2-3.そうして掴んだ
オル=ウェルク建国記――その初版によると、山をも斬り裂く聖剣にわずかな刃こぼれが生じる程、不敗将軍の首は硬かったという。
しかし敵国の将をたたえるようなこの記述は、後世の版においては削除されている。
当時、いかに不敗将軍の雷名が轟いていたかを示す事例といえよう。
絶体絶命の窮地を切り抜け、アリオン一世のもとオル=ウェルクは文字通りの黄金時代を迎えつつあった。
周りを固める兵士たちも、ここが戦場であることを忘れているようだった。
息を飲むことすらはばかられる緊張感。
空気その物が固体化したかのような、重圧感と重圧感のぶつかり合い。
それは一流の武人同士が放つ闘気なのか、あるいは殺気なのか。
「しっ!!」
先に動いたのは私だった。最速の踏み込みで、最速の一手を放つ。
磨き上げた右拳は巨岩をも砕く。
「なっ」
私の右拳に伝わってきたのは、柔らかいものを叩いたような手ごたえの無さだった。
よく天日で干した寝台のごとく、不敗将軍の手は私の右拳をふんわりと捉えていた。
あり得ない――頭によぎった時にはもう遅い。
「ぐあっ」
右拳をねじり上げられ、勢いそのままに投げられる。投げられなければ、私の右腕は折れていただろう。
かろうじて頭部を庇うが、したたかに大地へ打ちつけられる。
「ふんっ!」
とどめの踏みつけを、地べたを転がりまわって回避した。地鳴りが耳の横をかすめる。
「なるほど、しぶとい男よ」
「ぬう……!」
膝を立てて体勢を起こす。投げを打たれた影響で、まだ呼吸が浅い。
私の目には、不敗将軍の姿が立ちのぼる炎のように歪んで見えた。
今のは何であろうか――渾身の右拳を綿に包まれるように掴まれ、関節を取られ、投げられた。
「柔らかな拳が、貴公の奥義か」
「回復の間は与えぬぞ」
不敗将軍が迫る。その巨躯がなお強大に見える殺気。
距離が縮んだと錯覚するほど速く、間合いを詰められた。
「ちぇいっ!」
起き上がりざま、後方へ宙返りしながら蹴りを放つ。
不敗将軍は寸の間合いでそれを避けた。
再び遠い間合いで対峙する。
「武器の間合いか」
私の問いを、不敗将軍は沈黙をもって肯定した。
いくらか呼吸は戻ったが、厄介なことに変わりは無い。私とは異なる術理で、不敗将軍はこの間合いを制することができる。
加えてあの柔の手――それらのからくりを見抜かねば、勝機は無い。
「時間をかけすぎたな」
不敗将軍が呟く。
時間をかけられないのは私も同じこと。
術理は違えど、距離は詰められる。ならばあの柔の拳、もう一度受けてみよう。
「いざ」
瞬の入り身で懐に入る。
あごを狙った左拳は、またも柔らかく捉えられた。
――逆らってはいけない。私は捉えられるがまま、脱力した。
「むっ!?」
不敗将軍の顔色が変わる。
先ほどの一合、わずかな身体の緊張によって、手先から肘、肩へと連鎖的に関節を極められた。ならば固まらず、流れに身を任せる。
(これは?)
不思議なことに、不敗将軍の手の内がよく見えた。ねじられる力の方向に逆らわず、むしろその力を利用する。
髪の毛一本ほどのわずかな隙、不敗将軍の技の切れ目に身を滑り込ませ――投げたのは私だった。
「ぐっ!」
今度は不敗将軍が地面に叩きつけられる。
確かな手応えを私は掴んでいた。
「天賦の才とは、こういうものをこそ言うのだろうな」
追撃も忘れて感触を確かめる私に向かい、不敗将軍は自嘲気味に言い捨てた。
状況はお互い五分。体力の消耗も激しく、何より時が迫っている。
まもなく追いつくであろう兄の軍勢が来るまでに、不敗将軍を討たねばならない。
「終わりにしよう」
「望むところよ」
双眸が交錯し、間合いを測る。
汗すらも止まる集中。
鳥が甲高い声で啼いた。
眼前には不敗将軍の拳。
そう、この感覚を“私”は知っている――!!
「取った!」
風が吹く。
内に入身、柔らかく捉えた右拳を捻り上げる。
手先、肘、肩と連鎖的に関節が極まる――寸前で、不敗将軍は流れのまま前方に身を宙返りさせた。
関節は極まらず、先の一合とは立場が逆になる。
「驕ったな!」
返す左の手刀が頸椎に飛ぶ。
その返し手も私には見えていた。
身をかがめて手刀を避ける。
距離は空けない。
すかさず踏み込み、左脇下に寸打を叩き込む。
「ぐはっ」
不敗将軍の息が漏れる。
甲冑の上からでも剣を鈍らせた寸打だ。直接ならば言うまでもない。
「せいっ!」
私はさらに踏み込み、十全に気を込めた致命の一打をねじ込んだ。
「ぐうぉっ!!」
勁が通る。不敗将軍がその膝をつく。
ありとあらゆる感覚が急激に色を取り戻し、私の身体からは滝のような汗が吹き出した。
「……見事なり」
私は無言で不敗将軍と視線を交える。
惜しい男だった。尊敬に値する武人であった。
こんな時代でなければ、互いに腕を高め合える良き好敵手になれたであろう。
「だがこの不敗将軍、ただでは死なぬ!」
不敗将軍は先に地面へと突き刺していた剣を掴み、振りかぶる。
しかしその剣に私を両断する力は、最早残されていなかった。
「ふっ……」
不敗将軍はその時、確かに笑った。
振り下ろされた剣を躱しざま背後に回り、不敗将軍の首に腕を絡ませる。
一息だった。首の骨をねじり壊され――不敗将軍は絶命した。
好敵手の亡骸を横たえ、そっと目を瞑らせる。
「不敗将軍ファデル・デラ・ベルダー、討ち取ったり!!」
私は高らかに叫んだ。
瞬間、敵軍に動揺が広がる。同時に鬨の声が聞こえた。兄の率いる自軍が追いついたのだ。
「者共、進めっ!!」
またたく間に戦場が混沌となる。しかし指揮官――それも絶対的な――を失った敵軍は、総崩れだった。
私は誓いを果たした。そこに充足感が無いと言えば、嘘になる。
だが心中に去来したのは、得も言われぬ孤独だった。
今年中に完結させるという強い意志をもって再開します。




