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3-2.そうして迷った

 ロサーラの花……オル=ウェルク国南部にのみ咲く、珍しい花。緑の月の季節、満月の夜に満開になり、次の新月までに枯れる。その花は香水の原料にもされている。花言葉は「幻」「惑い」「気位」。

 また、夢を見ていた。

 身動きも取れず、深く沼に沈んでいくような、重くまとわりつく夢。

 遠い夢の中で“私”は、失意にもがいていた。


「王の立場も分かる」


 私は、私室ではっきりと口に出す。

 海の向こうにあるというダホウ国には、言霊なる考え方が存在するそうだが、間違ってはいないように思えた。


「不敗将軍は名誉を守られるべき、真の武人だったはずだ」


 死力を尽くして立ち合い、そして手に掛けた不敗将軍。兄であるアリオン一世は、それを宣伝として最大限に活用した。

 もちろんそこには配下陣の入れ知恵もあったのだろうが、結果として彼の将軍の人格は歪曲され、貶められて伝わっている。

 今や不敗将軍の名誉は、地に落ちていると言えた。


「あの時、あの場所にかような不純物など無かったはずだ」


 不敗将軍と立ち合ったあの時、私は確かに解放されていた。一人の武人として、尊敬すべき武人と比べあった。

 だがそれも一時の夢だったかのごとく、今またしがらみに縛られている。

 味方の士気は高め、敵の戦意は挫く。兵法としては間違いなく王が正しい。しかし――


「今までは、言わずとも伝わったのだがな」


 王の、兄のことが分からなくなって、どれくらい経ってしまっただろう。

 言葉となった思いは、一層の寂しさを私に与えた。


『王子ジェイル、貴公には迷いがありますね』


 神託の巫女の言葉が、胸に蘇る。その通り、私は迷っていた。

 迷いを断ち切るため、私はしばし軍を離れることを許された。

 かつての大国ガンディールはその勢いを無くし、遠くない将来には滅ぼされるだろう。

 戦の時代から、政の時代へ――時流は変わりつつあった。

 そうして私は、生家のある土地で武術の修練に励んでいる。

 不敗将軍との闘いで掴んだ手応えを、自分なりに咀嚼し吸収しようとしていたのだ。

 そんなある夜、私は“彼女”と出会った。


◆ ◆ ◆


 月の美しい夜のこと。この季節は緑の月が見頃で、鍛練を終えた私は月見酒と洒落込んでいた。

 酒をたしなむようになったのも、この地へ帰ってきてからだ。

 これもひとつの逃避なのかもしれないが、美味い食事と美味い酒は、私に今まで知らなかった感動を教えてくれる。


「何者だ?」


 杯に酒を注ぎながら、私は背後に声を掛けた。間者か、それとも別の何かか。いずれにせよかなりの手練だろう。


「酒が入っているのか」


 くぐもった声。どうやら顔を布で覆い隠しているらしい。


「遠慮することはない、いつでも来い」

「……明日の夜だ」


 声の主は、静かな声音で告げた。そこには圧し殺すような怒りが感じられる。


「明晩、もう一度来る。その時は酒は無しだ」

「なら今晩は……」


 一席付き合ってはどうか、と、尋ねる前に気配は消えた。

 どこの誰かは知らぬが、面白い。私は不敗将軍との戦い以来、久しく感じていなかった高揚をおぼえた。


 次の夜。私が武術の型を行っていると、再び声を掛けられた。


「約束通り、酒は飲んでいないな」


 満月の翌日。月明かりに照らされた相手と向き合う。全身を外套に包み、顔は布を巻き付けて覆い隠していた。

 性別も、年齢も分からない。身長は五尺二寸といったところ、一見すると痩身である。


「名を聞いてもよいか」

「貴様に名乗る義理は無い」


 私は軽く腰を落として構えた。相手は棒立ちの自然体だ。


「いざ」


 躊躇いなく一歩踏み込み、右拳を突き出す。相手の素性が分からずとも、やることは変わらない。

 相手よりわずかでも速く、わずかでも強く当てるだけだ。


「むっ!?」


 拳がすり抜ける。影を突いたかのようだった。

 二の手、三の手と、続く連撃もまるで捉えられない。

 相手は舞うように私の攻撃を躱していた。


「そなたは幻術を使うのか?」

「……耄碌したか、ジェイル・アル・ウェルク。ならばもう一度突いてみよ」


 集中する。私は瞬の入身で肉薄すると、左拳の虚打ちから再び右拳を繰り出した。


(これはっ!)


 掴まれた感触すら伝わって来なかったはずが――意識する間もなく、手先から手首、肘、肩と連鎖的に関節を極められていた。


「ぬうっ」


 下から持ち上げられた後、間髪入れず押し下げられる。逃れようとする方向を塞ぐように、右へ左へ、上へ下へ、私は手先だけで相手に操られていた。


(この技、不敗将軍のっ!)


 否、それよりも洗練されている。手先――指の関節を取られるだけで、ここまで踊らされるとは。感動的な技の冴えである。


「ぐあっ!」


 受け身の取れない投げを打たれる。肺から空気が吐き出され、息が詰まった。


「終わりだ!」


 踏みつけの踵が顔面に迫る。瞬間、私は転がりながら軸足を刈った。


「なにっ」


 相手の体勢を崩しながら立ち上がる。確実に拳を打ち込めるところで、不意に拳が鈍った。


(素晴らしい技を持つ武人を、また手に掛けるのか?)


 気付けば宙を見上げていた。緑の月が見守るように私を見下ろしている。

 再度投げられた――そう気付くのに少しの時間を要した。


「貴様、どういうつもりだ」


 布の隙間からのぞく瞳は、屈辱にもだえている。月と重なるような目。その目に応えるだけの意志を、私は失っていた。


「殺せばいい」


 私は手足を投げ出して、ぽつりと言った。


「この……腑抜けめっ! 貴様のような情けない男に倒されたとあっては、あのお方も浮かばれぬわ!」

「やはり、不敗将軍と所縁ある者か」


 しまった、と、息を飲む音が聞こえる。


「と、とにかくっ! わたしは今の貴様を認めん」


 勝負は持ち越しだ――そう言い残すと、後には夜風だけが残った。どこか懐かしくもある、香しい花の匂いがする。


「何故、打てなかった」


 己の掌を見つめ、私は力無く呟いた。

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