第4話 心の扉を開ける鍵(1)
[]は日本語、「」はハル語、『』は脳内共通語です。
「ムラサキ、呼びましたか?」
キャメル色の短髪に深紫色の人懐っこい瞳、背は高すぎもせず低すぎもせず、極めて平均的な体型の少年が声をかけた。
「ええ、トウキ。少し困っています。エリアEの例のあの子なんですが……」
「ミズキ・ヒュウガですね」
トウキは心得顔で頷いた。
「ええ、時間がないのです。今あの子に死なれては、捕獲した意味がなくなってしまいます。エリアEに連れて行けば、すぐにでも覚醒すると思っていたのですが……」
「揺さぶって、力の解放を促す訳ですね?」
トウキはにこやかに言った。
「お願いできますか?」
「やってみましょう」
トウキは頷いた。
「これは言うまでもないことでしょうが……」
背を向けて去ろうとしているトウキをムラサキが呼び止めた。深い紫色の瞳が振り向いてムラサキを見つめる。
「二度と失敗は許されませんよ」
トウキは、僅かに目を見開いてから苦笑した。
「失敗ですか、手厳しいな。ならば私ではないものを使えばいいでしょう?」
「あなたにしかその機能が付いていないのです。残念ながら……」
ムラサキは苦々しげに言った。
そして、その機能を付加できるものはこの船に乗っていない。否、今となっては、どこにもそんなものは存在しないのだ。トウキを、このトウキをナンディーに搭載させたのには訳があった。ある人間の為だ。その人間が必要とする時が来る、ムラサキがそう判断した。しかしその人間はここにはいない。いなくなったと言った方が正しいのだが。
「もしかして、私の機能を使って瑞樹を見つけたのですか?」
トウキは、目を細めてムラサキを見つめた。
「その機能だけを使うことも検討したのです。あなたを起動することには、色々と問題がありましたからね」
「それでも私は起動させられた訳ですか?」
「必要だと判断したからです」
ムラサキは無表情で答えた。
「心得ておきましょう」
トウキは言い残すと立ち去った。
* * *
瑞樹は何日も森の中を歩き回っていた。管理棟が見える範囲で行っては戻り、別の方角へ歩いてはまた戻った。何しろ小学生にさえ馬鹿にされるくらいの方向音痴なのだ。管理棟は高くて目立つので目印にしているが、欝蒼とした森の中に入ってしまえば、あっという間に見えなくなってしまう。
何日も何日もそれを繰り返したが、成果は全く上がらなかった。悪戯に疲労だけが積もって行く。ムラサキに言われたことを何度も反芻する。『私にしか分からない問題』それが何なのかさっぱり分からなかった。
ここの森の植物は少々変っていた。瑞樹の見慣れない植生で、実際に見たことはないが、どちらかというと温かい熱帯に見られるような大きな葉をつけたものが多いようだ。全般的に葉っぱが多く茂るタイプが多く、花や実がなる木が少ない。人が食料を得るために森を切り開いた様子がなく、それなのに、そこここに植物を維持管理する人々が、あの例の緑色の肌をした人達が、常に働いているのだった。
「管理棟」
緑色の肌をした人に瑞樹が話しかける。話しかけられた人は、無言で左の道を指した。瑞樹が最初に覚えたこの国の言葉は「管理棟」だった。管理棟に行きさえすれば、食べることにも寝ることにも困らなかった。
瑞樹は根っからの植物好きだ。子供の時から植物の気持ちがなんとなく分かる気がしていた。それは場所が変わっても、たとえ見たことないような植物であっても、変わりがない。それどころか、ここの植物は接触が増えれば増えるほど、はっきりと具体的に、その要求や植物の感じていることが理解できるようになっていると感じ始めていた。
森での問題は、緑色の肌の人たちの方だった。瑞樹が植物に接触することを快く思っていないようなのだ。食べられる実を採って食べる分には文句を言わないのだが、食べ終わった後の種を、日当たりの良さそうな場所に埋めようとしたら怒られた。
何を言っているのか分からないので、なんで怒られたのかは分からない。怒られていることだけが分かった。その他には、調子の悪そうな下草に水をやっても怒られたし、密集し過ぎていると思った葉っぱを間引いても怒られた。
歩道らしい場所にあった雑草のような草を抜いた時はひどかった、大声で怒鳴られて、肩を強かに叩かれて、「管理棟」という言葉を叫んで帰り道を指された。
恐らく管理棟に帰っていろという意味なんだろう。ムラサキさんといい、緑の人たちといい、ここの人たちの考えていることはサッパリ分からない。
管理棟の展望台らしいところから見えていた湖まで足を延ばしてみようと思いついたのは、その日の朝だった。最近、方向音痴の症状が軽減してきたからだ。というのも、一度通った道がなんとなくわかるので、戻ることには苦労しなくなってきていたのだ。
一度通ったところの植物は通らなかったところの植物と明らかに違う雰囲気を纏っていた。それはまるで、埃だらけの車のボディを指でつとなぞった時にできる指跡にも似て、瑞樹にははっきりと区別することができた。
[面白いねぇ、もう少ししたらあなたたちとお話ができる気がしてきたよ。何考えてるのかなんとなく分かるみたい]
クスクス笑いながら植物に話しかける。
そんな瑞樹をファームの民が時々もの珍しそうに見ては、ヒソヒソ話しながら通り過ぎてゆく。瑞樹にはそれがおかしくて仕方ない。
――ヒソヒソ話さなくたって、言葉が分からないのに。
[緑の人たちよりもあなたたちの話のほうが分かるって変だよね」
独り呟きながら歩きだした。
* * *
銀色の髪は肩に届くくらい伸びていた。髭も伸び放題だ。サングラスをかけているので眩しくはないが、光の下に行くと皮膚がすぐにチリチリして赤くなる。
カナメは光が落ちる夜間に行動することにしていた。
管理棟に行けば食事もできるし、コブとも話ができる。しかし、カナメはもう何日も管理棟に近づかないで暮らしていた。水は豊富にあるので渇き死ぬことはない、適当に木の実を食べれば飢え死にすることもなさそうだ。それなのに何日も水以外を口にしていなかった。食物を摂取することに心が抵抗する。問題はカナメの心にあった。
もちろん誰とも話す気にもなれない。このまま誰にも見つからずに死んでしまえば、もう再生されることもないだろう。そう考えてから苦く笑う。
――ここまで役立たずになれば、誰の前で死のうが再生されないか。望むところだ。
その日、光が落ちる少し前、その湖に行こうとしたのはほんの思いつきだった。今いるところにも飽きていたし、もう少しひらけた空間が見たくなった。ねぐらにしているテントをしょって湖に辿り着いた時、光はまだ落ちていなかった。
森を抜けて急に視界がひらけた時、湖に人影があるのに気がついた。
長い栗色の髪、小柄な女性。
カナメは凍りつく。
――ディモルフォセカ?
