第12話 ハル
ソーマの白い種は厳重に管理されている。
何故なら、ソーマの白い種は、森の民タイプオリジンと同様に再生できないからだ。再生した直後から光りながら崩壊してしまう。黒い種が森の民から力を吸い取る以外の方法で白い種は生成できない。
結果、非常に貴重なその種を政府は特別厳重に管理することになる。定期的に個数を確認し、使用する時はたくさんの書類にサインをした後、鍵のかかった小部屋から取り出される。しかし黒い種はそれほど厳重には管理されていなかった。
「絶対にその辺に落としたりしないでくださいよ。特に森の民が復活している時には気を付けるようにお願いします」
管理部の人に念押しされたくらいで、ニシキギは比較的簡単にソーマの黒い種を手に入れることができた。
「これがソーマの種か……」
それは小指の先程の小さな種で、一粒だけが小さな透明な袋に入れられていた。
ニシキギは震える手でそれを取り出すと、自分の掌に乗せてみた。黒い艶々とした丸い種は、もちろん光りもしなかったし芽を出す兆候も現わさない。ニシキギはほっとした様子で、しかし同時にひどく落胆した様子で種を袋に戻した。
最近瑞樹はエリアGにやってこない。エリアEに入り浸っていると人が話しているのを聞いていた。
「ミント、瑞樹はどこにおるんか?」
コブが作業の傍らミントに話しかけた。
「三階の医務室で眠ってるわ」
ミントは曇った顔で答えた。
「瑞樹は日に日に弱って行くような気がする。食欲もないし、話しかけても返事がないし……地球に帰してあげないと駄目なんじゃないかしら」
「あげな状態で地球に戻してどげする? 自分の家だって家族だって覚えちょらんのじゃろうが。人格交代はせんごとなったんか?」
「前よりも不安定になってるみたい。でもどちらも弱ってるから、あまりはっきりした区別はつかないんだけど、ミズキAの時は地球玉を握りしめてるから……」
ミントは涙声で言った。コブは溜息をついた。
瑞樹は地球玉を握りしめて窓の外を眺めていた。木々の緑が目に柔らかに映る。植物たちのざわめきが耳に心地よい。
――だけど……何かが違う。
何が違うのかと聞かれても説明できないけど、何かが決定的に足りない気がした。
そうなるともう居ても立ってもいられないくらい不安になって、瑞樹は胸に下がっている地球玉を握りしめずにはいられない。
――これをくれた人……カナメという名前の人。あの人はどういう人なんだろう。
前から知ってるような気がしたし、全く知らない人のような気もする。あの紅い瞳に見つめられるとドキドキして落ち着かなくなる。
それに……自分を決定的に不安にさせているその理由を瑞樹は良く知っていた。自分が誰だかわからない、それがどんなことよりも不安になる第一の理由なのだった。なにしろ、この水色の球を握り締めると何故自分は心が少しだけ落ち着くのか、それさえも分からない。ここの人たちは私のことを瑞樹と呼ぶ。
――ミズキ……私、そんな名前だっただろうか。それに、私は二つの言葉をしゃべることができる。何故だろう。
最初に口から出た言葉は誰にも理解されなかったが、ミントを認識した途端、もう一つの言葉を使えるようになった。カナメはこの言葉を私がミントから教わったから、彼女を認識することによって思い出したのだろうと言った。自分のことを他人の方がよく知っているというのは、なんだかとても心許無い。
ドアがノックされた。返事をする。
――ミントかな?
