第14話 光を求める指の先に
ハルが抜けた瑞樹はディモルフォセカでいる時間が増えた。以前よりも少し大人びた雰囲気のディモルフォセカは、カナメをきちんと認識した。
エリアEにいてコブやミントと穏やかに過ごす彼女は幸せそうに見える。
「カナメ、話があるんじゃが……」
久しぶりにエリアEにやってきたカナメにコブは心配そうに話しかけた。
「最近、瑞樹が変わってきたような気がするんじゃが……あれはあのままでいいんか?」
「どっちのこと?」
「ミズキ・ヒュウガの方じゃ。瑞樹のことはようは知らんのじゃけど、ディムも瑞樹も二人とも力を使う」
「どうして入れ替わっているとわかるんだい? 力を使うならディムなんだろ?」
「力の使い方が違う。ディモルフォセカのことならようわかっちょるつもりじゃ。あの子は純粋な森の民で植物にだけその力を使うことがでくる。ハルでは何度もこの目で見たきの。瑞樹は植物だけじゃねー、土や水や虫たちにまでその力を使う」
「まさか!」
「連れ込まんようにと気をつけちょった虫が何種類かおるんじゃが、やはり何匹か紛れちょってな、最近被害が増えて困っちょったんじゃ」
「瑞樹がその虫を駆除した?」
「そげなことならわしらでもしちょる。虫を害のない別の虫にしたんじゃ」
「それはいつの話?」
それをしたのはハルなのかもしれないとカナメは思いつく。
「さっきもしちょったぞ」
カナメは耳を疑った。ハルの力ならば、そんな不思議なこともできるだろうと思っていた。何億年となく様々な生き物を育んだ惑星だ。
ハルが瑞樹の体から飛び立ったあの日、アグニシティのエリアEに突如、草原が出現した。細く長い葉を持つその植物は丈夫で、たくさん光合成を行った。
「今はどっちなの?」
「瑞樹じゃろう? 今も虫を追いかけちょるからな」
叢をガサガサとかき分けている瑞樹を見てコブはため息をついた。
「ありがたいことじゃが、不安になる。ディモルフォセカと初めて会った時のごたる。わしは自分が別のものに変えられてしまうんじゃねーかとびくびくしちょった。今のわしはディモルフォセカがそげなことせんのはわかっちょるが……」
コブは言いにくそうに言葉をとぎらせた。
コブたちファームの民は森の民を恐れていた。自らの体内に葉緑体を持つファームの民は植物に近い存在だ。森の民は植物を操る。だから、ファームの民も操ることができるのではないかと恐れていたのだ。実際は、森の民が力を使えるのは植物のみで、ファームの民にその力は使えなかったのだけれど。でも瑞樹の場合は……虫に使えるのであれば、ファームの民のみならず、すべての生物にとっての脅威になるかもしれない。
「瑞樹? 君は瑞樹だよね」
瑞樹は虫を探す手を止めてカナメを見つめた。
深い翠色の瞳、短く切られた栗色の髪……カナメは地下都市ハデスの自分の部屋を思い出す。ディモルフォセカもこんな少年のような短い髪で僕の部屋に逃げ込んできたのだった。あの時のディモルフォセカに瑞樹はそっくりだ。
「地球の……カナメ」
ターコイズをあげてからカナメのことを地球の人と呼ぶようになってしまっていた。
「地球の人は君だよ」
カナメはクスリと笑った。瑞樹は無言のままちょっと首を傾げる。
「何をしているの?」
「虫とり、ほらこれ」
緑色の芋虫をカナメの目の前にぶら下げた。
「……それ、どうするの?」
カナメはざっと後ろに引いた。
「変える」
瑞樹は両手で虫を包み込むと目を閉じてぎゅっと握りしめた。幽かな光が指の間から漏れ出る。手を開くと赤みがかった細長い生き物がぐにゅぐにゅと蠢いていた。瑞樹はその生き物をそっと土の上に放す。
「こ、これは?」
カナメが後ずさりながら訊いた。
「この生き物は葉っぱを食べない。枯葉を食べて土を分解する。土が豊かになる」
瑞樹はにやりと笑った。カナメの様子を見て悪戯っぽく笑うと、まだ土の上でのたうっているその生き物を再びつまみあげるとカナメの目の前にぶら下げた。
「うわっ」とカナメは後ろに尻もちをついてしまう。
瑞樹は、あははと笑いながらその生き物を枯葉の下にそっと埋めた。
「ミントと同じだ。これが怖いんだ」
あははははは、と笑いながら、すたすたとどこかへ行ってしまった。
残されたカナメはため息をつく。
――あれは誰だ? まるで七変化だ。
人格の崩壊……カナメの脳裏に不安が広がる。
* * *
「ディモルフォセカ?」
ディモルフォセカになっている時を知らせるようにコブに頼んでおいたら、その日のうちに連絡があった。
「……カナメ」