女は湖の浅瀬に立っている。ファームの民の服を着ているが、その肌は緑色ではない。
――まさか……
カナメが引っ張られるように前へ出ようとした時、背を向けたまま、その女が叫んだ。
[さっぱりわからない! 問題ってなんなんだぁー]
カナメは歩みを止めて、ぽかんと目を見張る。
――聞いたことがない言葉だ。さっぱり意味がわからない。
いつの間にか付いてきていたアレオーレが横で羽ばたいた。
アレオーレはサボテン種の植物だ。しかし歩き回ることができるし、薄い透明な翅を持っているので、飛ぶこともできる。随分昔、ハルで、ディモルフォセカが萎れかけていたアレオーレに力を使って動けるようになって以来、常にカナメに纏わりついていた。
『さっぱりわからない! 問題ってなんだぁー』
アレオーレは、嬉しそうに緑の葉っぱをクルクル振り回しながら飛びまわって騒いだ。アレオーレの言葉は、耳では聞こえない。頭の中で幽かに響く。
「おい、アレオーレ、今あの女はそう言ったのか?」
カナメの肩にちょこんと乗ると、頭のてっぺんに付いている蕾をぶんぶんと縦に振った。
「おまえ、あの女の言ってることが分かるのか?」
アレオーレは今度も肯定した。
「あいつ何者だ?」
黒い大きな瞳が、やけに目立つ顔立ちで、ディモルフォセカとは全く別人だとすぐに分かった。ただ、ディモルフォセカと同様に、光に耐性のある肌をしている。地下都市の暗闇で長年暮らしてきた一般人は、大半の者がその色素を失っていたが、アール・ダーの光の中で暮らしてきた森の民は、一般人に比べると深い色の肌を持っている。
その女は森の民に似ていた。森の民がこんなに早く再生される理由を、カナメは一つしか思いつけない。そうであるならば、こんな所で一人で自由に歩き回っているはずがないのだ。
カナメはしばらく木陰で様子を見ることにした。アレオーレはパタパタとせわしなく羽を動かしながら湖へ近づいて行った。
瑞樹は、シースルーの上着を脱ぎ捨てるとザブリと湖に飛び込んだ。そんなに暑くなかったが、風がないので寒くはない。何か生き物でもいないかと湖の中を探索する。
透明度の高い湖で、水面からも水底にゆらゆらと水草が揺らめいているのが見える。小さな魚の影が見えた。
[さかなー]
瑞樹は嬉しくなって、小さな魚を追いかけ回す。泳ぎは得意なのだ。正樹ちゃんに仕込まれた。皐月ちゃんはもっと上手に泳げる。人魚みたいに。
水の中から急浮上して湖面に顔を勢いよく出した。
――そう……だ、思い出した。私は正樹ちゃんと流星群を見ていた。そうしたら流れ星が自分に向って落ちてきたんだ。
瑞樹は愕然とする。
[私、やっぱり……死んでるんじゃないのかな]
寒くないのに鳥肌がたってくる。
瑞樹は岸に上がると、意気消沈して上着を羽織った。
[ここで石積みしなさいって言われた方がまだ話は簡単な気がするよ]
岸辺で膝を抱えて座り込む。涙が滲んでくる。
――どうしてこんな事になったんだろ。じいちゃん、私、死んでしまったのかな、そうなら迎えに来てくれたらいいのに。
泣き出しそうになるのをぐっと堪える。
『石積みしなさい』
頭の中で声がした。びっくりして顔を上げると、緑色の葉っぱに透明な翅を付けた虫みたいな生き物が、頭の上をぐるぐると飛び回っている。
『石積みしなさい』
『石積みしなさい』
何度も何度も繰り返す。
[あなた……何?]
誰かと聞くかどうか迷ったが、人ではなさそうだったのでこう訊いた。
『アレオーレ』
その虫は嬉しそうに返事をした。
『アレオーレ』
『アレオーレ』
何度も繰り返す。
[虫なの?]
瑞樹も嬉しくなって問いかける。
『植物!おまえ、失礼!』
『おまえ、失礼』
これも繰り返される。
――植物と話ができた?
瑞樹はどんどん嬉しくなって言い返す。
[おまえじゃないよ、瑞樹、だよ]
『瑞樹』
『瑞樹』
『瑞樹』
アレオーレが瑞樹の差し出した掌に停まった。
[よろしくね、アレオーレ]
『よろしくね』
『よろしくね』
何度も繰り返すので瑞樹は笑い出してしまった。アレオーレは人懐こい野良犬みたいに瑞樹の周りを纏わりついた。