コブだったらもっとノックの音が大きいもの。そう思いつつドアを開く。立っていたのは青い瞳を持ったあの人だった。名前は知らないけれど顔は知ってる。地球玉をもらう前、私はこの人の瞳ばかりを見ていた。目を離すことができなかった。
その人はずかずかと部屋の中へ入ってきた。
「久しぶりだな」
ニシキギは瑞樹の瞳を覗き込んだ。瑞樹は不安になって地球玉を握りしめる。
「そんなものを握りしめているということは、ミズキ・ヒュウガの方か? それがあるから俺にくっついて回らなくてもよくなったわけだ」
ニシキギは複雑そうな瞳で笑った。
「あの?」
瑞樹はおずおずとニシキギを見上げる。
「お前は俺の名前さえ知らないんだろうな」
ニシキギは意地悪く微笑んだ。
「俺はニシキギだ。お前に以前ひどい目に遭わされたことがある」
「あの……ごめんなさい、私、何をしたんでしょうか?」
瑞樹は目を見開いてニシキギを見つめた。
「今日はお前じゃなくて、もう一人のミズキBの方に用事があって来たんだ。代われ」
瑞樹の問いは無視された。
「あの……でも、代わるって、どうやったらいいのか……」
代わって欲しいなんて言われたのは初めてだ。
「では、この前の借りを返してもらうか」
ニシキギはいきなり瑞樹を壁に突き飛ばした。背中を壁に強かに打ちつけて瑞樹は呻いた。慌てて瑞樹が体勢を整えようとした瞬間、強い力が瑞樹の両手頸を頭の上で重ねて押さえつけた。治りかけの左手首がひどく痛んで瑞樹は顔を顰める。
「おっと、また投げ飛ばされてはかなわない。この前は油断したが、もうあんなことはさせないからな。記憶を失くしていても体で覚えていることはできるもんだろ?」
足をジタバタさせてもニシキギの体はびくとも動かない。
「やめてください! 大声を出しますよ」
瑞樹はニシキギを睨みつけた。
「出せるものならな」
ニシキギは薄く笑むと瑞樹の首筋に銃口をあてた。瑞樹は首筋に当たる冷たい感触に震え上がった。
「私を……殺すの? そんなひどいことされるようなことを……私は……したの?」
声が震える。恐ろしさとともに、何か説明のできない感情が込み上げてくる。
――なんだろうこの感情は? 後ろめたさ? 分からない。でも、私はこの人が怖い。首にあてられた銃とは別の理由でも……怖い。
「殺しなどしないさ。言っただろう? 俺は人格交代をしてほしいだけだ」
ニヤリと笑ってニシキギは引金を引いた。
鋭いショックが全身を駆け抜ける。気を失ってはいけないと思うが力が抜けてゆく。
――駄目なのに、意識を手放してはいけないのに……。
すっかり抵抗をしなくなってぐったりとした瑞樹をかかえてニシキギはベッドまで運ぶ。
「さあ、出てこい、ディモルフォセカ」
ニシキギはソーマの黒い種を瑞樹の手に握らせた。
一旦閉じられた瑞樹の目が開き、ゆっくりとニシキギに焦点を合わせた。
「っ痛い、青年! 女の子にこんな乱暴をしちゃいかんよ」
瑞樹は首筋をさすりながらゆっくりと起き上がった。瞳の奥に強い光が宿っている。
ミズキAでもミズキBでもないとニシキギは目を見張る。
「君があんまりひどいことをするからハニーもチビも敵前逃亡だ。お陰で僕が浮上できたけどね」
不敵な表情で瑞樹が笑った。
「……お前は誰だ?」
「ハルって呼ばれてたよ」
不敵な瞳でにっこり笑う。
「第三の人格って訳か?」
「人格って言うのかなぁ」
ハルは呑気そうに答えた。
「俺はディモルフォセカに用があるんだ。代われ」
「だーら言ったろ? ハニーも君が沈めちゃったって……しばらく交代は無理だな」
「お前、男なのか?」
――いったいいくつ人格が入り込んでいるんだ。
ニシキギは忌々しそうに呟く。
「いや、男じゃないだろうよ。女でもないだろうけど」
ハルはふと手の中にソーマの種があることに気づいた。
「なんだ? これ、ははん、ソーマの種か」
ハルはソーマの種を掌でころころと転がした。
「お前には関係ない。返せ」
ニシキギはハルを睨みつけた。
「さては、君、ハニーに持たせて森の民かどうか試そうとしてた?」
「お前はハル人なんだな? 誰なんだ?」
ソーマの種のことを知ってる、つまりハルの人間だ。
「だからハルだって名乗ってるじゃん」
ハルはけらけらと笑い転げた。ニシキギは思いっきりむっとする。
