序幕−ミナスティリア・フィナ・カーレン−
闘士武勲伝 第一章 一節
いやしくも武人を志す者、見惚れられる技であれ
カーレン公爵家には、めっぽう強いご令嬢がいるという。なんでも素手の武術にかけては当代一と称される達人なのだとか。
この騎士の国オル=ウェルクに住む者なら、誰もが一度は聞いたことのある話だった。
「彼女と立ち合って勝利すれば、婚姻を認められるらしいじゃないか」
「へぇ、だったらわしらみたいな平民でも、貴族になれるかもしれないってのか?」
ところは王都アリオニアの広場。口々に噂する彼らは知らない。その公爵令嬢が、寝ても覚めても武術のことを考え、一日たりとも鍛練を休まない筋金入りの武人であることを。
「強い、強いと噂は聞くが、実際どれほどのものだかな」
男たちの会話に、割り込む者がいた。赤茶けた蓬髪を乱雑に後ろでまとめた、一目で旅の者と分かる男だ。
四十絡みくらいの中年だが、その眼光は鋭く、外套からのぞく腕は丸太のように太かった。
「あんたは、どこから来た人かな?」
「これは失敬。当方はフューラル国から参った者だ」
旅の男は居住まいを正すと、ヒューラル国風の所作で一礼した。
「フューラル国といえば、西方の国か。遠路はるばるご苦労でしたな。すると、遊牧の民かい?」
オル=ウェルク国から海を隔てた西の大陸にあるフューラル国は、国土のほとんどを高原と山岳地帯が占める。そこでは少数の部族がそれぞれ家畜を率いて、一年を通じて高原を移動しながら生活しているらしい。
一つ所に定住するオル=ウェルク国の人間からすれば、想像しにくい生活様式である。
「それが窮屈で家を飛び出し、武術家として諸国を周っておったのだ」
「なるほど、確かに腕が立ちそうだ」
「ところで、今日は何の催しなのかね?」
旅の男は、広間の方へ視線を向けた。人だかりが生じ、にわかに賑わいを見せている。
「いや何、今しがた噂をしていたカーレン家のご令嬢が、立ち合うというんだ。相手は辺境伯の三男坊といったか」
「ダグラス辺境伯の三男坊だよ。そこそこ名の通った武人らしい」
旅の男は、眉を上げた。
「ダグラス辺境伯の三男坊といえば、コーリング殿か。旅の途中でその武名は聞いたことがある。聞くところによると、素手で大木を引き抜くほどの怪力なのだとか」
「ははぁ、力自慢なわけだ。さしもの公爵令嬢様も、勝ち目なしかな」
そうして男たちは、馬鹿にするように笑った。
しかし、その表情は四半時後に凍りつくことになる。
一撃。
体重三十貫もあろうかという巨体のコーリングを、彼の者より遥かに小柄で軽いと見える公爵令嬢は一撃で倒してのけた。
広場はあまりの光景に静まり返り、声を発することの出来る者は居なかった――ただ一人を除いて。
「ミナスティリア・フィナ・カーレン殿!」
衆目が一人の男に集まる。
「当方はフューラル国がデメス氏族のナラウタと申す者。無礼は承知で申し入れる。当方と一手交えていただきたい!」
人混みをかき分け、ナラウタは公爵令嬢――ミナスティリアの前へ歩み出た。
「フューラル国デメス氏族、ナラウタ殿。その申し出、受けましょう」
ミナスティリアは、やんごとなき家柄らしい優雅な所作で頭を垂れた。だが視線だけは、油断無くナラウタに注がれている。
優美な栗色の髪は頭の後ろで三編みに結わえられ、猫を思わせる青い瞳はディガルシャ国の魔石のようだ。
いささか幼さの残る整った顔立ちには、気品という言葉がよく似合う。生まれ持った華があった。
(本物だ)
ナラウタは腹の底から沸き上がる歓喜に身を震わせた。
諸国を巡ること幾年月、ついぞ己を満足させる相手とは出会えなかった。それが今、目の前に居るのである。
(この者こそ、我が渇きを満たし得る相手だ)
二人は一間ほどの距離を挟んで向かい合った。
深く腰を落とした構えのナラウタに、対するミナスティリアは右足を半歩前に出した自然体。
広場に集まった誰もが息を飲む。
「参るっ!」
先に仕掛けたのはナラウタだった。上段を突くと見せての足払い。
低い姿勢から刈り取るように放たれたそれを、ミナスティリアは右足を軽く持ち上げて避けた。
(奥足を狙ったはず……間合いを外された!?)
続くナラウタの猛烈な連撃は、ミナスティリアにかすりもしなかった。突きは払われ、蹴りは逸らされ、掴みはすり抜ける。
息つく間もない拳足を、ミナスティリアはまるで来ることが分かっているかのように捌いてみせた。
「くうっ……ふんっ!」
渾身の突き。ナラウタの繰り出した立ち木をへし折る威力のそれを、ミナスティリアは一歩踏み込んで受けた。
二の腕の内側に強い痛みが走る。大きく外へ腕を弾き飛ばされ、ナラウタの顔面はがら空きになった。
「しまっ……」
気付けば、ナラウタは空を見上げていた。
抜けるような青空。己が仰向けに倒れていることを理解するまで、ナラウタの意識は完全に分断されていた。
「ぐっ……」
こめかみに鈍い痛み。ミナスティリアは突きを受けたその手を変化させ、ナラウタのこめかみを打ったのである。
「まだ、やりますか?」
ナラウタが身体を起こすと、ミナスティリアは悠然と言った。これ程までに圧倒しながら、一分の隙も無い目をしている。
「ふっ……はっはっはっ」
突然、声を上げて笑うナラウタ。
ひとしきり笑ったナラウタは、戸惑うミナスティリアに向かって頭を下げた。
「いや、当方の完敗にございます」
ナラウタは、己の中の渇きが満たされていることに気付いた。
間違いなく全力で立ち向かったが、それでも届かなかった。
(不思議と、悔しくは無い)
もしかすると、自分は誰かに敗れ去ることを望んでいたのだろうか。ナラウタは心地よい充足感をおぼえていた。
程なくして、周囲から歓声があがる。一流の武人同士の立ち合いは、見る者の心も熱くさせたのだ。
「ミナスティリア殿、貴女は何を目指される」
ナラウタの問いに、ミナスティリアは微笑みを浮かべて答えた。
「私が目指すのは、真の武人です」
ミナスティリア・フィナ・カーレン――後に大陸全土へ武名を轟かせる、“お嬢武人”である。