幕間−クロサンドラ・ルカ・フィリス−
これは、誰にも見て貰えなかった少女の話。
おじいちゃんは冷たい王宮の中で、唯一わたしたち母娘に優しかった。
わたしの母は王宮において、ただ父上(ついぞ会うことは叶わなかったが)に囲われるだけの存在だった。
異国の、しかも旅芸人だった母は、本来なら側室にもなれない。生まれてきたわたしが、女だったからだ。
しかしわたしを男として扱うことで、母は一定の地位を得ていた。便宜上、わたしは第十四王子だったのだ。
もっともそれを知るのは、王族と一握りの人間だけだった。ひょっとするとおじいちゃんも、最後までわたしを男だと思っていたかもしれない。
そうした特例を黙認させていたのは、父上の力だった。父上の庇護下で、わたしたちは王宮においてまるで“いない者”のように扱われていた。
その中で、おじいちゃんだけは何かと面倒を見てくれた。思えば父上に命じられてのことだったかもしれないが、それでもわたしは嬉しかった。
一番歳の近い兄上(公の場でこう呼ぶことは許されなかったが)の対練を見るのは、わたしにとって数少ない楽しみだった。
がむしゃらに向かっていく兄上に対し、おじいちゃんの動きには一分の無駄も無い。
人間の動きはこうも洗練されるのかと、わたしは幼い心に強く感じていた。
「クロッサ、また見学しておったのか」
おじいちゃんはわたしの姿を見つけると、優しく頭を撫でてくれた。それが嬉しくって、わたしは対練の時間になるといつも訓練場を覗きに行った。
わたしが周りと違うことに気付いたのは、兄上が三本に一つはおじいちゃんを負かすようになった頃だ。
わたしには毎夜のように見る夢があった。夢の中のわたしはとんでもなく強い女の人で、とんでもなく強い男の人と闘っていた。
「クロッサ、お主どこでそれを覚えた」
何気なくやってみたわたしの動きを見て、おじいちゃんは驚いていた。
わたしが説明すると、少し難しい顔をした後で「クロッサは武才があるのう」と、褒めてくれた。
その日から、兄上の対練にはわたしも参加するようになった。
兄上はわたしに拳足が当たらないことに、苛立ちを隠そうとしなかった。それでも以前より、わたしに対する態度は幾分か柔らかくなった。
「クロッサは良い武人になるじゃろう」
おじいちゃんはそう言ってくれたが、武術を教えてくれることは一度も無かった。
兄上にしても、直接的に技を教えて貰ったことは無いという。意図的に教えようとしないでいるとさえ思えた。
「師匠は怖いのさ」
兄上がわたしに話し掛けることは、珍しかった。その当時でも見上げるほどの体躯だった兄上は、汗を拭いながら続ける。
「オレや、お前の才能を恐れている。何か教えようものなら、あっという間に自分を追い越してしまうとな」
そうなのだろうか。今はまるで敵わないおじいちゃんが、そんなことを考えているなんてわたしには思えなかった。
直接的にわたしに武術の指南をしたのは、兄上だった。といっても、おじいちゃんの居ない時に少しだけだったが。
兄上の教え方は厳しいものだったが、技を吸収していく喜びの方が勝った。
そうして武術を習得していくたびに、毎夜見る夢はよりはっきりと、鮮明に見えるようになっていった。
状況が一変したのは、父上が逝去した時だ。
跡を継いだのは第一王子だった。ただし宰相として実権を掌握したのは父上の弟――叔父上である。
まず叔父上が取り掛かったのは、父上が遺したものの清算だった。
第二以下の王子は辺境に飛ばされ、そうでない者は“病に倒れた”。
わたしの身分もすぐに剥奪され、第十四王子は“最初から存在しなかった”とされた。
おじいちゃんと最後に会うことも出来なかった。漏れ聞いた話によると、遠征中の負傷でそのまま退役となったらしい。ここにも何らかの政治的な力が働いたことは間違いない。
後ろ盾を失った中で、母はわたしを捨てることを選んだ。父上が見初めたその美貌で、母は叔父上の妾となったのだ。