「ハニーなんかに持たすなよな、こんなの」
ハルは急に鋭い目つきになって、ソーマの種を力いっぱい握りしめた。
ハルの握り拳がパアッと眩しく光って、次に手を開いた時には真っ白なソーマの種が三つ並んでいた。
「白い種が……」
ニシキギは驚愕する。
力の強い人で五つくらいかな……アーマルターシュの声を思い出す。
五つというのはすべての力を使い果たしての数だ。三つも、しかも花を咲かすこともなく白い種を出したのにハルはぴんぴんしている様子だ。
「お前は……何者だ?」
ニシキギは低く唸った。
「マナーも悪い上に、物覚えまで悪い兄ちゃんだな。ハルだって言ってるだろ? 何度言わせるんだ」
「森の民なんだな?」
「いやー、森の民ってゆー訳じゃない」
「じゃあ、何故白い種を出せた?」
「あのねー、森の民は黒い種で白い花を咲かせんの。おわかり? 花なんて咲かせなかっただろ? まったく、ものを知らんなぁ」
ニシキギは呆然としたまま動けない。
「なぁ、ところで腹減ってるんだけど。瑞樹のやつ、ほとんど食べ物食べないでボケボケしてたから、力でねーって。白い種だってたったの三つだぜ。情けねー」
戸口でミントが目を見張って立ち尽くしているのが見えた。
「おお、ミントじゃねーか。なあなあ、腹減ってるんだけど、なんか食べさせてよ」
「瑞樹?」
「あー、瑞樹ならどっちもこの兄さんが沈めちまった。僕はハルって名前だ。ハルって呼んでくれよ」
ハルはあっけにとられているミントの肩を抱いてさっさと部屋を出て行ってしまって、呆然としたニシキギとソーマの白い種だけが取り残された。
* * *
「ハル、早くおいでよ」
ミントが嬉しそうに手を振った。
「おう、ちょっと待てよ。この髪の毛が枝に引っかかって……ええい、面倒くさいな。おばちゃん、その鋏ちょっと貸して」
ハルは近くで枝の剪定をしていたファームの民に声をかけた。
「いいけど、あんまり枝をたくさん切るんじゃないよ。ちょっとひっぱれば絡んだ髪の毛なんてすぐにとれるのに……」
おばちゃんはブツブツ言いながらそれでも鋏を貸してくれた。
「だいじょーぶ、大丈夫」
ハルはにやりとして腰まであった栗色の長い髪の方ををばさりと切り落とした。おばちゃんは目を丸くする。
「きゃー、ハルったら……」
ミントが悲鳴を上げる。
ハルは気に留めずに切り落とした髪を選定された枝が入っている籠にばさりと投げ入れた。
「すっきりしただろ?」
少年のようになってしまった髪でハルは輝くように笑った。
「瑞樹が知ったら悲しむわよ、きっと」
「そっか? 案外気にいると思うぜ。なんたって洗う時が楽だ」
「ハルぅ」
「さて、行こうぜ」
ハルになってからの瑞樹は、ミントとエリアEの中を毎日のように駆け回っていた。湖で泳いで魚を追いかけたり、木の実をとったり、種を発芽させて植えたりした。その間、ミズキAとミズキBはなりを潜めたように現れなかった。
ハルは二人が回復するための深い眠りについているのだと言った。
「ミント、内緒だぜ?」
そういいながらハルは種を手の上であっという間に発芽させた。
「ハルって森の民なの?」
「違うよ、でもこのことは内緒だからな」
ミントはこくりと頷く。
「ミント、見てろよ」
ハルは草むらにいた小さな緑色の虫を捕まえると、掌でぎゅっと握りしめた。ミントが悲鳴を上げる。
「ほら!」
ミントは顔を掌で覆ったまま見ようとしない。
「大丈夫だって、見てみ」
ハルの掌にあったのはつぶれた虫の死骸ではなく紫色の翅を擦り合わせて鳴く虫だった。リンリンと鈴をふったようないい音がする。
「手品みたい。どうやったの?」
ミントはハルの掌を見つめる。
「この虫なら葉っぱは食べない。枯葉を食べるから土が肥える。しかもいい声で鳴く。一石三鳥だろ?たくさん捕まえて変えてやろう」
ハルはしばらくの間虫取りに夢中になっていた。
ハルはたくさん遊んで、たくさん食べて、たくさん笑った。
「瑞樹のことは心配だけど、ハルが来てくれて良かった。なんだか最近エリアEの植物がすごく元気だよ。瑞樹の体も良い調子みたいだし」
ミントが嬉しそうに笑った。
湖に浸した足で水を跳ね上げながらのんびりと天井を見上げていたハルは振り返って微笑んだ。
「ミントが一緒だったからとても楽しかったよ」
ハルの言葉にミントは不安になる。