躊躇いがちに伸ばしたカナメの手を、ディモルフォセカはふわりと両手で包みこんで自分の頬に当てて微笑んだ。ディモルフォセカは前にエリアEで会った時よりもずっとディモルフォセカらしくなっていた。
「何してるの」
カナメの問いかけにディモルフォセカは微笑んだ。
「カナメにまた会えて……本当に良かったって考えてた」
ディモルフォセカは弱く笑んだ。
「……僕も良かったと思ってるよ」
カナメも同じくらい小さく微笑む。
「瑞樹のお陰ね……でも瑞樹は今、苦しんでる」
ディモルフォセカは悲しそうに言った。
「……苦しんでる?」
カナメの問いにディモルフォセカは頷いた。
「ハルが抜けた後の空白を瑞樹と私とで分け合ったの。それで私は私の記憶を取り戻せたんだけど……」
ディモルフォセカは続けた。
「瑞樹は完全に自分を見失っている。自分が地球から来たことも、前の自分がどんなだったかも思い出せなくて、それで……」
「それで?」
「……あの子はハルに近づこうとしている」
「……」
「ハルはあの子を可愛がっていたから……あの子もハルを慕っていたから、ハルを恋しがっているうちにどんどんハルに近づいていってるの」
「虫を変化させたのを見たよ」
「あれは森の民ではないわ……もっと、ハルに近い存在になろうとしている。近づき過ぎれば、巨大な力に飲み込まれる……危険だわ、とても危険」
ディモルフォセカは辛そうにそう言った。
「止めさせないと……いけないんだね」
カナメはハルの言葉を思い出す。
『これはとても大事なことだ。チビを元に戻してやってくれ』
ハルのこの言葉は、瑞樹を地球に戻せと言っているのではないことをカナメは痛いほど実感していた。ハルのこの言葉を、ディモルフォセカも知っているのだろうか。
「ハルは瑞樹のこと何か言ってた?」
ディモルフォセカが訊ねた。
「……君は何も知らないの?」
「表に出ている人格が何をしているか、何をしていたかわからないの。そこの部分だけ記憶がないから……表に出ていない人格同士で意思疎通を図れていたのは瑞樹とハルだけなんだと思う。瑞樹はハルのやり方をよく知っているみたいだわ。植物たちを見ていると良く分かるの。私に瑞樹やハルの存在を教えてくれたのも植物たちだしね……」
ディモルフォセカはちょっぴり寂しそうに笑った。
「そう……なのか」
カナメは少しほっとした様子で言った。
「ねぇ、カナメ、植物たちのこのざわめきがあなたには聞こえる?」
ディモルフォセカはそっと目を閉じた。
「いや、聞こえないよ」
カナメは怪訝そうに否定した。
「あなたには聞こえないんだ。植物たちもハルを求めてる、探してる……瑞樹に同調して手を伸ばしてる。ハルは瑞樹のことなんて言ったの? このままでいいって言ってないよね?」
ディモルフォセカは悲しげにカナメと植物たちを見つめた。
植物たちもディモルフォセカに知られたくないのか、ただ単に知らないのか、ハルが言った事に関しては何も触れようとしない。
「……いや、特に何も……」
とても彼女には言えなかった。
瑞樹を元に戻して、その結果ディモルフォセカが消滅してしまうだろうとハルが言ったなんてどうして言える? やっと再会できたのに……カナメは唇を噛みしめる。
「大丈夫だよ。僕がなんとかするから」
カナメはディモルフォセカを抱きしめた。
ハル化する瑞樹の一日は大体こんな感じだ。人工ジタンが点灯されると共に起きだして、森を歩き回る。木の実を採り、種を植え、湖で泳ぎ、害虫を捕まえては変異させる。管理棟にはほとんど近寄らず、ほぼ自給自足状態だ。
時々心配して見に来るミントと会話をし、コブを見かけると逃げ隠れする。コブが始終あれは駄目、それはしてはいけないと注意しているうちにそうするようになってしまったらしい。そして人工ジタンが消灯されると森の中で眠る。
「ほとんど獣の生活だな」
カナメは一日付き合ってあきれ果てる。
――年頃の女の子がこんなことでいいんだろうか。
「いいわけないでしょ?」
ディモルフォセカになった瑞樹があきれて言う。
「びっくりするわよ。管理棟で眠っていたつもりが、いつのまにか薄暗い森の中で眠ってるの。瑞樹がいつのまにか交替して森に戻っちゃうの。建物の中よりも森の中の方がエネルギーが取り込みやすいのは私にも分かるんだけど……」
彼女は苦笑した。
「森からエネルギーを摂ったらエリアEの酸素供給量が落ちるんじゃないのか?」
「植物からエネルギーを摂ってるわけじゃないみたいね。私は良く分からないんだけど、空気中からでも地面からでもエネルギーを取り込んでいるみたい」
