

「はっ、震えながら言うとは可愛らしい」


 私は腰が引け、足が竦んでいる自分に気付く。


「では聞くが、弱みを突かぬ戦争があるのかな?」


 エンデの台詞に、私は何も言い返せなかった。

 闘争心など欠片も湧いてこない。ただ一刻も早く、この男から逃れたくなるような――つまるところ、私はエンデに怯えていた。


「何にせよ、会場を盛り上げてくれて感謝する」


 わざとらしく一礼すると、エンデは背を向けて招待客の輪へ入っていく。

 終わってみれば、何もかもあの男にしてやられた。無力感に打ちひしがれていると、不意に師匠の身体から力が抜ける。


「師匠……師匠っ!?」

「ははは、少々……無理をし過ぎたようですな」


 ハルとセルバンも加わり、私たちは師匠を抱えて、逃げるように晩餐会場を後にした。


◆ ◆ ◆


 師匠の傷は、命を落とすようなものでは無かった。とはいえ治療を終えて眠る師匠を見ていると、不安に押し潰されそうになる。


「ご面倒を掛けましたな」

「あっ……」


 師匠が目を覚ました時、私は思わず涙をこぼした。我慢しようとしても、後からとめどなく涙が流れる。

 人前で泣くなんて、初めての経験だった。

 こんな弱い姿を見せたくない。そう思っても、ハルは静かに私の肩を抱いてくれたし、セルバンも声を掛けずにいてくれた。それに救われなかったと言えば、嘘になる。

 そして師匠は、何も言わず私が泣き止むのを待っていた。


「師匠、私は、その……」


 私のせいで――そう言いかけたのを、師匠は制止する。


「あそこへ至るまでに決め切れなんだ。全ては某の実力不足にございます」


 いっそ、お前のせいだと言ってくれれば良かったのに。だけど師匠はそう言わない。

 師匠は責任の所在を、決して自分以外に探そうとしないのだ。何という自分に対する厳しさだろう。

 一方の私は、あの男――エンデの顔を思い浮かべるだけで身体が震える。何か逃げられるような理由を探してしまう。師匠と違い、私はあまりにも自分に甘かった。


 ミナスティリアという人間の弱さと情けなさをこれでもかと思い知らされ、私は確かに敗北したのだった。

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