第2話 宙翔ける船(1)
初めにあったのは、長い時間をかけてゆっくりと堆積した悲しみだった。
それは何千年、何万年も前に自らと共に凍結させられていた、いわば永久凍土のごとくうず高く堆積した悲しみだった。それは雪解け水のように密かに雫となり、やがて小さな一筋の道を造り、小さな川になり、みるみるうちに嵐の後の濁流のように心の中を侵食していった。
カナメは号泣する一歩手前で、目覚めた。
頭の中に浮かんだのは僅かに三つの言葉「ハル」「イブキ」「ディモルフォセカ」。目から涙が流れ落ちる。自分はその三つとも失ってしまった。
赤ん坊は何故、生まれ落ちてすぐ、あんなにも大声で泣くのか。その気持ちが分かるような気がする。失ったものの為に泣くのかもしれない。そうでなければ、失えなかったものの為に泣くのだ、この無限ループを彷徨う僕の魂のように。
カナメは気持ちを収束させることができなかった。
「脈拍、血圧、呼吸ともに乱れ始めました。鎮静剤投入します」
単調で正確な声がする。人が死ぬ直前だってこんな風に何一つ乱れることはないのだろうとカナメは遠ざかる意識の中で思う。
メインコンピューター・ナンディーは、目標を定めるや否や、千名の乗務員の覚醒を命じた。分子レベルまで分解されている人間を再生するのに、ハル標準時間で約一カ月程かかる。再生された体と心がインターフェースをとる為に、更に一週間必要だ。
その作業が終わるころには、宇宙船ナンディーは太陽系の一番端に到達する。
宇宙船ナンディーには、約一千万人もの人間が、その遺伝子情報のみで搭乗していた。薄暗い照明が灯ったその部屋には、機械が生み出す低いうなり声と、コツコツと響く数名の足音だけが聞こえる。
宇宙船ナンディー、再生者回復ルームの中に女が立っていた。年の頃は三十代前半、黒い髪を髷にして結ったスラリとした女だ。女は一人一人を確認するように、静かに再生者を覗き込んで歩いていた。その女に、カツカツという快活な足音で近寄った初老の男がいた。
「ムラサキ、良くない知らせだ」
ラークスパー教授は、その言葉とは裏腹に眉一つ動かさず、冷静そのものの表情でそう言った。
「何か?」
「NO.00153383の再生状態が良くない」
「カナメですね」
ムラサキと呼ばれたその女性は、少し憂いを含んだ表情で答えた。
「そうだ。確か君のお気に入りではなかったかな?」
ラークスパーの表情には何の色も覗えない。からかっている訳でも、同情している訳でもなさそうだった。
「使える人間ですよ。再生状態が良くないとは、具体的にどのような?」
この二人に共通しているものがあるとしたら、表情が薄いという点だろう。ムラサキは無表情に聞き返した。
「人間とは複雑な生き物だよ。いやはや、私の手には負えそうにない。どんなに優遇しようと道を踏み外す、かと言って冷遇しても踏み外す。だからと言って、彼を諦めるのはかなりな痛手だ」
ラークスパーは肩を竦めた。表情の乏しい顔に僅かに薄笑いの色が浮かぶ。
「カナメを私に任せてはもらえませんか?」
ムラサキは思案顔で言った。
「実はそれを頼みに来たのだ。任せて構わないかね?」
「承知しました」
* * *
瑞樹は光の中を上昇していた。
――暑い、熱い! 熱い!
瑞樹を包む空気は、一瞬にして炎そのものになったかのようだった。髪が焦げる匂い。熱くて息が出来ない。
『死んでしまう!』
血が粟立つような恐怖。声にならない悲鳴。そして意識は遠のいて行った。
瑞樹は何かの液体の中にいた。体中に纏わりつくトロリとしたコロイド状の液体。意識はぼんやりとあったが、何も思い浮かばない。自分がどこにいるのか、何をしているのか。
ただ、焼け爛れた皮膚に纏わりつく液体が心地よく、息も苦しくない。
――液体の中に頭の先まで浸かっているのに、どうして苦しくないんだろう。
まるで空気を吸い込んでいるように、穏やかに液体の中で呼吸する。
――考えなくちゃ……。
しかし思考はまとまらず、唯々薄ぼんやりした、不幸ではない幸福の中に漂っていた。
時々明かりがついて、誰かが瑞樹を覗き込んでいるのが分かる。何をしゃべっているのかは、全く分からない。ただの音、ただの音節。全く知らない外国語のように頭の上を素通りして行く。
――ここは、ひどく風変わりな病院なのかもしれない……。