「君にもできるの?」
「残念ながら、私にはその方法がわからない。瑞樹みたいにハルと接してなかったから……」
カナメは次の日、嫌がる瑞樹をエリアEから連れ出した。エリアEを出ていれば、ハル化する為のエネルギーを取り込めないのかどうかを知りたかった。
「どこに行ってみたい?エリアE以外で行きたい所に連れて行ってあげるよ」
「別にどこにも行きたくないよ。エリアEにいたい。何でエリアE以外にいかなきゃなんないの?」
「君はナンディーに来てからほかの場所に行ったことがないだろ?案内してあげようかと思ってね」
「エリアGも医療センターも行ったことがあるよ」
「それ以外で行ったことない所があるだろ?火星が見えるエリアに行ってみる?」
カナメは忍耐強く誘う。
「火星って何?」
「太陽系の第四惑星だよ。今火星の軌道上にいるんだ。もう少しでアグニシティの真上を通過する時間だ」
なんで地球人に火星の説明をしなきゃならないかと思いながらもカナメは辛抱強く説明する。
「アグニシティ?」
「そう。見てみる?」
瑞樹が頷いたのでカナメはホッとしてエリアHに連れて行った。
医療センター後方の隅っこに外を見ることができる展望デッキが敷設されていた。眼下に赤い惑星が見える。瑞樹は長い間、展望デッキにある望遠鏡に張り付いて火星を見ていた。
「アグニシティは地下都市だから見ることはできないけど、離発着エリアには目印があるから見ればわかると思うよ」
それは大きな鳥が羽を広げているように描かれていた。
「あそこの上に船が降りるの?」
「船が着陸する時にはあの鳥の中心から扉が開くみたいに開口するんだ、そこから船ごと地下の離発着場に降りる」
「ふーん、地表に降りないの?」
「降りても構わないけどね。地表温度が低すぎるし大気もほとんどない。そのくせ稀に砂嵐が起きる。地表に降りるメリットが何もないんだ」
「ふーん、不便だね。ハルみたいに青い水の惑星を見つけたらいいのに」
瑞樹は不思議そうに呟いた。
「……そういうのもあるんだけど……ね」
カナメはたじろぐ。
青い水の惑星は古代ハルのイメージだ、瑞樹の中のその記憶はディモルフォセカのものなんだろうか、それともハルが瑞樹に植え付けたのだろうか。前者ならばディモルフォセカと瑞樹の境界が曖昧になっているのかもしれないと不安になるし、後者ならばハルの切ない気持が痛々しかった。
「地球とかいう惑星のこと?」
「ああ」
――地球とかいう惑星……。
カナメは愕然とする。瑞樹の中でハルは地球は一体どういう惑星として記憶されているのだろうか。不安になる。
「あの惑星ではミントたちファームの民は生きられないって聞いたよ。そんな惑星じゃ意味がないんじゃない?」
そんな惑星と言った瑞樹に胸が痛む。言わせているのは僕なのかもしれない、カナメは憂鬱になる。
「豊かな惑星だよ、地球は……水が豊かで、たくさんの生き物を育んでいる」
ハル人である自分が地球の弁護を地球人にしなければならない矛盾に違和感と混乱を感じながら、カナメは地球の説明を続けた。
「山は緑で覆われていて雨をろ過し浄水し貯水する、その水が川を作る。川は海につながっている。川や海には魚や様々な生き物がいて、風が吹いて、雨が降って、太陽が照らして、虹がかかる……」
説明しながらカナメは項垂れていく。
これはハルだ。僕たちの記憶の中に刻み付けられた美しかったころのハルの記憶。そして地球人である瑞樹がハルを懐かしみ、ハル人である僕が地球を弁護するこの捻じれた現実。戻さなくてはならない、ハルの言葉がカナメに重くのしかかる。
「ねぇ、アグニシティには何があるの?」
瑞樹の声にカナメはふと我に返った。
「え? 何って……こことほとんど同じだよ。エリアAからエリアHまでそろっている。ここよりは規模が大きいよ」
「エリアEもあるんだね?」
瑞樹の顔がぱっと輝く。
「ある……けど」
エリアEに拘る瑞樹に不安が募る。
「ね、連れて行ってよ。アグニシティへ」
瑞樹は瞳を輝かせてカナメを覗き込む。
アグニシティへ行きたがる瑞樹を説き伏せてエリアEに連れ戻した。ディモルフォセカを失う以外の方法で瑞樹を戻す糸口を見つけられないまま、カナメはラークスパーに呼び出された。
* * *
力が欲しいと思う。重いものを運び、すばやく走り、高く飛ぶ、あらゆることを理解できて、人の心を動かす、人を癒す、力、力、力……。でも、本当に必要なのは、昨日を受け入れ、今日前進し、明日をより良く拓いてゆける力……それだけなのかもしれない