「ハル?」
「本当に楽しかった。昔みたいだった……ミントはいい子だ。いつまでも健やかでいろよ」
「ハル……どこかに行っちゃうの?」
「そろそろ行かなきゃな、限界も近いし、最後にしておきたいこともあるし……」
「どこかへ行くの? ねぇ……昨日の夜、端末で何をしていたの?」
昨夜遅くにハルがコンピューターの端末の前に座っているのを見かけたのだが、なんだか怖くてミントは声をかけられなかったのだ。
小さな瑞樹の背中のはずなのに、なにか途轍もなく大きな力を発散しているようで、近寄りがたい雰囲気だったのだ。
「……ミントさぁ、セージと本当に結婚するのか?」
ハルが上目づかいでミントを見つめる。ミントの質問には答える気が無いらしい。
「なっ、何を言ってるの? って、なんでハルがセージのことを知ってるの?」
突然の話題の変更でミントは慌てふためく。そんなミントの動揺ぶりを見ながら、ハルは盛大に溜息をついた。
「あいつ……ファームの民としてはサイテーだぜ?」そして小さく吹き出した。「お前にべた惚れだし、いいやつなんだけどなぁ……それでも、お前は苦労するだろうよ」
ハルはにやりと笑う。
「わ、私のことはどうでもいいのよ! ハルのことを訊いているんでしょう?」
「……カナメを公安から取り戻してくるよ」
ハルは立ち上がった。
「え?」
「どんな理由であれ、人の想いや人生を踏み台にしてはいけない。やつらにそんなことはさせない。ちょっくらエリアEを出てくるよ。大人しく待ってな」
ハルはとびきり優しい瞳でミントを見た。
「なんのこと? カナメさんならアグニシティに行ってるって聞いたわ。どうして公安に捕まるの? どうしてそんなことがハルに分かるの?」
ミントが問い詰めているところにコブが青い顔をして小走りにやってきた。
「瑞樹! カナメが公安に捕まったち連絡が入ったんじゃけど……どういうことかようわからんのじゃけど、あんたに証人として出頭するようにと公安が言っちょる」
コブはオロオロしていた。
「落ちつきなよ、コブ」
ハルはにっと笑って見せると、じゃな、とミントに手をヒラヒラ振ってエリアEを後にした。
* * *
マーガレットは怯えていた。
さっきから何かが部屋の中にいる、そんな気がして仕方がないのだ。気配がするので振り向く。そうすると気配が消える。それを夜中まで繰り返して、とうとう眠ることを諦めたマーガレットは映像ルームへ向かった。何か映像でも見て心を落ち着かせようと考えたのだ。
マーガレットはアーマルターシュと同じようにフォボスで森の民の監理官をしていた。
『マーガレット』
その声はマーガレットの頭の中でおどろおどろしく響いた。
女性の声だ。聞き覚えのある声。映像ルームに入った途端、その声はどこからともなく響いた。
「だっ、誰なの? で、で、で、でてきなさいよっ」
『……助けて、助けてちょうだい』
「ひっ!」
マーガレットはあとずさる。
『私には息子がいるのよ……死にたくない、お願い助けて……』
白い手がマーガレットの手首をつかむ。
「きゃ――」
――森の民だ! あの女だ!
真っ暗な穴の中を落ちるような感覚が襲い、マーガレットは意識を手放した。
『いいか、記憶しろ。カナメ・P・グラブラの証人が見つかった。明後日、アンドロイドを交えた証人喚問を開催する。そうラークスパーに伝えるんだ。忘れるな』
薄れゆく意識の中でマーガレットは有無を言わさぬ、何者をも従わせる声を聴いた。
マーガレットは記憶に刻みつける。
「私は明日、アンドロイドを交えた証人喚問を行うことをラークスパーに伝える。開催は明後日、証人は……」
『ミズキ・ヒュウガだ』
「ミズキ・ヒュウガを証人として迎える」
『それでいい』
声は消えた。
マーガレットははっと目覚めて、自分が自分の部屋のベッドにいることに気がついた。日付は次の日になっていた。
* * *
柿はたくさんの白い花をつける。その後に小さい緑色の柿の実が結ばれるが、その半数近くは大きくならないまま落下する。大きい柿の実になるものと落下するもの、その選択は柿の木がするのだろうか実がするのだろうか。前者ならば自然の毅然としたあり方への恐れを感じ、後者ならば自己犠牲に対しての切なさを感じる。自然は毅然としていて気高く……残酷だ。