母までが、わたしを“いない者”としたのだった。その日を境に、わたしは母を母と呼ぶのをやめた。
身寄りをなくしたわたしを拾ったのは、唯一王宮に残った王子である兄上だった。
「お前はオレの役に立つ人間だ」
すでに武人として名を広めつつあった兄上の弟子として、わたしは王宮に残ることを許された。わたしは兄上を師匠と呼ぶようになった。
わたしが夢に見る武術は特別なものらしく、実質は師匠がその技を余すところなく奪うために結んだ、建前上の師弟関係である。
それでもわたしは、居場所を与えてくれた師匠に感謝した。
夢の技をすべて会得した師匠は、わたしに旅に出るよう言いつけた。諸国を漫遊する劇団の一員として、各国の情勢を探れという。
早い話が、間者である。でも劇団の一員という身分は、存外わたしの性に合っていた。
『闘士武勲伝』をはじめて読んだのもこの頃だ。胸躍るような冒険の数々に、わたしはすっかりはまった。
おじいちゃんに弟子がいると聞いたのは、わたしが国元を離れてしばらくした頃のことだ。
公演で訪れるオル=ウェルク国には、めっぽう強い公爵令嬢がいるという。その公爵令嬢は、あのハガード・ミズリジルの弟子で、しかもわたしと同い年だなんて。
おじいちゃんがわたしには教えようとしなかった武術を、教えられた者がいる。加えて高い身分の出自で、何の苦労もなく王立学園に在籍している。
それらの事実は、わたしに敵愾心を抱かせるには十分だった。彼女はわたしが持っていないものを、全部持っているように思えた。
初めて会った時、すぐに彼女が強いことは分かった。むしろ弱くては困るのだが、少なくともその点は安心した。
あちらもわたしを意識しているのは明らかで、そこに奇妙な共感をおぼえた。
手を合わせると、全ての拳が雄弁だった。一日も欠かすことなく、彼女は鍛練している。彼女の強さは本物だった。
それに、彼女も夢を見るという。わたしは同士を得た気持ちになった。
そして――
「クロッサ!」
ハルはわたしの姿を見つけると、笑顔で手を振った。他人からそのような仕草を受けるのに馴れていないわたしは、小さく手を振り返す。
「クロッサさん、もう杖無しで歩けるようになったんですね!」
学園の教師であるジュディスも、わたしを気遣ってくれていた。
「……無理すんなよ」
セルバンはまだ言葉を選んでいる様子だが、彼もわたしと同じように他人と接することに馴れていないのだと分かると、親近感をおぼえるくらいだ。
この数週間、わたしは平日早朝の特別指導とやらに顔を出すようになっていた。
師匠とはあれから連絡がつかない。舞台にも穴を空けてしまったわたしは、しばらくは静養を兼ねて庭師の仕事に専念する形になっていた。
必然的に余る時間を、わたしはミナの修行に付き合うことで埋めていたのだ。
「ミナは?」
「ほら、お師匠様を迎えに」
わたしは「ああ」と、得心した。一度ナイーダ・フィナ・カーレンのもとへ報告に戻ったおじいちゃんが、再びこちらへやって来るのが今日だった。
「皆、揃っておるようですな」
「お待たせしました」
程なくしてミナと、おじいちゃんが連れ立って現れた。ミナはわたしに気付くとすぐに駆け寄って来て、
「良かった、歩けるまで回復したんだ」
と、わたしの両手を握って言った。
気恥ずかしくてまともに顔を見れなかったが、彼女が心からわたしの回復を喜んでくれているのは伝わってくる。
「クロッサ、どうしたの? まだどこか痛む?」
ミナが心配そうな声をあげて、わたしは気付いた。いつの間にか涙が頬を流れていたのだ。
「なんでもない」
距離を取って、涙を拭う。
(そうか)
ようやく分かった。わたしは、自分が居てもいい場所が欲しかったのだ。
わたしは、ちゃんとわたし自身を見てくれる人が欲しかったのだ。
それが分かった途端、見違えるように世界が彩りを持った。こんなに鮮やかな景色を、わたしは見えていなかったのだった。
(願わくば)
この色彩を、失わないように。
わたしは師匠――兄上と決別することを、密かに誓った。




