2-9.そうして最後に立っていた
闘士武勲伝 第九章 一節
持てる者と持たざる者、されど強さに貴賎無し
師匠の教えには、特別なものなど何もなかった。武術において特別なことなど無いのだ。
それを集約した言葉が心技体である。
(私は、私が積んできた日々を信じる)
原点に立ち返ると、力みが抜けたような気がした。視界が広くなり、クロサンドラのことが一層よく見える。
(来る)
起こりのない歩法。クロサンドラはまたも一瞬に距離を詰め、拳を繰り出していた。
クロサンドラの右拳に、左拳を合わせる。内側から相手の拳を外に弾き出しつつ、こちらの拳打を当てる攻防一体の交差法。
「ぶっ」
骨肉がぶつかる感触。私の左拳が顔面を捉えたのだ。クロサンドラがのけぞる。
(好機っ!)
体勢が崩れたクロサンドラの懐に入り込む。入身をするということは、短打を叩き込むということである。
「かはっ」
左脇腹に右拳をねじ込む。クロサンドラの身体がくの字に曲がった。確かな手応えは、十全に威力が伝わった証拠だ。
(私の勝――)
クロサンドラの目は死んでいなかった。打ち終わりの右腕に、クロサンドラの左手が絡みつく。
肉と筋がきしむ音が聞こえた。手首、肘、肩と連鎖的に関節を極められながら、右腕を捻じり上げられる。
「っぐぅう」
右腕を捻じり上げられた勢いで棒立ちになった私へ、クロサンドラの槍のような蹴りが突き刺さった。
掴まれたまま逃げ場もなく、浮き足立ったところへの痛烈な一撃。
「ぎっ」
膝から崩れ落ちた私の顔面に、さらに蹴りが飛ぶ。咄嗟に腕で庇ったものの、強い衝撃が首まで抜けた。
「っはぁ、はぁっ」
「っふー、ふーっ」
互いに片膝をついて、少し離れた距離で視線を交錯させる。どちらも闘志は燃え尽きていない。
クロサンドラは鼻血を出していた。もっとも負傷の程度でいえば、近接した際の右拳が相当に効いていると見える。腕で脇腹を庇っていた。
一方の私は、この一戦で右腕はもう使えないだろう。右足もおそらく腫れてきている。加えて二発の蹴りがかなり効いていた。
(五分と五分……いや、若干私が不利か)
とはいえ、クロサンドラも余裕があるようには見えない。次の一合で決着となるのは、間違いなさそうだった。
(時間は掛けられない)
下腹に力を込めて立ち上がる。クロサンドラも同時に立った。
純粋な闘志があるとすれば、こういうものだろう。クロサンドラの視線は矢のように私を射抜いていた。真っ直ぐに、私だけを見ている。
(本当に強い。嬉しくなるほどに)
私も、クロサンドラという武人を眼鏡無しに見ている。心の底から尊敬し、そして勝ちたいと思っている。
じりじりと、距離が詰まる。先に一撃入れるか、それとも後の先を取るか。
「はっ!」
クロサンドラが射程距離に入った瞬間、私は一歩踏み込んで左拳を突き出した。
(甘かった!)
軸になる右足が悲鳴を上げて、踏み込みが鈍る。
クロサンドラは悠々と私の左拳を避け、内に入りながら肘打ちを決めた。
「がっ」
左脇腹に鈍い衝撃。踏み込みが鈍ったことが、逆に功を奏した。本来の踏み込みに合わせられていたら、衝撃はこの比ではなかっただろう。
「かあっ!」
クロサンドラの左拳が顎に向かってくる。これを喰らえば、きっと立っていられない。右腕は上がらない。ならば――
「づあぁっ!」
自らの額で、必殺の左拳を迎え撃った。脳髄が痺れたようにくらくらする。
クロサンドラの表情が痛みに歪んだ。下手をすれば拳が砕けたか。
(これで倒れなかったら)
極限の集中。痛がる身体に鞭打ち、右脚を踏み込む。
(クロサンドラ、貴女の勝ちだっ!)
左脇腹への右肘打ち。ぼろぼろの右腕で打ったそれは、不完全だったかもしれない。
右肩に伝わる痛み。息づかい。熱を持ったように、身体中のあちこちが痛い。
「ぐはっ」
クロサンドラの膝が落ちる。私にすがりついてさえ、立ち上がることが出来ない。
「クロサンドラ」
「……クロッサでいい」
「なら私のことはミナ、と」
「ミナ……貴女の、勝ち」
そうして最後に立っていたのは、私だった。
◆ ◆ ◆
火照った身体に、風が心地良かった。本当ならすぐにでも医務室へ行くべきなのだろうが、勝負の余韻がそれを留まらせた。
「クロッサは、どうして武術を?」
二人とも精根尽き果てた風に、草むらへ身を投げ出している。
「……他に何もなかった」
「何も?」
「わたしに無いものを全部持っているミナには、分からない」
クロッサはそう言うと、背を向けてしまった。その背中はなぜだかとても小さくて、今にも壊れそうに見える。
「わたしも、夢を見る」
不意にクロッサが呟いた。
「夢の中でわたしは、武術の達人だった。それをこうして起きている時に真似したのが、始まり」
だからクロッサは、私の言葉を素直に受け入れたのか。するとクロッサは私と同じように、誰かの記憶を受け継いでいるのかもしれない。
「それは……」
不敗将軍だろうか。それともそこに連なる誰かだろうか。クロッサの動きがより洗練されていたことを考えると、後者のように思えた。
「凱旋後、ジェイル王子はある女と出会った。その女は、己が手に掛けた不敗将軍ファデル・デラ・ベルダーと同じ技を使ったという」
突然の声に振り返る。
誰の気配もしなかったはずのところに、いつの間にか男が立っていた。




